第176話 第二章「敵側の案内人」後編
「秒は」
七瀬が訊いた。
真壁は壁時計を見る。
「三十八秒」
「正確」
「正確でなければ、同時にはできません」
由良は、三枚目の地図条項へ手を置いた。
「複写するな」
「地図の添付はありません」
「口頭で聞いても書くな」
「必要な通行許可番号だけを記録します」
「許可が出ない道もある」
「出ないことを記録します」
由良は、この副隊長も嫌いになれそうだと思った。
きちんとした人間は、きちんと間違える。
「隊長は」
凱が訊いた。
「最終検問で待機しています」
「命令系統を確認したい」
「入境手続き後に」
「いま聞く」
「いまは条件書の受領です」
「条件を受け取る者が、誰の命令で受け取るかを聞いている」
「共同境界室の通行許可。現場運用は境界警備隊長。越境者の行政扱いは両都市照合官」
「衝突した場合」
「上位命令を確認します」
「確認中、現場は誰が止める」
真壁の鉛筆が、一瞬だけ動かなかった。
「隊長です」
「隊長が止めない場合」
「副隊長が進言します」
「進言が退けられた場合」
「質問の範囲が、条件書受領を超えています」
「超えた先で人が撃たれる」
凱の声は大きくない。
大きくないのに、部屋の椅子が一脚ずつ背筋を伸ばすようだった。
由良は、彼が王と呼ばれていた理由を少しだけ理解した。
同時に、理解したくないとも思った。
人を立たせる声は、人を座らせない。
真壁は炭紙の角を揃えた。
「私は、命令を受領した時刻と内容を記録します」
「従うかどうかは」
「命令の適法性を確認してから答えます」
「確認中に発砲命令が出たら」
「それも、受領時刻を記録します」
答えになっていない。
けれど、何も考えていない人間の答えでもなかった。
真壁が書類を持って出ていく。
扉の外、廊下の奥に大きな影があった。
石灰色の長外套。
両肩へ、壁のような金属板。
長い暗褐色の髪を後ろで金属輪に通し、右手には古い鍵を握っている。
男は固定床の上で、ほんのわずかに揺れていた。
まるで止まった地面より、自分の身体の方を疑っているように。
由良は、その名を呼ばなかった。
男も、こちらを見ただけだった。
廊下の兵が踵を揃える。
「境界警備隊長、巌門崇牙閣下」
「閣下は要らん」
男の声は、低く、石壁の内側から響いた。
「この線では、役職だけで足りる」
由良は胸の索を一度だけ引いた。
「役職で家を建てる人は、柱が折れた時に名前が残らない」
巌門の錆金色の目が、由良へ向く。
「鷹取。おまえは、我が民を天環へ売るのか」
「売るなら値段を聞く」
「いくらだ」
「本人の一言」
「安いな」
「払えない城主が多い」
巌門は古い鍵を握った。
「明朝、第一白線を開ける。条件書は認める。ただし、線を越えた後は境界規則に従え」
「規則と命令が喧嘩したら」
凱が訊いた。
巌門は凱を見た。
二人の間に、同じ種類の沈黙が立った。
人を並べることを知っている者同士の沈黙だった。
「規則を守るために命令がある」
巌門が言う。
「なら、命令が規則を破る日は来ないか」
「来させない」
「誰が」
「私がだ」
由良は、その答えが嫌いだった。
一人で守れると言う者は、一人で壊せる位置へ立っている。
巌門は踵を返した。
金属靴が、白と黒の床のどちらにも乗らず、中央の灰色を踏んだ。
彼が去った後、由良は卓上の三枚へ小石を置いた。
風はない。
それでも紙の端が、見えない車輪に引かれるように、かすかに震えていた。