第171話 第十二章「期限のある議会」前編

一月二日 午後六時十二分

 成立した制度は、朝になると紙の束になる。

 紙は腹を満たさない。

 暖房管も直さない。

 濡れた靴も乾かさない。

 それでも、誰がそれをするかを決める紙なら、少しは役に立つ。

 一文字巴は、王環駅の旧待合室で四十七枚目の用紙を書き直していた。

 右手には薄い固定具。

 人差し指の腱が腫れ、医師から三日間の筆記制限を言い渡された。

 だから左手で書く。

 筆記は右が速い。手話では両手を使うため、左でも読める字は書ける。

 問題は、制限を言い渡された直後ほど、自分で全部書きたくなることだった。

「四十八枚目、俺が書く」

 紅葉カナタが言った。

「字が読みにくい」

 巴は声で答える。

「読める」

「演出用の字です」

「字にも演出ある?」

「あなたは、丸を大きく書く」

「大事そうに見えるから」

「それです」

「じゃ、四角にする」

「意味が変わる」

「面倒」

「仕事です」

 カナタは机を拭く方へ戻った。

 臨時放送所から回収された機材が、中央会場の床へ並んでいる。

 焦げた電源線。

 倒れた椅子。

 歪んだマイク台。

 地区時計を動かした補正命令の写し。

 祝賀公演の提案書もあった。

 表題は《八地区一致記念祭》

 カナタは赤鉛筆で《不採用》と書いた。

「理由」

 巴が訊く。

「一致してない」

「四原則は一致」

「記念祭って言うと、全部決まったみたいになる」

「代案」

「片づけ」

「催事ではありません」

「客を呼ばないから安全」

「収入もない」

「痛いところ」

 カナタは床に落ちた白墨を拾った。

 右足首へ冷却布を巻いている。

 放送所の乱入対応と、その後の機材運びで古傷を少し悪化させた。歩ける。走らない方がいい。医師の言い方は、役者には一番難しい。

 走らない方がいい、は、走ってはいけないではない。

 だから走る人間がいる。

「あなたの稽古場は」

「今日、休み」

「昨日も」

「年始」

「本当の理由」

「役者が三人辞めた」

 カナタは短く言った。

 巴はペンを止めた。

「放送のため?」

「前から。止めすぎる演出家と仕事したくないって」

「あなたは必要だと思って止めた」

「必要か、怖かったか、分からない」

「記録は」

「ある」

「見直す?」

「今は見ない」

「理由」

「片づけが先」

 巴は頷いた。

 解決していない仕事を、解決した制度の陰へ隠さない。

 午後六時四十二分。

 八地区の確認者が、中央会場へ集まった。

 全員ではない。

 南環は柏木秋枝。

 北塔は、凱ではなく階段管理をした若者。

 西市場は魚住ミヨ。

 東門は乳母車の女。

 零番街は共同食堂の記録員。

 学塔区は学生二人。

 北工区は夜勤工。

 王環は停止請願を出した老女。

 八旗代表もいる。

 榛名もいる。

 彼は安全監督の腕章を外していない。

 外すかどうかは、別の審理が決める。

 時刻工作への責任を認めたからといって、役職が自動で消えるわけではない。

 消えないからこそ、今日の命令範囲を狭める必要がある。

 真琴が手続き案を読み上げた。

「正式名称は、『八地区判断連結手順・暫定版』」

 カナタが小声で言う。

「客が来ない題名」

「来なくて結構です」

 真琴。

「第一条。所属登録の有無だけを理由として、議題提案、説明聴取、異議申立てを拒まない」

 東門の女が手を上げる。

「『登録の有無だけ』ってことは、他の理由なら拒める?」

「安全、人数、時間、守秘など、議題ごとの理由はあり得ます」

「それを口実にできる」

「理由、決定者、期限、異議窓口を記録します」

「全部?」

「原則」

「原則って、逃げ道?」

 真琴の眼鏡が光る。

「はい」

 会場が少しざわめく。

「認めるんだ」

