第173話 第一章「境界線の荷物検査」前編
一月二十四日 午前八時十二分
「それは、誰の目ですか」
境界倉庫の検査官は、火群七瀬の撮影機を指して訊いた。
質問としては短い。
面倒としては長い。
七瀬は黒い短丈雨合羽の前を閉じ、卓上に置いた機体へ右手を添えた。手回し式の初号機は、古い真鍮の角が黒く擦れ、側面の青い旗芯〈コア・ピン〉が鈍い光を残している。
「所有者は私。記録される視点も私。映像を見た人の目までは所有しません」
「簡潔に」
「私のです」
「最初からそう答えてください」
「最初から、同じ意味で聞いてください」
検査官は眉を上げなかった。
上げないことへ慣れた顔だった。
外環壁〈ラスト・ウォール〉の北西検問橋。その天環側に建つ境界倉庫は、窓より棚が多い。壁面の鉄網へ、武器、工具、旗、装具、記録機、子どもの玩具まで、預託番号を付けて吊るす。返却を前提にした倉庫は、没収品置き場より整っていて、だから余計に、人の手から物が離れていく順番がよく見えた。
入口には成人治安隊〈グレイ・ライン〉が二列。
銀灰色の盾。
雪を払った黒い靴。
誓痕抑制具〈ミュート〉の白い箱。
線を守る人間は、線と同じ色を着たがる。
七瀬は、そう思ったことを口にしなかった。
言えば、比喩の所有者を訊かれそうだった。
「主記録機は預託対象です」
検査官が告げる。
「理由」
「旗芯を搭載している。外部送信が可能。金属三脚は打撃具に転用できる」
「外部送信は配線を外せます。旗芯は封印できます。三脚は左肩を壊すくらいには重いですが、人を壊すために持ってきていません」
「目的ではなく、可能性を検査しています」
「可能性まで預けるなら、全員を裸足にした方がいい。靴底でも人は殴れます」
背後で、竜胆迅が靴の踵を一度擦った。
検査官の目がそちらへ動く。
「今の動作は」
「癖です」
迅が答えた。
「距離測定では」
「床が傾いてる」
「三ミリです」
「知ってるなら直せ」
「検査に支障はありません」
「人は支障ある」
迅は壁を背にしていなかった。
出口が一つしか見えない配置を嫌い、棚と卓の間へ半歩ずれ、倉庫奥の搬出口を右上方の視野へ入れている。色褪せた紺の学ランは、一番下のボタンだけ留めていた。前髪の一房は、冬の光では灰色より白に近い。
右手には薄い保温手袋。
年明けの診療から三週間。
骨折はとうに癒合している。握力も夏より戻った。だが寒い朝には小指と薬指が鈍り、手首の奥が、忘れていないと知らせてくる。
検査官は迅の靴底まで見てから、七瀬へ視線を戻した。
「代替記録機を一台認めます。固定容量。交換媒体なし。送信なし。金属外装なし」
係員が卓上へ、掌ほどの黒い箱を置いた。
七瀬は持ち上げる。
軽い。
軽い機械は信用しない、というのが母の癖だった。
重さは中身の証明ではない、と知った後も、七瀬の掌にはその癖だけが残っている。
「何分」
「連続で二十八分。静止画なら百二十枚」
「途中削除は」
「不可」
「上書き」
「不可」
「故障時の予備」
「ありません」
「都合の悪い二十九分目は、存在しないことになりますね」
「撮影者の判断です」
「容量を決めたのはそちらです」
「持ち込むと決めるのはあなたです」
七瀬は黒い箱を卓上へ戻した。
持ち込まなければ、何も撮れない。
持ち込めば、二十八分を何へ使うか選ばなければならない。
全部撮れば見る側が決める。
かつて自分が信じていた言葉は、容量の数字一つで、ずいぶん頼りなく見えた。
「借用します。機体番号、貸出時刻、容量、操作した係員名を記録してください」
「係員番号で」
「氏名を公開しない選択は認めます。ただし原簿には氏名」
「境界規則では番号で足ります」
「番号の人が壊した時、誰へ修理代を請求するんですか」
環玉樹が割り込んだ。
緑のニット帽の下から、火傷で薄くなった左側頭部が少し見えている。胸より大きな配達用鉄箱は、床へ下ろされ、蓋を開けたままだった。
中身は検査卓を半分占領していた。
左右色の違う予備靴紐。
使い終わった切符十四枚。
折れた鉛筆五本。
小瓶の靴墨。
乾いた塩パンの端。
犬の名を書いた住所札。
丸い鏡。
紐の切れた方位磁針。
銅貨十九枚。
折り畳み匙。
輪ゴム。
用途不明の小さな木片。
「これは何です」
検査官が木片を摘まむ。
「橋」
「どこの」
「まだどこでもない」
「武器への転用は」
「その大きさで倒れる人なら、先に寝かせた方がいい」
「用途を」
「轟さんの失敗作。捨てると怒るから、運んでる」
伏見轟が、欠けた前歯へ舌を当てた。
「怒らん」
「昨日、捨てた人に三十分説明した」
「怒ってない。構造の話」
「声が壁を揺らした」
「壁、弱い」
