第175話 第二章「敵側の案内人」前編
一月二十四日 午後零時十九分
鷹取由良は、地面の上で話し合うのが嫌いだった。
嫌いというより、長く止まっていると足裏が落ち着かない。
剛嶺では、道が朝と夕方で同じ場所にあるとは限らない。車輪の都市は重い。重い物は、動いていないように見える時ほど、地面のどこかを押し潰している。幼い頃、由良は寝床の板が三寸ずれた夜に目を覚まし、翌朝には隣家の煙突が窓の外から消えていた。
だから、固定された床は信用できない。
動かない物は、動かないと決めた誰かを隠している。
境界連絡室の床は、白と黒の石板が交互に敷かれていた。天環側の白。剛嶺側の黒。中央に灰色の一列。
由良は灰色だけを歩いた。
「座ればいい」
竜胆迅が言った。
「椅子はどっち側」
「四本足だ」
「そういう答え、剛嶺だと荷車に轢かれる」
「天環でも、たまに轢かれる」
「自慢にならない」
「してない」
迅は壁際へ立っていた。壁へ背はつけず、扉二つと細い換気窓が見える角度を取っている。検査官から巻かれた灰色の封印帯が、両手首を一周していた。帯は手を縛らない。ただ、急な伸展や強い衝撃を拾うと赤い染料が浮く。
攻撃したという証拠になる。
証拠が先に用意され、人間の理由が後から尋ねられる仕組みだった。
由良の両手首にも同じ帯がある。
剛嶺側の斥候長だから免除される、と境界兵は言った。由良は断った。片側だけが武器を持てる交渉は、交渉ではない。狩りだ。
ただし胸の牽引索は預けなかった。
赤い二本の索は身体補助具として許可された。金具は封印され、背の凧骨は畳んだまま留められている。走るための身体を持ちながら、走る仕組みだけを止められると、骨の内側が痒くなる。
由良は灰色の石板を三往復した。
「条件を言う」
卓の向こうには、迅のほかに獅堂凱、火群七瀬、伏見轟、環玉樹、朽葉真琴がいた。
多い。
由良は人が多い話し合いも嫌いだった。
責任は人数へ割ると薄くなるのに、声だけは人数分うるさくなる。
「第一。見つけた者を、天環へ連れて行かない」
「分かった」
迅が言った。
「待ってください」
真琴が同時に言った。
由良は迅を見た。
「今、分かったと言った?」
「言った」
「一息で?」
「長く言う必要あるか」
「あるかもしれないから、こいつが止めた」
由良は顎で真琴を示した。
真琴は丸眼鏡の位置を直した。金属の紙留めを預けたため、書類の角を糸で縫っている。左利きの手つきは細かいが、署名欄だけ右手で書く。変な人間だ、と由良は思った。
ただし、変な人間は嫌いではない。
変であることを、正しいふりの裏へ隠す人間が嫌いだった。
「鷹取さん」
「由良でいい。敬称は距離が分からなくなる」
「では由良。あなたの第一条件は、天環側が行方不明者の目的地を決定しない、という意味ですか。それとも、本人が天環へ行くと選んだ場合でも認めない、という意味ですか」
「天環へ連れて行かない」
「主語を補ってください」
「おまえたちが」
「本人が自分で歩く場合は」
「……止める」
「誰の権限で」
由良の足が止まった。
止まると、床が重くなる。
「剛嶺の人間だ」
「全員が?」
「剛嶺の名簿にいる」
「名簿に載せた側が所有者になるなら、天環の名簿へ載った人も天環の所有物ですか」
「一緒にするな」
「違いを説明してください」
「剛嶺は、あいつらの家だ」
「家を出る権利は」
「家が動いてる時、勝手に降りれば死ぬ」
「境界で止まっている今は」
「止まってない」
由良の声が、思ったより強く出た。
室内の全員が、目ではなく身体で静かになった。
その静けさが腹立たしい。
剛嶺は、巨大な都市車輪の集合体だ。全部が同じ方向へ走るわけではない。外周梁が止まっても、内環の工房は回る。水塔の位置が変わり、住居区が地面を替え、昨日の隣人が今日は三層下にいる。
外の人間は、動く街を自由だと思う。
由良には、動くことしか許されない時の不自由も見えている。
「剛嶺を降りた者が、必ず自分で降りたとは限らない」
由良は言った。
「借金で落とされた者もいる。仕事場から追われた者も。荷台が切り離された時、そこに乗っていただけの者もいる。天環へ来たと書けば、剛嶺は戻さなくていい人間にできる。天環が受け入れたと書けば、天環は元から自分たちの避難者だったことにできる。私は、それを止めに来た」