「逃げ道が必要な場合があります。救命中に全項目を書くことはできない。問題は、誰が、いつ、どこまで省略し、後から何を補うかです」

「後から補わなかったら」

「異議対象」

 榛名が言う。

「期限を明記しろ」

「何日」

「緊急対応は二十四時間」

「医療は短すぎる」

 零番街の記録員。

「命に関わる時、患者名を出せない」

「名を出せとは言っていない」

「理由の記録も、現場では後になる」

「では、仮札だけ一時間以内」

「誰が出す」

「現場責任者」

「責任者が倒れたら」

「代理」

「代理がいなければ」

 議論は止まらない。

 巴は一つの正解へまとめない。

 用紙の右端へ、地区差を書く。

《南環:緊急対応の仮札は六時間以内》

《北塔:避難中は鐘合図だけでも可。二十四時間以内に補記》

《西市場:個人名を出さず帳場番号で記録可》

《東門:利用者がその場で点検者を選べる》

《零番街:住所欄を作らない》

《学塔区:撤回方法は次回まで保留》

《北工区:設備使用の拒否と、議題参加の拒否を別欄》

《王環:質問放送・結果放送・賛成を別欄》

「暫定版なのに、もう八種類」

 カナタ。

「八地区です」

 巴。

「題名に書いてあった」

「読みましたか」

「客が来ないところまで」

 午後七時十二分

 紙の手順は、使う前に一度壊すことになった。

 真琴が、白い札を三枚、机へ伏せて置く。

「仮想事例です。答えを当てる試験ではありません。用紙のどこが足りないかを見ます」

「試験じゃないと言う試験は、だいたい試験」

 カナタ。

「採点しません」

「もっと怖い」

 一枚目。

《南環の共同浴場で給湯管が破裂。地区判断の参加手続きを二日止めたい。暖房と入浴は止められない。》

 柏木秋枝が用紙を取る。

 撤回欄へ、《参加手続き》と書く。

 期限欄へ、《修理完了まで》。理由、《湯がない》

「不受理です」

 真琴が言った。

「早いね」

「期限が確定していません。誰が修理完了を判断するかもない」

「破裂してる時に、日付まで分かるかい」

「分からない場合の再確認時刻を」

「じゃあ、六時間後」

「夜中です」

「管は夜中も破裂するよ」

「確認者は」

「当番がいる」

「当番が修理していたら」

「別の人」

「別の人とは」

「こういう紙は、人の名前より先に仕事を増やすね」

 秋枝は、再確認時刻を二つ書いた。

《六時間後。ただし救命・暖房復旧作業中なら、終了後一時間以内。》

 真琴が眉を寄せる。

「例外が広い」

「湯は、紙より広い」

 巴は左手で、例外の横へ小さな欄を足した。

《作業中であることを示す仮札。署名一名。後で二名確認。》

 二枚目。

《東門に亀裂。門を閉める必要がある。地区外の避難者が、開門を求めている。》

 乳母車の女が読む。

「これ、撤回じゃない」

「なぜですか」

 真琴。

「地区が参加手続きをやめる話じゃない。門を閉める話。外の人は、門の点検へ参加できるかもしれない」

「危険区域です」

「中へ入れなくても、ひびを見た場所は言える」

 轟が壁際で頷く。

「外からしか見えん傷もある」

「では、安全措置と参加停止を分ける」

 真琴が新しい紙を出す。

 女はそれを押し戻した。

「紙を増やす前に、同じ紙の上へ線を引いて」

「意味が混ざります」

「現場では混ざってる。門を閉じた人が、話も閉じたと思うから」

 巴が用紙の中央へ、太い線を一本引く。

 上。

《身体が入れる範囲》

 下。

《意見が入れる範囲》

「字が多い」

 乳母車の女。

 巴は二つの絵を描いた。

 足。

 口。

「口は手話もある」

 学塔の学生。

 巴は口の横へ、開いた手を足す。

「記録閲覧だけの人は」

 西市場の魚住ミヨ。

 目も足す。

「質問だけなら」

 耳。

「聞こえない人は」

 巴は耳を消した。

 カナタが言う。

「絵、一つで済ませようとして増えてる」

「人が増えています」

「絵の方が負けた」