身長二メートル近い轟は、橙色の工事ベストから工具を一本ずつ外していた。左肩を手術してから、工具帯は右腰へ移っている。大きなモンキーレンチ。短い釘抜き。折尺。滑車。鉄線。掌に収まる水平器。
検査官が番号札を付けるたび、轟は棚の取付部を見た。
「そこ、上段に掛けるな」
「重量基準内です」
「基準、棚一枚。隣の滑車含んでない」
「倉庫規格は」
「床、二ミリ沈んだ」
係員が足元を見る。
本当に、工具棚の右脚だけが薄く沈んでいる。
轟は右手で棚を押した。
「返す時まで持たん」
「あなたは預託者です。設備へ触れないでください」
「倒れたら、誰の工具」
「倉庫の責任です」
「なら直せ」
迅が言った。
検査官は二人を見比べた。
「似た者同士ですね」
「重さが違う」
迅。
「顔も違う」
タマキ。
「そこは見れば分かります」
「分かることを毎回訊いてるの、そっち」
検査官は、木片を預託品へ入れた。
タマキが不満そうに鼻を鳴らす。
「橋まで武器」
「模型です」
「じゃあ返して」
「投擲物になり得ます」
「人間も?」
「人間は預けられません」
「迅は拳を預けろって言われた」
検査官の筆が止まった。
迅の申告書には、武器欄へ《なし》と書かれている。
その下へ赤字。
《身体技能――打撃・投擲・関節制圧》
《誓痕〈ヴァウ・スカー〉――七退一還〈セブン・リターン〉》
《特記事項――七歩相当の後退運動を敵対準備とみなす》
「拳を預けろとは言っていません」
「手首へ封印帯を巻くんだろ」
「能力使用と攻撃準備を記録します。身体機能は奪いません」
「言い方を変えた」
「手続きです」
「手続きは、言い方で人を別の物にする」
朽葉真琴が丸眼鏡を押し上げた。
彼の前には、没収される紙留めが小山になっていた。袖口へ差していた金属片を外すたび、白い手袋の指先から黒インクが移る。
「ただし、今回の条件には同意しています。行方不明者の所在確認へ入る代わりに、武器、旗芯、公開誓戦〈オープン・ヴァーディクト〉の権利を預託する。問題は、攻撃準備の定義が検問側だけに委ねられている点です」
「異議は入境後に」
「入境後、異議を出す動作が攻撃準備へ含まれる可能性は」
「ありません」
「条文を」
「口頭説明です」
「その口頭説明へ署名を」
「私には権限がありません」
「では、今の『ありません』は誰の責任ですか」
検査官の眉が、今度は一ミリだけ動いた。
七瀬は小型機へ手を伸ばしかけ、止めた。
二十八分。
今の一ミリへ使うべきか。
使わない。
代わりに時刻と発言だけを紙へ書く。
《八時三十一分。検査官、異議動作は攻撃準備へ含まれないと口頭説明。署名権限なし。》
撮らないことは、記録しないことではない。
ただし、紙には顔の迷いが残らない。
その欠けを、自分で選んだと書く必要がある。
午前九時四十六分
獅堂凱は、白い長外套から三つの物を外した。
肩の短い旗マント。
胸の割れた青銅鐘。
黒手袋。
「手袋は防寒具です」
「拳を覆う装具でもあります」
「では全員の手袋を」
「あなたの物は内側に補強がある」
「膝装具は」
「医療具。許可します」
「鐘は」
「象徴物。群衆統率へ使われる可能性がある」
「音を出さなくても?」
「あなたが持つことに意味がある」
凱は反論せず、鐘を卓へ置いた。
金属が低く鳴った。
音は一度だけ倉庫を回り、鉄網に掛かった旗芯の間へ沈む。
凱の左膝には黒い装具。
年越しの群衆事故で腫れた分は引いている。歩行はできる。長い階段と急な方向転換を避ければ、現場指揮も格闘も可能だ。可能であることと、以前と同じであることは違う。
「王路不退〈キングス・ロード〉の発動条件〈ゲート〉を確認します」
検査官が申告書を読む。
「王と呼ぶ者の前で後退せず――」
「説明は不要だ」
凱の声は低く、倉庫の奥まで届いた。
「提出済みの能力申告書にある」
「本検問では、本人確認が必要です」
「俺は、今その誓痕を使わない」
「使わない意思と、使えない条件は別です」
「なら書け。俺は使える。使わない。使えば条件違反として責任を負う」
「発動抑制へ同意する、と」
「違う。抑制されるから使わないのではない」
「結果は同じです」
「結果が同じでも、命令の出所は違う」
凱は右手を裸のまま卓へ置いた。
「俺が選んだと書け」
検査官は、数秒黙ってから書いた。
《本人の自発的不使用宣言。違反時は本人責任。》
真琴が横から覗く。
「検問側が使用を攻撃行為とみなす点も併記してください」
「黙っていろ、真琴」
「以前なら、その一言で黙りました」
「今は?」
「但し書きを増やします」
凱はため息をつかなかった。
ため息の代わりに、鐘の鎖をきれいに丸めた。