「だから、本人にも帰れと言う?」
迅が訊いた。
「帰ると言わせる前に、帰れる場所を残す」
「順番が逆だ」
「おまえは、帰る場所を一つ壊してから選ばせるのか」
「壊すとは言ってない」
「天環の検問へ連れて行く。それだけで、剛嶺では裏切り者になる地区がある」
「それは地区が決めたことだ」
「地区で生きるのは本人だ」
「本人を地区へ戻すのも、おまえが決めることだろ」
迅は声を上げなかった。
だから言葉が逃げなかった。
由良は、胸の索へ指を掛けた。巻かない。巻けば白くなるまで締める。
真琴が、今度は割り込まなかった。
この男は意地が悪い。
問いを投げた後、答えるまで待てる人間は、短気な人間よりたちが悪い。
「……第一条件を言い直す」
由良は灰色の石板を一枚進んだ。
「見つけた者を、天環へ運ぶことを既定にしない。剛嶺へ戻すことも既定にしない。本人が選ぶ前に、どちらの名簿も処理を終えない」
「処理とは」
「受入れ、送還、拘束、死亡、所在不明の確定」
「それなら合意できます」
真琴。
「おまえの許可を待ってない」
「私も、許可を与えていません。条件が言葉として成立したと確認しただけです」
「面倒な言い方をする」
「面倒な事柄を、簡単な言葉で済ませた結果が境界でしょう」
由良は笑いかけた。
寸前でやめた。
この男を好きになると、たぶん書類が増える。
午後一時二分
第二条件は、名簿を双方へ同時に渡すことだった。
由良は卓の中央へ、折り畳んだ麻紙を置いた。
七瀬は撮影機を向けない。
先ほど「回すな」と言ったことを覚えている。覚えているだけでなく、何を撮らないかの理由を自分の紙へ書いていた。
由良は、記録する人間を信用していない。
記録しないと決めたことまで記録する人間は、もう少し信用しにくい。
「開けていい?」
七瀬が訊いた。
「手で。機械はなし」
「了解」
「了解した顔じゃない」
「顔は同意書ではありません」
「便利な顔だな」
「よく言われます」
「嘘」
「初めて言われました」
七瀬は麻紙を開いた。
十二行。
一行ごとに、名前、地区、仕事、身体的特徴、最後に見た場所が書かれている。だが由良の字は、天環式の縦書きでも剛嶺の輪記でもない。矢印と距離が文章の間へ挟まり、名前の横へ、どの車輪区画から見てどちらへ移動したかが記されていた。
人の名簿というより、十二本の失われた道だった。
「これが十二人分?」
七瀬。
「十二の名。人間の数はまだ言えない」
「同一人物の候補を示してください」
真琴が自分の書類を開いた。
天環側の八名。
《灰谷ナツ》
《間宮努》
《相良ミイ》
《紙屋セツ》
《牧田蓮》
《川路オト》
《氏名不詳・男・推定五十代》
《氏名不詳・子ども・性別非公表》
剛嶺側の十名。
《石輪ナツ》
《北梁二番のツトム》
《焼炉ミイ》
《白車セツ》
《端索レン》
《風棚オト》
《外輪三十二号》
《煤寝台の子》
《石灰番キリ》
《水尾ハナ》
由良の十二名には、その両方と似た名が混じる。
ただし、同じ綴りが同じ人間とは限らない。
「灰谷ナツと石輪ナツは同じ」
由良が言う。
「根拠」
「右手首の傷。糸車の歯で切った。石輪は仕事場の呼び名」
「本人が最後に使った名は、灰谷ナツです」
七瀬が言った。
「誰から聞いた」
「母親」
「母親が最後に聞いた名だろ」
七瀬の目が、少しだけ細くなる。
「本人に確認するまで、そう記録します」
「母親の言葉を捨てる?」
「捨てません。本人の欄と、家族の申告欄を分けます」
「欄を増やせば、迷わなくて済む?」
「迷ったことを消さずに済みます」
由良は麻紙の端へ置いていた小石を一つ動かした。
剛嶺を出る時に拾った石だ。
固定された地面へ置くと、帰る方向が分かる気がする。
実際には分からない。
役に立たない物ほど、長く持つことがある。
「第二条件」
由良は言った。
「この名簿を、天環と剛嶺へ同じ時刻に渡す。どちらかが先に受け取れば、自分たちに都合のいい名前へ直せる」
「誰へ渡すのですか」
真琴。
「天環側の境界記録室。剛嶺側の移動戸籍車」
「受領後の複写権限は」
「同じ」
「公開範囲は」
「同じ」
「同じだと不公平です」
七瀬が言った。
由良は石から目を上げた。