 三枚目。

《西市場の雇用主が、店全体の参加を撤回すると申告。住み込み従業員三名は、個別参加を希望。店は会場と寝床を提供している。》

 魚住ミヨは、札を読んだまま動かなかった。

「雇用主は、店の費用負担だけ撤回できる」

「会場提供も?」

 真琴。

「自分の建物だから、できる。でも、従業員の参加を撤回はできない」

「寝床を失う恐れがあれば、自由意思は」

「ないとは言えない。あるとも言えない」

「確認方法」

「店の外で聞く」

「誰が」

「店と取引してない人」

「西市場に、そんな人いる?」

 タマキ。

「魚を食わない人」

「少ない」

「じゃあ、別地区」

 巴は地区間確認者の欄を作る。

「中央じゃない?」

 カナタ。

「中央も一地区です」

 巴。

「中央の人、怒るよ」

「異議欄を使います」

 三つの事例を終えただけで、用紙は一枚から四枚へ増えた。

 真琴は失敗した最初の用紙へ、大きく《使用不可》と書く。

「捨てる?」

 タマキ。

「残します」

「失敗した紙も?」

「なぜ増えたか分からなくなるので」

「持って帰る料金」

「請求書へ」

 制度は、一度で正しい形にならなかった。

 正しくなかった形を残すことで、次に短くした時、何を削ったかだけは分かる。

 午後八時十三分。

 空白住民の参加枠が、正式に認められた。

 一つの固定席ではない。

 議題ごとに、影響を受ける者が参加方法を選ぶ。

 発言。

 質問。

 記録閲覧。

 匿名意見。

 傍聴。

 拒否。

 途中退出。

 後からの異議。

 どれを選んでも、他のすべてへ同意したことにはしない。

 八旗の議決権を九票へ増やすわけでもない。

 八旗を解体するわけでもない。

 旗団が担っている配給、夜間治安、修繕を、一日で消すことはできない。

 消したふりをすれば、最初に困るのは、旗に守られている者だ。

 変わったのは、旗へ入らなければ発言できない、という入口だった。

 入口を増やした。

 入口には、六枚の札を置く。

 一枚目は《何を決めるか》。議題を一つへ絞り、影響を受ける仕事、場所、期間を書く。

 二枚目は《誰が参加できるか》。住所、旗、雇用、家族関係のうち、何を条件に使い、何を条件にしないかを書く。

 三枚目は《最初に知っていたこと》。初回判断を封じる時、その人が受け取った資料と、まだ聞いていない放送を分ける。

 四枚目は《変え方》。最後の共通放送を受けてから、すべての地区へ同じ長さの変更時間を置く。変えなかった人も、変えなかったと残せる。

 五枚目は《降り方》。途中退出、保留、個人撤回、地区撤回を、棄権という一語へ畳まない。

 六枚目は《確かめ方》。地区時計だけでなく、別の時刻源を一つ以上添え、補正者と理由を公開する。

「六枚も読めない人は」

 南環の秋枝が訊く。

「一枚ずつ聞けます」

 巴。

「聞く暇がない人は」

「音声、手話、絵、代理筆記。ただし、代理人が答えない」

「仕事を抜けられない人は」

 北工の計量係。

 真琴が費用欄を開く。

「参加時間の賃金補填、移動費、子の見守り、通訳、医療上の休憩。議題を出した側と、その議題で利益を受ける側が分担します」

「利益を受ける側が分からない時は」

「暫定基金。使途を公開」

「基金が空なら」

 タマキ。

「延期」

 榛名が言った。

「金がないから黙れ、よりは公平だ」

「珍しく意見が合いました」

 真琴。

「珍しいは不要」

「記録上、初回です」

 入口を増やした。

 出口も付けた。

 地域別撤回権。

 各地区は、他地区と同じ運用を続けられない場合、その部分だけ退出できる。

 ただし、退出時刻、理由、既に受けた利益、残る負担、再参加窓口を記録する。

「撤回権という名は強すぎる」

 真琴が言った。

「権利です」

 巴。

「逃げる権利に聞こえる」

「逃げてはいけませんか」

 迅が壁際から言う。

