第181話 第五章「無手の喧嘩」前編
一月二十五日 午後二時三分
殴らない喧嘩は、殴る喧嘩より忙しい。
竜胆迅は、第二検問の白線を見ながらそう思った。
殴るなら、相手の中心を一つ決めればいい。
顎。
鳩尾。
肝臓。
膝。
倒す場所は、身体の中にある。
殴らないなら、見る場所が増える。
足元の線。
背後の柵。
相手の武器。
味方の位置。
監視窓。
記録鐘。
射手の指。
倒れた後に頭を打つ石。
そして、自分が何をしたように見えるか。
第二検問は、乾いた排水路の上へ架けられた細い橋だった。
長さ二十四歩。
幅三歩。
左右に胸高の鉄柵。
橋の中央へ、二本目の白線。
線の手前に天環側の盾兵が四人。向こうに剛嶺側の棍兵が四人。さらに検査塔の窓へ二人。
人間より規則の方が、よく並んでいる。
「一人ずつ」
二班長の古賀洋が言った。
三十代半ば。首が太く、右耳の上に古い裂傷がある。短棍を腰へ差し、盾を持っていない。持たなくても、立ち方が四角かった。
「携行品を頭上へ」
「ない」
迅は両手を見せた。
「衣服を含む」
「脱げと?」
「外套、上着、靴を検査台へ」
「朝に済んだ」
「第一検問の検査は、第二検問の安全を保証しない」
「第二を済ませても、第三は保証しない?」
「その通りだ」
「便利だな」
「何が」
「前の確認が、毎回なかったことになる」
古賀は眉を動かさない。
「境界では、場所が変われば危険も変わる」
「人も?」
「変わる」
「同じ番号なのに」
「番号は身元を示す。無害を示さない」
迅は学ランを脱いだ。
冬の風が、薄い肌着を抜ける。
右手首の封印帯。
左手首の封印帯。
赤い七結び。
古賀の目は、紐で止まった。
「それも外せ」
「朝、許可された」
「第二検問では象徴索を認めない」
「ただの紐だ」
「意味がある」
「おまえが付けた」
「七つの結び。能力条件と一致する」
「結び目が七つなら、全部危険か」
「あなたが持てば」
迅は紐へ左指を掛けた。
外せる。
外しても力は消えない。
ただ、夏から手首にある物が、倉庫へ預けた鐘や工具と同じように、規則の棚へ移る。
「外さない」
「通過を拒否する」
「紐を持って通る」
「拒否だ」
「理由を書け」
「指示不服従」
「紐が危険な理由」
「能力発動を象徴する可能性」
「可能性」
「規則上、十分だ」
真壁が記録板を持って近づいた。
「第一検問の許可印があります」
「第二は独立検査だ」
「独立検査が先行許可を覆す場合、変更理由と責任者署名が必要です」
「私が署名する」
「時刻を」
「十四時七分」
「十四時七分二十一秒」
「好きに書け」
古賀が署名しようとした時、迅は紐を外した。
全員の目が動く。
「外すのか」
由良が訊く。
「時間が惜しい」
「今の署名、最後までさせれば責任が残る」
「残してる間に、人が移される」
「近道」
「そうだ」
「誰のため」
「番号の人」
「名前はまだない」
「だから急ぐ」
迅は七結びの紐を真壁へ渡した。
「預かれ」
「預託箱は第一倉庫です」
「じゃあ持ってろ」
「個人預かりは――」
「返す責任、嫌か」
真壁は紐を見た。
赤い糸。
重さはほとんどない。
「控えを発行します」
「いらない」
「私が要ります」
真壁は小さな封筒へ紐を入れた。封印番号を書き、自分の署名を入れる。
「個人仮預かり。十四時八分十三秒。第二検問通過後、直ちに返却」
「細かい」
「失くした時、あなたに殴られないためです」
