第180話 第四章「名前を三度聞かれる」後編

「はい」

「名前では存在しない」

「本人確認前です」

「移送は済んでいる」

「保護移送です」

「どこへ」

「C-9」

「C-9は場所ではなく処理区分です」

「共同境界内です」

「共同境界は、東西四キロ、南北一・八キロある。答えになっていません」

 山科が唇を結ぶ。

 杜野が言った。

「番号があるなら、消えてない」

「番号しかないから、人として探せない」

「人として扱うために、本人確認する」

「本人確認する前に移送した」

「安全のためだ」

「誰の安全」

 真琴の声が、必要以上に強くなった。

 山科の後ろにいた若い補助員が肩を震わせる。

 真琴は、自分の呼吸の浅さに気づいた。

 得意なやり方が、相手を圧迫している。

 質問を重ねる。逃げ道を塞ぐ。定義を狭める。

 契約の穴を見つける時には役立つ。

 人へ向ければ、検問と同じ形になる。

「すみません」

 真琴は一度、椅子から立った。

「五分、換気を」

「逃げるのか」

 由良が訊く。

「呼吸します」

「今までしてなかった?」

「十分には」

 由良は真琴の顔を見て、喉の音へ気づいたらしい。窓を開けようとする。

「窓は封鎖区域側です」

 山科が言う。

「三センチだけ」

「規則で一センチ」

「肺は規則を読まない」

「一センチで」

 山科自身が留め具を外した。

 冷たい空気が細く入る。

 真琴は吸入器を使った。

 白い手袋を外し、左手で口元を覆う。発作は軽い。恥ずかしさの方が重い。

「続けられる?」

 七瀬が訊く。

「はい」

「返事が速い」

「ゆっくり答えても、同じです」

「なら一分待つ」

「時間が」

「あなたが倒れたら、もっと失います」

 真琴は反論しなかった。

 一分。

 部屋の全員が待った。

 待つことは、何もしないことではない。

 他人が戻る余地を、時間の中へ残すことだ。

 午後一時十四分

 照合を再開した。

 真琴は質問の形を変えた。

「P-B03-071を、次にどの記録へ接続すれば、現在地へ届きますか」

 山科が答える。

「第三班の移送日誌」

「それはどこに」

「第二検問の記録庫」

「閲覧条件」

「第二白線通過。隊長承認。共同照合官立会い」

「承認を拒否された場合」

「異議申立て」

「申立て先」

「隊長」

「隊長が拒否した承認を、同じ隊長へ異議申立てする?」

 山科は一度、目を閉じた。

「規則上は」

「あなた個人の考えは」

「記録担当の個人的見解は、手続きへ影響しません」

「影響させてくださいとは言っていません。聞いています」

「……良くない設計です」

 杜野が山科を見る。

「担当官」

「規則を批判しても、規則は消えません」

「だから言う必要がない」

「消えない物ほど、名前が要ります」

 山科はP-B03-071の欄へ、赤鉛筆で印を付けた。

《至急・所在再照合》

「これ以上は、第二検問です」

「一つ確認」

 由良が言った。

「第三班の巡回は、二十二日の何時」

「閲覧権限外です」

「私が知ってる。二十二日、北回りは十三時と十七時。南回りは十五時。C-9を運べる荷車が通ったのは、乾河床の西側だけ」

「なぜ知っている」

「見てるから」

「武器庫の位置も?」

 杜野の声が硬くなる。

「知らない」

「斥候長が?」

「境界の死角と巡回周期は見る。武器庫は地下で、扉の数も知らない」

「嘘かもしれない」

「知ってたら、おまえに言うと思う?」

「知らないという言葉も情報だ」

「じゃあ、聞くな」

 真琴は由良の麻紙へ、書かない。

 地図と巡回情報は複写禁止。

 ただし、P-B03-071の移送可能経路が乾河床西側だという推定は、本人捜索のために必要だ。

「由良」

「何」

「その推定だけ、記録してよいですか。巡回時刻と死角は書かない。二十二日の移送経路候補が西側であること、根拠は斥候の現地観察。公開範囲は調査班と照合官」

「名前を出す?」

「出さない形もできます」

「出せ」

 由良の答えは早かった。

「私が言った。間違ってたら、私へ返せ」

「責任を負う?」

「負う。でも、道は私の物じゃない」

「そこも書きます」

「長い」

「短くします。《鷹取由良の観察。通行権を含まない》

「それでいい」

 真琴は左手で本文を書いた。

 右手で署名欄を作った。

 由良は左手で署名した。

 山科と杜野も、それぞれの欄へ名前を入れる。

 番号だけだった人へ、まだ本名は戻らない。

 だが、次に開けるべき扉は決まった。

 P-B03-071。

 名前の欄が空白のまま、移送済みの印だけが濃い。

 真琴はその空白を黒く塗らなかった。

 白いまま、四人の署名で囲んだ。