第179話 第四章「名前を三度聞かれる」前編

一月二十五日 午前十時六分

 朽葉真琴は、名前を丁寧に扱う人間を信用していた。

 正確に言えば、信用しようとしていた。

 名前を雑に書く人間は、たいてい契約の他の部分も雑にする。姓名の間へ余計な空白を入れる。濁点を落とす。本人が使っていない敬称を勝手に付ける。訂正線を一本で済ませるべき場所へ黒い塊を作る。

 黒く塗れば消えたように見える。

 消えたように見えるものほど、紙の裏へ深く残る。

 第一検査小屋には、名前を書く台が三つあった。

 一つ目は天環式。

 二つ目は剛嶺式。

 三つ目は検問番号。

 台の間は、ちょうど七歩ずつ離れている。

 迅が見た瞬間に嫌な顔をした。

「わざとか」

「何がです」

 担当官が訊く。

「距離」

「安全間隔です」

「誰に安全」

「手続きへ参加する全員に」

「俺だけ危ない」

「あなたの能力条件は、申告済みです」

「だからだ」

 真琴は口を挟まなかった。

 ここで七歩の意味を説明すれば、既に知っている者へ説明を重ねるだけになる。何より、担当官は知らないのではない。知っていて、その距離を安全と定義している。

 制度の強さは、無知ではない。

 知った上で別の名前を付けることにある。

「順番に進んでください」

 担当官は山科ミナと名乗った。四十歳ほど。髪を短く切り、鼻の横に薄い火傷痕がある。天環の灰色制服だが、左袖へ剛嶺の輪文が縫い付けられている。

「まず、天環側で使用する氏名」

 真琴が最初の台へ立つ。

「朽葉真琴」

「生年月日」

「十一月二十三日」

「性別」

「男性」

「所属」

「空白の旗は常設所属ではありません。本件における役割は手続確認および文書照合。生活上の所属を訊いているのであれば、現在は中央区仮設文書室に居住し、独立の実務補助者として――」

「欄が一行です」

「質問を一行に収まるよう限定してください」

「所属」

「なし、と書けば住居も職業もないように見えます」

「では、空白の旗」

「それは所有関係を誤認させます」

「あなたは、その団体と一緒に来た」

「団体ではなく、期間と目的を定めた案件名です」

 山科は筆を置いた。

「ここで一人に十分かければ、後ろの人は凍えます」

 検査小屋の外には、迅たちが一列で待っている。

 風が白線に沿って通る。凱の外套が鳴り、轟は右手で左肩を温め、七瀬は小型機を胸へ固定したまま残量を見ていた。

 真琴は眼鏡の奥で瞬いた。

 山科の言うことは正しい。

 正しいことが、正しい欄を作るとは限らない。

「本件役割欄に《文書照合》。同行案件欄に《空白》。生活所属欄は《本人申告なし》としてください」

「三欄へ増やす権限はありません」

「余白へ」

「機械読取ができない」

「人が読めます」

「人が読むから、間違えるんです」

 山科は鼻の横の火傷痕へ触れた。

「十年前、同じ名の男を二人、逆方向へ送ったことがある。一人は家へ着いた。一人は兵舎へ着いた。兵舎へ着いた方は、三日後に名が違うと分かった。だから三度聞く。天環の名。剛嶺の名。検問の番号。どれか一つが間違っても、二つが残る」