「今日は殴らない」
「今日だけですか」
「返せば明日も」
真壁は封筒を内ポケットへ入れた。
古賀が顎で検査台を示す。
「靴」
迅は脱いだ。
左右を逆に置く。
「揃えろ」
「戻す時に分かる」
「何が」
「触ったか」
「我々は検査する」
「検査以外で動かしたか」
「疑っているのか」
「検査だ」
古賀の口元が歪んだ。
「口は武器として預けなかったらしい」
「おまえも」
「私は武装している」
「正直だな」
午後二時十二分
迅は靴下のまま、第一の踏板へ乗った。
鉄板は冷たい。
足裏の感覚が一瞬で薄くなる。
「両腕を水平」
古賀。
迅は上げる。
「右をもう少し」
「肩の高さだ」
「水平ではない」
「床が傾いてる」
「ここは水平だ」
轟が後ろから言った。
「右へ四ミリ下がってる」
「測ってないだろ」
「見れば分かる」
「黙れ」
「床に言え」
迅は腕を調整した。
右手の小指が冷えて開きにくい。
「回転」
「どっち」
「右」
迅は右へ向く。
「速い」
「普通だ」
「攻撃準備に見える」
「見た側の目を預けろ」
「もう一度。ゆっくり」
迅はゆっくり回る。
橋の中央。
白線の向こう。
剛嶺側の棍兵が、少しずつ位置を変えている。
右端の男は左足に体重。
中央の女は短棍を逆手。
奥の男は、肩より目が先に動く。
攻撃前の身体だ。
迅は見たことを言わない。
言えば、こちらが戦いを準備している証拠にされる。
「前進」
一歩。
「停止」
止まる。
「後退」
迅は動かなかった。
「聞こえないか」
「後退は敵対準備になる」
「一歩だ」
「三歩まで許可されてる。四歩で警告。七歩で拘束。だから一歩ならいい、と?」
「そうだ」
「命令で下がった歩数も数えるのか」
「動作は動作だ」
「おまえが七歩下がれと言ったら」
「言わない」
「六歩下げて、次の命令で一歩は」
「屁理屈だ」
「身体は、命令ごとに歩数を忘れない」
古賀が一歩近づいた。
「後退しろ」
「理由」
「検査」
「誰の安全」
「全員の」
「俺以外の?」
「命令へ従え」
迅は古賀の靴を見た。
右踵が少し浮いている。
怒っている足ではない。
踏み込む足だ。
「従う前に、内容を確認する。朝の規則だ」
「確認した」
「目的が足りない」
「不服従と記録する」
「書け」
迅が言った瞬間、剛嶺側の右端の兵が動いた。
短棍ではない。
肩からぶつかってくる。
攻撃と呼ぶには、武器がない。
事故と呼ぶには、足が速い。
迅は後ろへ退かない。
右足を軸に、身体を半歩だけ開いた。
兵の肩が胸をかすめる。
勢いの行き先は、左の鉄柵。
迅は左前腕を兵の上腕へ添えた。
掴まない。
押さない。
柵へ頭から入る角度だけを、肘から肩へ流す。
兵の掌が柵を叩く。
金属音。
「接触!」
古賀が叫ぶ。
「そっちからだ」
「警備隊員へ手を出した」
「頭を守った」
「制圧しろ!」
四人が動いた。
速さではない。
順番が揃っている。
一人目が正面。
二人目が右。
三人目が左の退路。
四人目が後方の白線。
迅がどこへ動いても、一つの違反になる配置。
正面へ出れば侵入。
右へ避ければ柵接触。
左へ出れば検査台の武器類へ接近。
後ろへ退けば能力準備。
よくできている。
よくできた罠は、罠を作った人間の癖を見せる。
全員が、迅の拳を見ている。
足を見ていない。
正面の兵が盾を突き出す。
迅は拳を作らず、右掌を盾面へ置いた。
押さない。