 右手へ温湿布を巻いている。

 南環の濡れた床で人を支えた時、古傷が冷えた。今日は箸を持つ小指と薬指まで痺れている。

「責任から逃げるのは」

 真琴。

「逃げた記録を残す」

「記録だけで補償は生まれない」

「だから精算欄がある」

「払えない者は」

「仕事で返す場合もある」

 タマキが言う。

「それを本人が選べる?」

 巴。

「選べないと、配達じゃなくて連行」

 タマキの配達箱は、蓋が完全に外されて修理台にある。

 彼は古い貨物券の破片を、落とし物倉庫へ返すため透明袋へ入れている。

《開錠に使用し破損》

《第三中継橋を再開通》

《弁償方法は倉庫管理者と協議》

 破れた紙は、成功の記念品にはならない。

 持ち主不明の物を壊した事実が残る。

「働いて返すなら、時給は」

 タマキが訊く。

「市場最低額」

 真琴。

「安い」

「十四歳です」

「同じ荷物なら同じ」

「危険手当を別に」

「長靴代も」

「請求書を」

 制度の実施会議は、タマキの請求書で一度中断した。

 中断したまま、夜食になった。

 共同食堂から、年始の汁が届く。

 大根。

 豆。

 細く切った餅。

 土門小麦は来ない。

 鍋と、調理担当者の休憩記録だけが届いた。

《第一鍋 調理者三名》

《交代休憩 各二十分》

《味見回数 七》

《差入れ分は無料。追加は材料費》

 迅が鍋帳を見た。

「小麦らしい」

「本人は?」

 七瀬が訊く。

「別の厨房」

 配達員が答える。

「十二か所、回ってる」

「一人で?」

「交代制」

「改善」

 七瀬は食事を撮らない。

 空になった器を、後で撮る。

 今日は撮影機へ新しい肩紐を付けている。

 左肩ではなく、腰と胸へ荷重を分ける形。

 時刻係の証言場面は、顔を隠した複写だけを保管した。

 原映像は封印。

 公開には本人確認と審理許可が必要。

「全部撮って、全部見せない」

 迅が言う。

「撮れていないところもある」

「珍しい」

「昨日も言われた」

「誰に」

「タマキ」

「高くつくな」

「褒め言葉の料金はない」

「なら安い」

 七瀬は迅の右手を見る。

「痺れ、増えてる」

「見れば分かる」

「診療は」

「夜食のあと」

「具体的でない」

「二十一時」

「今、二十一時三分」

 迅は汁を見た。

「食べ終わってない」

「変更理由を記録」

「餅」

「採用」

 午後九時十七分

 中央駅の臨時診療室には、勝者用の入口がなかった。

 負傷者札を取った順だった。

 迅、二十七番。

 カナタ、二十八番。

 七瀬、三十一番。

 巴、三十二番。

 凱は北塔で膝装具の点検を済ませており、轟は東門設備課の医務係から「左腕を上げない」と、四か月前から同じ指示を受けていた。

「数字が揃わない」

 カナタが札を見比べる。

「揃える必要ある?」

 迅。

「見栄え」

「診療室で演出するな」

「番号札は、すでに演出されてる。呼ばれるまで自分の番が来ると信じさせる」

「来る」

「遅れるかも」

「遅れた理由が出る」

「時刻札に染まったね」

「何の話だ」

 七瀬は二人を撮らない。

 代わりに、待合壁の診療遅延札を読む。

《十二時四十分以降、蒸気熱傷二名を優先。一般診療、約二十五分遅れ。》

「分かりやすい」

 巴。

「誰が書いた?」

「看護係」

「名前は」

「勤務番号」

「異議窓口は」

「今、それを増やすな」

 迅が言った。

 巴は右手の固定具へ左手を添えた。

「増やすと、書かなくて済む人が出る」

「おまえが書く」

「書かないために増やす」

「矛盾」

「分担」

 二十七番が呼ばれる。

 迅は診察台へ右手を置いた。

 一昨日、濡れた床で転びかけた隊員を右前腕で支え、古傷が冷えた。新しい骨折はない。神経痛と軽い腱の炎症。右手の握力は、夏より戻っている。しかし寒さで小指と薬指が痺れ、左手を使いすぎる。