「三つが互いに接続されていれば」

「接続表がある」

「誰が管理を」

「私たちです」

「当事者は閲覧できますか」

「申請すれば」

「申請名は、三つのうちどれで」

 山科は黙った。

 迅が外から言う。

「真琴」

「分かっています」

「分かってない時の声だ」

「あなたは黙ってください」

「後ろが寒い」

「それは分かっています」

 真琴は右手で署名した。

 左利きなのに右手を使うのは、幼い頃に父から矯正されたからではない。左手は本文を書く手。右手は、自分がその本文を引き受ける手。勝手にそう分けている。

 他人から見れば無意味なこだわりだ。

 本人にしか見えない線は、本人にとって境界になる。

 山科は所属欄へ、小さく二段で書いた。

《文書照合/案件・空白》

「生活所属は」

「機械の備考コードへ入れます」

「本人にも読める形で控えを」

「出します」

「約束ですか」

「規則です」

「今は、少しだけ同じに聞こえます」

 山科は、初めて口元を緩めた。

 午前十時四十三分

 二つ目の台では、剛嶺式の名を聞かれた。

「車輪区名」

「ありません」

「工房名」

「ありません」

「寝台列」

「ありません」

「保護者の車台」

「ありません」

「それでは登録できない」

 剛嶺側の記録兵は若かった。頬のこけた男で、制服の襟だけが大きい。名前札には《杜野カイ》とある。

「剛嶺の住民ではありません」

「入域者にも仮車輪名が要る」

「本人が使わない名を作るのですか」

「位置を示す」

「人ではなく」

「人の位置だ」

「移動したら」

「更新する」

「更新されなければ」

「前の位置にいることになる」

「実際にいなくても」

「記録上は」

 真琴は、ペンを止めた。

「行方不明者も?」

 杜野の目が動く。

「何が」

「剛嶺式の名が、位置を示す。人がその位置から動いても更新されなければ、記録上は元の場所にいる。だから剛嶺側は拘束を認めないのではなく、移動そのものを認識していない可能性がある」

「質問へ答えろ。仮車輪名」

「仮名を拒否します」

「進めない」

「拒否した者の処理コードを」

「ない」

「ないなら、空欄で進めるべきです」

「空欄は登録不備だ」

「不備の原因は、制度が拒否を想定していないことです」

 後ろで、由良が舌打ちした。

「真琴。おまえの名前は《止まった机》でいい」

「そのような名称を使用した事実はありません」

「今、使った」

「あなたが」

「剛嶺式は、他人が呼ぶ名も入る」

「本人同意は」

「仕事場で毎回聞いてたら、荷車が落ちる」

「だからといって――」

「止まった机。位置は第一検査小屋。仕事は、後ろを凍らせる」

 タマキが笑った。

「分かりやすい」

「採用しません」

「じゃあ《眼鏡の長話》

「悪化しています」

 杜野が苛立って机を叩いた。

「仮車輪名を決めろ」

 真琴は外を見た。

 後ろには家族ではなく、同行者が並ぶ。けれど、彼らの時間も身体も有限だ。凱の左膝は冷えるほど固くなる。轟の左肩は長時間の直立で重くなる。七瀬の撮影機は二十八分しかない。