盾の下端が踏板へ触れる瞬間、左足の甲で兵の前足首を内へ寄せる。
盾の重さが自分の膝へ返る。
兵は体勢を崩す。
迅は肩を貸さない。
借りれば投げたように見える。
代わりに、自分の腰を盾の角へ当て、倒れる方向を橋の中央へ変える。
二人目の短棍が右肩へ来る。
迅は避けない。
避ければ後ろへ一歩出る。
右肘を下げ、短棍を上腕の外側で受ける。
痛み。
封印帯の細管に、淡い赤が走った。
打った側ではなく、打たれた衝撃も記録する。
「帯が反応!」
誰かが叫ぶ。
「見れば分かる!」
七瀬の声。
小型機は回っている。
何分使うか、彼女が決めた。
三人目が左から組み付く。
迅は左腕を上げ、相手の腋へ入れる。
肩を回さない。
相手の勢いを自分の背へ通し、そのまま正面の盾兵へ預ける。
二人がぶつかる。
迅は、ぶつけていない。
そう見えるかどうかは別だ。
四人目が後方の白線を踏み、短棍を横へ構えた。
退路を塞ぐ。
「迅!」
凱が呼ぶ。
「動くな」
迅が返す。
凱が入れば、集団衝突になる。
轟が入れば、橋の荷重が変わる。
由良が索を使えば、封印金具を破ったと見なされる。
タマキの鏡は、今は記録より役に立たない。
真琴の言葉は、棍より遅い。
ここは迅の距離だ。
だからこそ、迅一人で終わらせてはいけない。
正面の盾兵が起き上がる。
古賀が迅の背後から腕を取ろうとする。
迅は振り向かない。
古賀の右手が、右肩へ触れる寸前。
迅は左膝を落とした。
身体が下がる。
古賀の腕が空を掴む。
迅は膝立ちのまま、右足を後ろへ伸ばす。
後退ではない。
重心は動かさない。
踵が古賀の足首の前へ入る。
古賀が踏み込む。
自分の脛が迅の踵へ当たる。
上半身だけが前へ進む。
古賀は倒れた。
橋の中央ではなく、白線の外へ。
頭の先に、排水路の縁石。
迅は左手を床へつき、身体を回した。
右足の甲で古賀の胸を受ける。
蹴らない。
落下する重さを足の面へ乗せ、膝を曲げて殺す。
古賀の後頭部は石から指二本分で止まった。
その代わり、迅の右腿へ古賀の全体重が落ちる。
筋肉が痙攣した。
「動くな!」
銃口が上がる。
天環側。
剛嶺側。
両方。
迅は古賀の胸へ右足を置いたまま、両手を開いた。
「動いてない」
「足をどけろ!」
「どけたら頭を打つ」
「隊員を踏んでいる!」
「支えてる」
「足を上げろ!」
「上げた後の責任、誰」
タマキが叫んだ。
誰も答えない。
古賀の顔が怒りで赤い。
同時に、呼吸が浅い。
「名前」
迅が訊いた。
「何だと」
「古賀洋。合ってるか」
「足をどけろ」
「首、痛いか」
「おまえに関係ない」
「頭、打ったか」
「打ってない」
「足、動く」
「動く」
「じゃあ、右手で床を押せ」
「命令するな」
「起きる方法」
「自分で起きる」
「やれ」
古賀は右掌を床へついた。
迅は足を少しずつ緩める。
古賀の肩が上がる。
首が縁石から離れる。
その時、後ろにいた兵の一人が迅の右腕を蹴った。
不意打ち。
封印帯が鮮やかに赤く染まる。
迅の右手が反射で握られた。
拳。
身体の奥で、七歩分の空白が疼く。
足を一つ引けば、二つ目が続く。
七歩まで行けば、誰かを倒せる。
倒した瞬間に、全員が撃たれる。
迅は拳を開いた。
右腕を身体へ畳み、蹴りの力を肩から背へ逃がす。
古賀が叫ぶ。
「やめろ、瀬名!」
蹴った兵が止まった。
古賀は迅の足の下にいる。
それでも部下を止めた。
