第172話 第十二章「期限のある議会」後編
学塔区では、《分かりません》札を青、《質問があります》札を黄、《いまは答えません》札を白にした。色だけに頼らず、形にも切欠きを付ける。巴の案ではない。学塔の学生が、巴の丸印は全部同じに見えると文句を言って作り直した。
王環第二待合所では、聞かない別室の長椅子を一脚増やした。構内放送だけを聞く札、地区放送も聞く札、途中で変える札。清掃係は、札を置いた後で床を掃き、三枚とも同じ大きさの埃を被るよう並べ直した。
八枚とも、成功報告ではなかった。
南環の乾燥網は一枚を縮ませた。北塔の手すりは雪かき道具へ当たった。東門の鋼箱は床下点検口を半分塞いだ。学塔の青札と黄札は薄暗い場所で見分けにくかった。
巴は《修正済み》と書かず、《次の確認》と書いた。
成立した制度は、朝になると修理予定になる。
中央事務局は、巴へ常設通訳者の辞令を出した。
机。
給金。
住居。
医療費補助。
人工内耳の調整費。
右手の治療。
条件はよかった。
「受けません」
巴は辞令を読んでから言った。
書記が驚く。
「理由を聞いても」
「中央の正式文を、私が確認する立場になる」
「専門家が必要です」
「複数必要です」
「あなたが育てればいい」
「私の認証を通らなければ平文でない、という制度になります」
「資格制度は必要でしょう」
「必要かもしれません。私が一人目である必要はない」
「では、誰が」
「地区ごとに確認者を二人以上。互いの文を交換。利用者が難しいと言える欄。通訳者へ異議を出す窓口」
「質がばらつく」
「ばらつきを記録します」
「誤訳が出る」
「出ます」
「責任は」
「担当者と手順に分けます」
「あなたが中央にいた方が早い」
「早いです」
「なら」
「早さが権威になります」
書記は辞令を見た。
「給金も断る?」
巴は少し迷った。
「研修設計の報酬は請求します」
「そこは受けるんだ」
「仕事です」
カナタが横から言う。
「名言にしづらい」
「しなくてよい」
巴は常設席を断った。
代わりに、六週間の確認者研修案を残した。
最初の講義は「短くする前に、何を落とすかを言う」。
二回目は「分かった、と言われた時に終わらない」。
三回目は「通訳を断る権利」。
四回目は「専門家へ異議を言う方法」。
講師名の欄は空白にした。
自分だけで埋めないために。
研修案を提出する前に、巴は一度だけ試した。
旧待合室の黒板へ、大きく書く。
《誰でも参加できます。》
「分かりやすい」
中央事務局の書記が言った。
巴は八地区の確認者へ、赤いチョークを一本ずつ渡した。
「壊してください」
「文を?」
「はい」
南環の柏木が、《誰でも》へ線を引く。
「湯の仕事を知らなくても、費用を決めるのかい」
北塔の若者は、《参加》を囲む。
「配給を受けるだけで、門の閉鎖まで決めるのか」
西市場の魚住は、《できます》を消す。
「店主が寝床を握っていても、できると言い切る?」
東門の女は、文末へ書き足す。
《どこから。》
零番街の記録員。
《住所を書かずに。》
学塔の学生。
《質問だけでも。》
北工区の夜勤工。
《働く場所と寝る場所のどちらで。》
王環の老女。
《途中で帰っても。》
一行の平文は、赤線と追記で読めなくなった。
書記が言う。
「最初より難しい」
「はい」
巴。
「失敗では」
「何を訊く必要があるか、増えました」
「完成文は」
「案件ごとに作ります」
「毎回?」
「毎回」
「効率が」
「短く使える型は残します。参加者、対象、時間、拒否、変更、記録範囲」
「六項目も」
「六つで済む時だけ」
カナタが、黒板の下へ小さく書いた。
《上演時間 未定》
巴は消す。
「なぜ」
「研修です」
「分かりやすい」
「演出です」
「演出も必要」
「必要です。誰がしたか書く」
カナタは赤鉛筆で、自分の名を書いた。
《時間表示案 紅葉カナタ》
「採用?」
「検討」
「拍手は」
「不要」
「厳しい」
確認者たちは、壊れた一行を複写した。
正解文としてではない。
簡単な言葉ほど、簡単に誰かを外へ置くことがある。その見本として。
巴は講師名の空白を見た。
そこへ自分の名を書けば、初回の責任は明確になる。