 医師が右手と左手を交互に握らせた。

「右、前回より三キロ増えています」

「使える」

「増えた分を全部使うと、また減ります」

「難しい言い方」

「右は温める。左は使いすぎない。三日間、打撃なし」

「敵が来たら」

「診療費を請求してください」

 カナタが仕切りの外で笑う。

「医師、強い」

「笑うと足首へ響くぞ」

「どういう身体?」

 二十八番。

 カナタは右足首を出す。

 靱帯損傷の古傷に、放送所での捻り。新しい断裂はない。腫れは少ない。痛みはある。

「一週間、跳ばない」

「走るのは」

「必要な範囲だけ」

「必要は誰が決める」

「あなた以外」

「制度が厳しい」

「身体です」

「身体の独裁」

「反対票を持っていますか」

「ない」

「可決」

 カナタは足首へ新しい支持帯を巻かれた。

 派手な赤ではない。灰色。

「衣装に合わない」

「掃除に衣装は要りません」

「俺の予定、知ってる?」

「待合で大きな声でした」

「放送事故」

 三十一番。

 七瀬の左肩は、炎症が強くなっていた。

「撮影を止めた時より、布を上げた時が痛い」

 医師が腕を上げる角度を測る。

「止める判断より、始める準備で傷めたんですね」

「そういう言い方をすると、意味がありそうに聞こえます」

「意味は付けません。七十度から痛み。胸部固定具を使う。三日間、頭上撮影なし」

「八時計は」

「他の人が撮る」

 七瀬は一度、口を閉じた。

「作業者名と時刻を残します」

「治療指示を守る理由としては遠回りですが、守るなら結構」

 三十二番。

 巴の右人差し指は、能力の反証と筆記の重なりで熱を持っていた。

「動かさない」

 医師。

「左手は」

「使いすぎない」

「仕事は」

「口と人」

「私は聞こえません」

「目と人」

「人が足りない」

「育てる」

 巴は医師を見る。

「今、決めましたか」

「昨日から思っています」

「記録は」

「診療録へ書きますか」

「不要」

「判断が速い」

「医療情報です」

 巴は笑わなかった。

 目だけが少し細くなった。

 四人は、治ったのではなく、使わない範囲を増やして診療室を出た。

 強さは、動ける部位の数ではない。

 動かせない場所を、他人へ正確に渡せることも、仕事を続ける技術だった。

 一月三日 午前九時二十分

 巴の机へ、八地区から修理報告が届いた。

 南環では、暖房管の逃し弁を交換した。湯気で濡れた初回票は、乾燥網の上で一枚ずつ番号を照合し、読めない箇所を本人へ戻した。迅は弁を閉めていない。閉めたのは、日頃その湯を抜く二人だった。

 北塔では、雪の階段へ二本目の手すりを付けた。凱が運んだのは材木ではなく、来場を待たずに始める時の役割札だった。遅れてきた老女のための椅子は、入口近くへ残された。英雄の席ではなく、膝の悪い人が次にも使う椅子として。

 西市場では、同じ灰色外套を着ていた女へ、新しい外套を贈る案が出た。女は断った。代わりに、破れた袖だけを市場の縫い手へ直してもらった。七瀬は撮らない。修繕費の出所と、私刑を呼びかけた者への聴取予定だけを記録した。謝罪は布の代金へ換算されなかった。

 東門では、轟が最初に作った重すぎる鋼箱が、床へ固定された。持ち運べない失敗作は、透明管の予備部品を保管する箱になった。蓋を開ける鍵は乳母車の女と門の整備係が別々に持つ。轟の名は、製作者ではなく《重量見積りを誤った者》の欄にも残った。

 零番街では、旧客車教室の床板へ、タマキの経路札を差し込む細い溝を掘った。道が切れたら札を抜き、使えない区間を裏返す。完成図を壁へ貼らない。道を知る人が一人にならないよう、子どもを含む五人が別々の切符を持つ。

 北工区では、回答のため持ち場を離れた時間を、休憩と数えないことにした。夜勤食堂の計量係が、最初の補填表へ自分の二十七分を書く。善意の会議参加を、無料の残業へしないためだ。