「どうして」
「天環側には、柵外で待つ家族がいる。名前を公開すれば家族照合が進む。でも剛嶺側で同じ範囲を公開すれば、地区を離れた人を仕事場や債権者が追跡できる。受け手の力が違うのに、同じ情報を渡したら結果は同じになりません」
「天環だけ家族照合に使わせろと?」
「違います。本人確認前は、双方へ照合符号だけを同時に渡す。氏名、顔、家族住所は別に同意を取る」
「照合符号を決めるのは」
「双方から一人ずつ、家族側から一人、本人が選ぶ一人。本人が選べない時は、仮番号のまま」
「遅い」
「速く間違えた名簿を、二つ持っています」
由良の胸へ、言葉が刺さった。
刺さる言葉は、正しいとは限らない。
だが痛む場所には、たいてい何かがある。
「同時に渡すことは変えない」
「時刻は同時。内容は、本人が許した範囲」
「本人が天環だけに渡すと言ったら」
「そう記録する」
「剛嶺の名簿が空く」
「空欄は、嘘の名前よりましです」
「空欄の人間へ、食料は配られない」
由良は自分の声が低くなるのを聞いた。
「車輪区では、名前がない者に寝台も水も回らない。番号だけの人間は、荷物と同じ配給列へ置かれる。名前を伏せる権利で、生活が消えることもある」
「だから、本人へ説明する」
七瀬は譲らなかった。
「名前を出した時に得るもの。失うもの。出さない時に得るもの。失うもの。全部。二十八分の映像より長くなっても」
「機械は二十八分だろ」
「口は容量制限がありません」
「それは欠点だな」
迅が言った。
「あなたほどでは」
「俺は短い」
「短い言葉は、たまに説明を踏み倒します」
「長い言葉は、たまに相手を置いていく」
真琴が七瀬を見た。
「それは私への攻撃ですか」
「攻撃なら封印帯が赤くなる」
タマキが、卓の端で鏡を磨きながら言った。
検査で残された丸鏡は、縁が木でできている。医療確認用と申告した。実際、目や口の中を見ることもできる。靴底を見ることも、角の向こうを見ることもできる。
用途が一つしかない道具は、境界ではすぐに敵か味方へ分けられる。
用途の多い道具は、説明に時間がかかる。
「第三条件」
由良は言った。
「私の地図を、記録しない」
「了解」
七瀬。
「今度はすぐ言う」
「あなたが所有する地図です。通る許可まで所有しているかは、別途確認します」
由良は七瀬を睨んだ。
「誰に教わった」
「あなたに」
「一時間前の私から学ぶな」
「記録者は、更新が仕事です」
由良は、今度こそ少し笑った。
笑いは短く、喉に引っかかった。
午後三時四十一分
合意文は、三枚になった。
一枚目。
《調査班は、発見者の目的地を事前に決めない。》
二枚目。
《名簿の存在と受領時刻は双方へ同時に通知する。個人情報は、本人が選んだ範囲で別送する。》
三枚目。
《鷹取由良の私的地図は複写・撮影しない。通行権は地図所有者と別に確認する。》
末尾に、由良、迅、七瀬、凱、真琴、轟、タマキ。
七人の署名。
由良は左手で書いた。
迅は字が小さかった。
轟は筆圧が強すぎて、二枚目まで名前が凹んだ。
タマキは署名の横へ《運送料別》と書き足し、真琴に消された。
「重要なのに」
「後で契約を分けます」
「後で払わない人が、一番多い」
「払う」
凱が言った。
「誰のお金」
「俺の」
「王だった時の?」
「今、働いて得た分だ」
「じゃあ二割引き」
「なぜ」
「昔の王から取ると税みたいになる。今の凱から取るなら仕事」
凱は一度、タマキを見た。
「定価でいい」
「見栄」
「対価だ」
「見栄も対価になる」
由良は、こんな会話をする人間たちが境界へ何をしに来たのか、分からなくなった。
分からないことは、少し安心する。
最初から分かりやすい集団は、たいてい誰か一人の言葉で全員が動く。
連絡室の外で、金属靴の音が止まった。
全員の顔が扉へ向く。
扉は内側へ開いた。
先に入ってきたのは、境界警備の副隊長だった。背は高くない。灰色の外套をきっちり閉じ、左胸へ三本の記録鉛筆を同じ長さで差している。二十代の終わりほど。黒髪を耳の後ろで切り揃え、炭紙の束を抱えていた。
「天環側副隊長、真壁梓です」
声は細いが、語尾が落ちない。
「共同調査の条件書を受領します。原本一、双方複写一、調査班控え一。受領時刻、十五時四十四分」