同時に、次の講師が「一文字巴の方式」を守る仕事になる。
彼女は講師欄を二つに分けた。
《進行》
《異議担当》
初回の進行へ、自分の名を書く。
異議担当には、学塔の学生が名を書いた。
一人で始めないことと、自分が始めた責任を消すことは違う。
巴は、ようやくペンを置いた。
隣の机では、榛名が補正命令を一枚ずつ写していた。
王環、四分。北工、四十秒。学塔、三十二秒戻し。南環、十三秒。残る四地区も、命令時刻、実施者、補正前記録の扱いまで書く。
「補正前の紙を捨てろとも命じた?」
カナタが訊く。
「命じた」
「現場は残した」
「命令違反に助けられた」
「その言い方、舞台なら拍手が来る」
「拍手は要らない」
「俺も」
榛名の腕章の下には、白い札が縫い付けられていた。
《本件時刻管理から外れる。審理まで命令不可。》
縫い目は九つ。最後だけ幅が違う。
「ずれてる」
「見れば分かる」
「直さない?」
「縫った時刻と手を記録した」
「影響されてる」
「必要な部分だけだ」
榛名は謝罪文を書かなかった。処分も自分で決めなかった。自分が命じ、部下が実施し、一部の現場が拒否して記録を残した。その三つを別々の欄へ書いた。
一月三日 午後四時五十一分
八枚の時計が、中央会場へ戻ってきた。
どれも、中央時刻へ揃え直されていない。
南環の札には《十三秒進められた》。
北塔は《二十一秒戻された》。
西市場は《二十三秒進められた》。
東門は《十九秒進められた》。
零番街は《七秒戻された》。
北工区は《四十秒進められた》。
学塔区は《三十二秒戻された》。
王環第二待合所は《四分進められた》。
それぞれの札に、補正前、補正後、命令者、実施者、補正を知った時刻が別々に書かれている。
「修理しないのか」
迅が訊く。
「機構は修理する」
時計技師が答える。
「針を同じ時刻へ戻さない」
「使えない」
「展示用だ」
「記念?」
カナタ。
「監査資料」
七瀬。
「客が来ない」
「来なくていい」
「みんな同じこと言う」
八枚の時計には、小さな札が付いた。
《この時計が示した時刻》
《参照した信号》
《補正された時刻》
《補正を知った時刻》
《停止・遅延の理由》
《記録できなかった範囲》
正しい時刻、とは書かない。
間違った時刻、とも書かない。
どの場所で、誰が見ていた時刻かを書く。
カナタは放送所の最後の椅子を畳んだ。
「祝賀は?」
迅が訊く。
「やらない」
「拍手が怖い?」
「怖い」
「正直だな」
「今は」
「次は?」
「今の話をして」
巴が間へ入る。
「次の予定を予告にしないでください」
「予定もない」
カナタ。
「稽古場は?」
「三人減った」
「残りは」
「四人」
「やる?」
「明日、掃除」
「舞台は」
「そのあと決める」
彼は歪んだマイク台を肩へ担がない。
右足首へ負担をかけないよう、台車へ載せる。
巴は八枚の時計の前で、最後の用紙を確認した。
《八地区判断連結手順・暫定版》
有効期限、三か月。
期限の一か月前から見直し。
延長は自動ではない。
利用者の異議と、各地区の差分を先に読む。
「期限が短い」
榛名が言った。
「暫定です」
巴。
「三か月で混乱する」
「延長できます」
「延長できなければ」
「切れます」
「制度が止まる」
「止まらない制度は危険です」
榛名は時計を見た。
「止める者の責任は」
「進める者と同じ用紙へ書きます」
「同じ重さか」
「同じ欄です。重さは審理します」
「面倒だ」
「人間が多いので」
榛名は、それ以上言わなかった。
午後五時。
八枚の時計が、保管棚へ置かれた。
扉は透明。
鍵は三つ。
中央事務局。
地区確認者。
市民記録所。
三者が揃わなければ開かない。
タマキが棚の前へ、破れた貨物券の複写を置く。
「時計と関係ある?」
七瀬が訊く。
「道の時間」
「説明を」
「長い」
「書いて」
「料金」
「請求書へ」
タマキは鉛筆を出した。
七瀬は撮影機を回さない。
今は、紙へ書く手を急がせない。
保管棚の中で、八つの秒針が動く。
一つが先に鳴る。
次が三秒後。
別の一つは、十秒経っても鳴らない。
中央の親時計は棚の外で、いまも街の業務時刻を刻んでいる。
音は揃わない。
揃わないまま、どの音がどこから来たか分かった。