第178話 第三章「武器を預ける」後編
「入境条件を読み上げます」
「昨日聞いた」
迅。
「昨日は説明。本日は同意確認です」
「同じ言葉」
「時刻が違います」
「言葉は時刻で変わる?」
「命令は変わります」
「規則は」
「改訂されれば」
「人は」
真壁は迅を見た。
「変わるものとして扱うべきです」
少し意外な答えだった。
迅はそれ以上言わない。
真壁が読む。
「調査班は、境界内で武器を所持しない。誓痕使用、使用準備、公開誓戦の宣言を行わない。警備隊員の身体、装備、施設へ許可なく接触しない。指定線外へ出ない。命令を受けた場合、まず停止し、内容を確認する。異議申立て〈バック・コール〉は停止後に行う」
「停止している間に危険が来たら」
七瀬。
「避難命令が優先されます」
「誰が出す」
「現場指揮官」
「現場指揮官が危険なら」
「質問は受領しました。回答権限を確認します」
真壁は本当に書いた。
鉛筆の先が紙を削る。
「いつ返る」
迅。
「戻る時刻は確約できません」
「その回答が返る前に、俺たちは入る」
「はい」
「便利だな」
「何が」
「確認中」
真壁の口元が、ほんの少し硬くなった。
「便利に使われないよう、時刻を残しています」
それは言い訳にも聞こえた。
決意にも、少し聞こえた。
第一門が開く。
白い一本道。
幅は四歩半。
左右に腰高の柵。
その外へ、さらに有刺鉄線。
正面三十歩に検査小屋。
地面へ、第一白線が横切っている。
線の手前に天環側兵。
向こうに剛嶺側兵。
どちらも銃を持つ。
銃口は下へ向いている。
下へ向いていることを、見せる角度だった。
「一列」
真壁が言う。
凱が前へ出かけた。
迅が腕を横へ出す。
封印帯が赤くならない速度。
「俺が先」
「理由」
「後ろへ下がれない」
「俺もだ」
「おまえは、群衆がいればだろ」
「ここにもいる」
柵外の待機地に、家族たちが見える。
灰谷トワは、娘の名札を胸へ下げていた。顔は遠く、右手だけが白線の方へ上がる。
凱の誓痕は、王と呼ぶ者の前で退けない。
迅の誓痕は、七歩退いて初めて返せる。
今日の二人は、どちらもその力を使わない。
使わないと決めた力は、なくなったわけではない。
なくならないから、選択になる。
「私が先に行く」
由良が言った。
「案内役だ」
「敵側だろ」
「だから。私が止められたら、どっちの規則か分かる」
「止められた人間を、目印にするな」
「おまえは、道を見る時に倒れた人間を避ける?」
「踏まない」
「答えになってる」
由良が第一白線へ足を置く。
警笛が一度鳴った。
「停止」
剛嶺側兵が命じる。
由良は止まった。
迅は、その一歩後ろ。
「名」
「鷹取由良」
「所属」
「剛嶺外周斥候」
「検問番号」
「まだ受け取ってない」
「番号なしは進めない」
「発行するのはそっち」
「発行手続きのため、線を越えろ」
「越えれば番号なしの侵入」
「指示に従えば許可される」
「口頭?」
「そうだ」
「署名は」
「必要ない」
由良は迅を振り返らなかった。
「どうする、近道の人」
「足を出す」
「前?」
「横」
迅は白線へ足を置かなかった。
線に沿って半歩、右へずれる。
そこに小さな金属板が埋まっている。
《口頭誘導中の線越えは、誘導者責任。》
雪泥で半分隠れていた。
「読め」
迅が兵へ言った。
「規則を知っている」
「なら名前」
「何の」
「誘導者」
兵は顎を引いた。
「瀬尾直。境界警備、第二班」
「時刻」
七瀬が紙へ書く。
「九時十二分」
真壁が訂正した。
「九時十二分、十四秒」
瀬尾が由良へ言う。
「私の誘導で、一歩越えろ」
由良が足を出す。
白線の向こうへ。
警笛は鳴らない。
迅も続く。
右足が線を越える。
左足はまだ天環側。
この位置で前へ行けば、入境。
後ろへ戻れば、調査辞退。
横へ出れば、侵入。
止まれば、通路妨害。
人間一人が立てる場所なのに、四つの意味が重なっている。
「進め」
瀬尾が言った。
迅は前へ進まなかった。
「今度は何です」
真壁。
「車輪」
検査小屋の脇から、荷車が後ろ向きに下がってきていた。
固定が外れたらしい。
荷台には水桶が六つ。
道幅は四歩半。
由良は線の向こう。
迅は片足ずつ両側。
後ろには凱たち。
荷車を避けて柵へ触れれば規則違反。前へ飛べば、誘導前の侵入。後ろへ戻れば調査辞退。
「止めろ!」
誰かが叫ぶ。
命令の主語がない。
迅は、右拳を使わなかった。
身体を半身にし、左足の踵を荷車の車軸下へ差し込む。木輪が靴底へ乗る。骨へ重さが来る前に、腰を落とし、左掌で荷台の側板を押した。
封印帯は赤くならない。
車輪が一度、靴を噛んだ。
痛みが脛へ走る。
由良が向こうから赤索を投げる。
金具は封じられている。索だけを車輪へ巻き、身体を後方へ倒す。
凱が迅の背を押さえない。
触れれば、迅の動作が攻撃へ見える可能性がある。
代わりに荷台の反対側へ掌を当てた。
白線を越えない位置。
轟が声を飛ばす。
「左輪、軸ずれ! 押すな、浮かせろ! 三、二、一!」
凱が一瞬だけ持ち上げる。
迅が靴を抜く。
由良が索を引く。
荷車は白線の手前で止まった。
水桶の一つが揺れ、縁から水がこぼれる。
白線の上へ細い川ができた。
瀬尾が走って来る。
「負傷は」
「靴が怒った」
「足を見せろ」
「命令?」
「医療確認だ」
「誰の責任」
瀬尾は止まった。
迅の靴底には、車輪の黒い跡。
「荷車固定担当の責任。現在確認中。私が誘導者として負傷確認を行う」
「なら見ろ」
迅は靴を脱がない。つま先と踵を動かす。
「骨折なし。歩ける」
「医師ではない」
「俺の足だ」
「本人申告、歩行可能」
真壁が記録する。
瀬尾は水の流れを見た。
白線を越えた水には、入境許可も検問番号もない。
誰も止めなかった。
「進め」
瀬尾がもう一度言った。
今度は自分の名を先に付けた。
「誘導者、瀬尾直の責任で。第一白線から検査小屋まで、前進を許可する」
迅は由良の隣へ足を揃えた。
背後で、武器倉庫の扉は閉じたまま。
前方で、検査小屋の狭い入口が開く。
後退すれば逃亡。
前進すれば侵入。
その間に立てる場所を、いま一人の兵が自分の名で作った。
迅は歩き出した。
白線の上の水を踏まないように。