 正しい手続きのために、他人の身体を待たせている。

 正しさへ費用がかかることを忘れれば、それは無料ではなく、他人払いになる。

《白線一番》

 真琴は言った。

「本日、第一白線を最初に通過した文書照合者。期限は本日限り。本人名と併記。位置更新を本人へ通知。第三者利用不可」

「長い」

「名は《白線一番》。残りは条件です」

 杜野は記録した。

「次」

 迅が台へ立つ。

「天環名」

「竜胆迅」

「剛嶺式」

「ない」

「仮車輪名」

「いらない」

「進めない」

「じゃあ《止まった拳》

 由良が言った。

「勝手に決めるな」

「さっき真琴が許した」

「許してない」

《七歩手前》

 タマキ。

「それも嫌だ」

《右手あったか》

「もっと嫌だ」

 杜野がこめかみを押さえた。

「本人が選べ」

 迅は白線の外を見た。

《帰り口》

「意味」

「帰れる道を探す」

 由良が迅を見た。

「短い」

「名前だ」

「近道じゃない」

「帰れない近道は、道じゃない」

 由良は返事をしなかった。

 胸の赤索を一周だけ緩めた。

 午前十一時三十七分

 三つ目の台で、全員へ検問番号が与えられた。

 真琴は《T-B01-025》

 迅は《T-B01-026》

 七瀬は《T-B01-027》

 番号には都市名も本人名もない。

 先頭のTは通過者。

 B01は第一境界区。

 末尾は本日の通番。

「この番号で、どちらの都市へも移送できます」

 山科が言った。

「だから中立です」

「どちらへ移送されたかは、番号だけでは分かりません」

 真琴。

「移送記録へ接続されます」

「接続表を本人は申請しなければ見られない」

「先ほども答えました」

「答えが問題を解決していません」

「同じ問題を繰り返しています」

「同じ答えが問題を残しているからです」

 山科は、真琴の控えへ赤い小印を押した。

《接続表閲覧希望》

「これで、帰りに申請できます」

「帰れた者だけが」

「はい」

 山科の返事は短かった。

 真琴は、その短さに責任を感じた。

 彼女も分かっている。

 分かっていて、今の規則ではそこまでしかできない。

 相手が理解していると知ると、批判は難しくなる。

 難しくなるが、不要にはならない。

「行方不明者の番号照合を申請します」

「第一検査完了後です」

「全員の検査が終わるまで待て、と」

「順番です」

「その間に移送されたら」

「移送予定はありません」

「予定を確認できますか」

「権限外です」

 真琴は眼鏡を外した。

 強い近視のため、山科の顔はすぐに輪郭へ崩れた。

 見えない方が、声の調子だけを聞ける。

「あなたは、移送予定がないと、どの記録を見て言いましたか」

「本日の掲示です」

「昨日以前の移送は」

「照合申請後に」

「順番を守れば、過去は待ってくれる?」

 山科は答えなかった。

 外で警笛が二度鳴る。

 検査小屋の裏から、書類箱を積んだ小車が運び込まれた。風が入口から吹き込み、上の紙束が持ち上がる。

「扉を閉めろ!」

 杜野が叫ぶ。

 だが入口には、まだ凱と轟が立っている。閉めれば二人が外へ残る。

 紙が一枚、二枚、宙へ舞った。

 山科が手を伸ばす。

 真琴も左手を出す。

 封印帯が腕の加速を拾い、透明管へ薄い桃色が走った。

「停止!」

 警備兵の銃口が上がる。

 真琴は手を止めた。

 紙は止まらない。

 一枚が床を滑り、検査小屋の奥の格子へ向かう。格子の向こうは記録焼却溝だ。不要書類を落とす穴。いま火はないが、落ちれば許可なく拾えない。

「触るな!」

 山科が叫ぶ。

 真琴は触らない。

 右足を紙の進路へ置いた。

 踏まない。

 靴底と床の間へ風の壁を作る。紙が手前でめくれ、横へ逸れる。

 タマキが首の鏡を床すれすれへ差し出した。

 風が鏡面へ当たり、紙の角を押し返す。

 七瀬が雨合羽を広げた。

 金属ではない黒布が、三枚を受ける。

 由良は赤索を低く張り、飛ぶ紙を一列に止めた。

 迅は動かなかった。

 動けば、紙より先に兵が反応する。

 代わりに声を出す。

「轟。箱」

