第174話 第一章「境界線の荷物検査」後編
午前十一時二十七分
検問橋の向こうで、赤い線が空へ伸びた。
七瀬は最初、それを旗の索だと思った。
違う。
細い人影の胸から、二重の牽引索が後方の鉄柱へ張られている。灰色の片肩外套。背へ畳まれた金属の凧骨。黒髪を高く結び、顎へ白い石灰の一本線。
人影は、第三柵の支柱を蹴った。
雪を落とさず、柵の横梁へ乗る。
止まった時は細い。
走ると、索と外套が三角形へ広がる。
「そこ、立入禁止だ!」
警備兵が叫ぶ。
「知ってる」
女の声は鋭く、よく通った。
「禁止線は、そっちが昨日三歩動かした」
「下りろ!」
「命令書の番号」
「何だと」
「線を動かした命令。誰が、何時に」
警備兵が答えない。
女は横梁の上を三歩走り、赤い索を緩めた。背の凧骨は開かない。金属音だけが冬の空気を切る。
迅が目を細める。
「近道だな」
女は遠くから聞き取った。
「誰の地図で」
「俺の足」
「足は、墓を避けない」
「墓があるのか」
「ある。道もある。おまえの物じゃない」
女は柵の中央へしゃがみ、七瀬たちを見下ろした。
薄い灰色の瞳。
右足首がわずかに外へ開いている。
止まった姿勢のまま、身体のどこかが走り続けているようだった。
「空白の旗〈ブランク〉か」
「案件名です」
真琴が答える。
「所属じゃないと言いたい?」
「所有されていない、と」
「所有してない顔で、よその人間を連れて帰るのか」
女の視線が、待機地の家族へ動いた。
「天環の発表は八人」
七瀬。
「違う」
「剛嶺の照会は十人」
「それも違う」
「何人」
「十二の名がある」
待機地がざわめいた。
女は、ざわめきへ顔を向けない。
「ただし、十二人とは限らない。同じ人間へ三つの名を付けて、三人にしてるかもしれない。三人へ一つの番号を付けて、一人にしてるかもしれない」
「あなたの根拠は」
七瀬が撮影機を上げる。
「回すな」
女が即座に言った。
七瀬は下ろした。
「理由は訊きません」
「訊け」
「説明しなくていい権利もあります」
「私は説明する。剛嶺の道を、天環の公開記録へ売らないためだ」
女は胸の赤索を指で巻いた。
巻きすぎて、指先が白くなる。
「鷹取由良。剛嶺〈ウォーキング・シティ〉の斥候長。行方不明者の中に、私の家の者はいない」
そこで一度、言い直した。
「私が責任を持つ地区の者がいる」
「どの人」
「それを、ここでは言わない」
「協力する気は」
迅。
「条件次第」
「金」
「帰る場所」
「同じくらい高いな」
「金は数えられる」
由良は柵から飛び下りた。
向こう側へ。
着地音は小さい。
赤い索だけが一度、乾いた弦のように鳴る。
「明日の朝までに決めろ。武器を持って来るなら、道はない。武器を置いて来るなら、道があるとは限らない」
「案内するのか」
「近道を見せる」
「同じだろ」
「違う」
由良は振り返った。
「道を知ることと、通っていいことは違う」
その背後で、外環壁の大扉が低く鳴った。
開かない。
閉まったまま、内部の錠だけが一つ、次の位置へ落ちる音だった。