誰かが曲げた椅子を直さずには通れない男は、置いていく物の形まで揃える。
検査官が次の品へ指を向けた。
「白布」
折り畳まれた布が、卓上にあった。
読み切りの公開決闘で、何の紋もないまま掲げられた布。
薬箱の覆いになった。
会議の空席へ掛けられた。
工場では作業停止の目印になった。
列車では降車希望の札へ切り分けられた。
舞台では非常口を示した。
年越しの会議では、誰の名も勝手に書かない座面へ置かれた。
「旗ですか、包帯ですか」
検査官が訊く。
「今日は、目印です」
七瀬が答えた。
「何の」
「まだ決めていません」
「用途未定品は預託対象です」
「用途が決まっていないから旗ではない」
真琴。
「旗へなり得る」
「包帯にもなり得る」
轟。
「雑巾にも」
迅。
「それは嫌」
タマキ。
凱は布を見た。
「指揮権を示すためには使わない。人を所属へ分けるためにも使わない。救護、位置、選択の表示へ限る」
「誰が保証します」
「俺が」
「あなたに代表権はありません」
凱の口元が、ほんの少し動いた。
「よく覚えている」
「では保証になりません」
「全員で署名する」
七瀬が言った。
「使用した場面を記録し、用途を後から変更しない。本人の選択を示す場合、本人確認を取る。指揮命令へ使わない」
迅は布の端を持ち上げた。
「汚れたら洗う」
「規則ですか」
「生活」
「重要です」
タマキが言う。
「洗う人の料金も」
検査官は白布の預託欄へ斜線を引いた。
《救護表示用品として持込可。旗芯なし。指揮用途不可。》
布の一角へ、灰色の小さな印が押された。
許可印は、布を旗にも包帯にも決めなかった。
ただ、今日できないことを一つ増やした。
午前十時三十八分
境界倉庫の外には、家族がいた。
雪を踏み固めた待機地。
暖房筒三本。
名札を下げた者。
名札を裏返した者。
名札を持たない者。
外環から来た避難者の一団が、十一日前、検問記録から消えた。
天環側の発表は八人。
拘束者なし。
剛嶺側の照会は十人。
帰還遅延者あり。
どちらの文書も、誰かを拘束したとは書いていない。
拘束されていない人間が、帰ってこない。
言葉の上では、誰も檻へ入っていない。
だから家族は、檻の場所さえ訊けなかった。
「娘の名を撮って」
灰色の毛糸帽を被った女が、七瀬の袖を掴んだ。
すぐ離す。
掴んだことを謝るように、両手を胸へ戻す。
「灰谷ナツ。十七。右の手首に、糸車で切った傷がある。剛嶺では石輪ナツって呼ばれてる。どっちでも返事する」
女は名札を表へ向けた。
《灰谷トワ》
「顔も撮りますか」
七瀬が訊く。
「私の?」
「娘さんの写真があれば、それも」
「顔を出した方が見つかる」
「見つける人だけでなく、追う人も見ます」
「もう追われてる」
「誰に」
「分からない」
「分からない相手へ、顔を渡しますか」
トワは名札の紐を握った。
答えが出るまで、七瀬は撮影機を上げない。
隣で、別の男が言った。
「名前だけでいい。俺の兄は、天環では間宮努。向こうじゃ北梁二番のツトム。顔を出すと、前の仕事先に見つかる」
「仕事先は危険ですか」
「俺には分からない。兄は嫌がってた」
「本人がいないので、公開範囲を推定するしかありません」
「推定なら、狭くしてくれ」
七瀬は紙へ三欄を作った。
《本人が使う名》
《天環式》
《剛嶺式》
本人がいない欄は空白。
トワがそれを見る。
「ナツは、自分で灰谷ナツって言う」
「最後に確認したのは」
「去年の秋」
「今も同じとは断定できません」
「娘の名前を、母親が分からないって言うの」
「分からないとは書きません。最後に本人が使った名、と書きます」
七瀬の敬語が増えた。
怒っている。
母親へではない。
自分が正しい言葉で、相手の知っている娘を遠ざけていることへ。
「名前は出す。顔は、右手だけ。傷が見えるように。家族の住所は出さない」
トワが決めた。
「途中で変更できます」
「見つかったら、消せる?」
「複写が残る可能性はあります。私が管理する原記録は、公開停止できます」
「全部は消えない」
「はい」
「正直で嫌になるね」
「嫌われる仕事です」
「好きでやってる?」
七瀬は一拍置いた。
「好きな部分があります」
トワは、そこで初めて少し笑った。
「じゃあ、嫌いな部分も撮って」
「容量が二十八分です」
「短い」
「だから、先に話します」
七瀬は小型機を上げた。
トワの顔は入れない。
名札。
右手。
娘が右手首を切った時に使っていた糸車の小さな木片。
《灰谷ナツ。剛嶺式、石輪ナツ。本人が最後に使った名、灰谷ナツ。右手首に糸車の傷。家族住所は非公開。》
十七秒。
残り、二十七分四十三秒。
容量は減った。
代わりに、何を撮らなかったかが決まった。