 轟は右足で小車の車輪止めを踏み、右手で荷台を傾けた。左肩は使わない。残った紙箱が奥へ滑り、蓋が閉じる。

 凱は入口の扉を半分だけ閉める。

 人は通れる。

 風だけが弱まる角度。

 床に散った紙は十一枚。

 誰も許可なく手では触れていない。

 山科が一枚ずつ拾う。

「全数確認」

 真壁が炭紙へ時刻を書く。

「飛散、十一枚。回収、十一。焼却溝への落下なし」

「私の帯が反応しました」

 真琴が両手首を見せる。

「紙を取ろうとした動作です」

「目的は記録へ残りますか」

「山科担当官の証言が必要です」

 山科は紙束を抱えたまま、真琴を見た。

「文書保全のための反射動作。攻撃意図なし」

「私が保証します」

「あなたに保証権限は」

 真琴は言いかけ、止めた。

 山科の眉が上がる。

「何です」

「いえ。ありがとうございます」

「礼より、次は腕をゆっくり」

「紙へ伝えてください」

「紙は規則を読みません」

「人より素直です」

「人より飛びます」

 山科は、今度ははっきり笑った。

 笑った後で、すぐに顔を戻した。

 午後零時二十一分

 行方不明者照合は、第一検査小屋の奥で始まった。

 机は一つ。

 椅子は四つ。

 山科、杜野、真琴、由良。

 七瀬は壁際。撮影はまだしない。

 迅たちは窓の外で待つ。

 照合表には三列あった。

《天環氏名》

《剛嶺呼称》

《検問番号》

 一見、理想的だった。

 問題は、三列の間を結ぶ線がないことだった。

「灰谷ナツ」

 真琴が読む。

「石輪ナツ」

 由良。

「右手首、糸車痕」

「検問番号候補を身体特徴で検索します」

 山科が索引箱を引く。

 紙札が並んでいる。

 年齢。

 性別。

 身長。

 傷。

 持ち物。

「右手首、線状瘢痕。女性。十六から二十。該当二件」

「二件?」

「一件は昨月通過済み。一件は保護中」

「番号を」

「通過済み、T-B01-883。保護中、P-B03-071」

「名前」

「接続表を」

 山科が別の鍵箱を開ける。

 鍵は二本必要だった。

 天環側の山科。

 剛嶺側の杜野。

 二人が同時に回す。

 中から、薄い帳面が出る。

「T-B01-883。天環名、灰谷ナツ。剛嶺名、石輪ナツ。昨月二十七日、天環側へ出境」

 由良が眉を寄せる。

「ナツは今月、境界へ来た」

「母親の申告も一月十九日」

 七瀬。

「同姓同名?」

 山科。

「右手首の傷まで同じ?」

 由良が帳面を引き寄せようとする。

 杜野が押さえた。

「触るな」

「見せろ」

「位置から」

 由良は手を引いた。

 胸の索へ指が掛かる。

 真琴は文字を追った。

「通過時の生年月日が違います。T-B01-883は二十二歳。家族申告の灰谷ナツは十七歳」

「身体特徴の転記ミスか」

 山科。

「あるいは、同じ傷の説明が定型文として複製された」

 七瀬。

「誰が複製する」

「入力者。照合官。本人が同じ言葉で説明した可能性もあります」

「可能性を並べるな」

 由良。

「一つに決めたら、また別人になります」

 真琴は次の番号を見た。

「P-B03-071。保護中。名前欄――」

 空白。

 剛嶺呼称も空白。

 年齢、推定十六から二十。

 右手首、線状瘢痕。

 所持品、木製糸車片。

 本人確認、未了。

 そして処理欄。

《一月二十二日、臨時保護移送。移送先コードC-9。》

「C-9はどこです」

 真琴。

 山科は別冊を開く。

「共同境界内、一時確認区画」

「場所」

「移動式です」

「現在地」

「移送記録へ」

 移送記録の欄にも、C-9。

 その先がない。

「移送担当」

「境界警備第三班」

「受領者」

「番号署名。G-04」

「氏名接続」

「警備名簿は別管理です」

「閲覧を」

「第二検問以降」

 真琴は眼鏡を押し上げた。

 レンズの端が曇っている。

 小屋の中には紙埃が多い。喉の奥が少し狭くなる。小児喘息は、成長すれば消えると医師に言われた。消えなかった。ただ、他人に見えにくくなっただけだ。

 呼吸を四つ数える。

 吸う。

 止めない。

 吐く。

「この人は、検問番号では存在する」

 真琴が言った。