「帯が赤い! 拘束を!」
天環側の兵。
「衝撃源は警備側です」
七瀬が小型機を掲げる。
「十四時十四分三十二秒。右腕への蹴撃後、封印帯が全染色。迅は打撃なし」
「記録機を下ろせ!」
「許可機です」
「撮影停止!」
「誰の命令」
七瀬の声が、怒るほど丁寧になる。
「氏名と根拠条項をお願いします」
「停止しろ!」
「同じ言葉では、回答になりません」
真壁が警笛を三度吹いた。
甲高い音が橋を切る。
「全員停止! 第二検問規則九条、接触事案の現状保存! 武器を下げろ! 古賀班長、負傷申告! 調査班、姿勢維持!」
「姿勢維持って、いつまで」
迅。
「確認が終わるまで」
「足が痺れた」
「古賀班長が自力で離脱できるまで」
「早くしろ」
「おまえに言われたくない」
古賀が歯を食いしばり、右腕で身体を起こした。
迅は足をどける。
古賀は座ったまま、首を左右へ動かす。
「後頭部打撲なし。右肩、軽い。左膝、問題なし」
「医師確認を」
真壁。
「要らん」
「必要です」
「通過検査が先だ」
「接触事案が先です」
古賀の額に汗が浮いている。
寒さの汗ではない。
迅は彼の右耳上の古傷を見た。
裂傷は、上から下へ。
刃物ではなく、倒れた時の傷だ。
「前にも頭を打ったか」
「見るな」
「だから止めた」
「恩を売るな」
「売ってない」
「なら黙れ」
「分かった」
迅は本当に黙った。
古賀の方が困った顔をした。
午後二時二十六分
接触事案の確認は、十二分かかった。
十二分の間に、第二検問の向こうで一台の灰色荷車が通った。
窓のない箱型。
車輪へ白い泥。
由良の目が細くなる。
「C-9の移送車と同じ型」
「追える?」
迅が訊く。
「東の保守路へ入れば」
「許可は」
「ない」
「近道」
「ある」
由良は鉄柵の下を見た。
排水路へ降りる点検梯子。鍵は錆びている。柵の隙間は、人一人が横向きなら通れる。
「今なら巡回が西へ寄ってる。下へ降りて、二つ目の橋脚から東へ出る。荷車より先に検査庫へ着ける」
「全員?」
「轟は肩幅で無理」
「聞こえてる」
轟が言った。
「置いていく?」
由良。
「置かない」
「じゃあ迅と私。名簿だけ取る」
「古賀は」
「医務室へ行く」
「まだ立ってない」
「兵が運ぶ」
「その兵が、俺たちを追う」
「追わせればいい。足は私が速い」
「発砲理由になる」
「もう帯は赤い。向こうはおまえを拘束できる」
「逃げれば撃てる」
「残れば車が消える」
「古賀を立たせて、記録を終わらせる」
「遅い」
「分かってる」
「近道は嫌いになった?」
「帰れないから使わない」
「誰が」
「全員」
「全員を待つと、一人も見つからないことがある」
由良の声が尖る。
「剛嶺で荷台が切れた時、全員を助けようとした隊は、連結器ごと谷へ落ちた。三人だけ追えば助かった。私は、その三人の名前を知ってる」
「落ちた方の名前は」
「知ってる」
「忘れたくないから、同じことをする?」
由良の目が迅を刺す。
「おまえは、人を道の幅で数える」
「おまえもだ」
「私は仕事だ」
「俺も」
「違う。おまえは近道を選ぶくせに、最後の一人を置けない。だから一番危ない場所で止まる」
「止まれる奴が止まる」
「止まれない奴はどうする」
「先へ行け」
「いま言った!」
「許可された道を探せ」
「荷車は待たない」
「人も待たない。古賀の首も」
迅は古賀を見る。
古賀は二人の兵に支えられ、ようやく立った。右足へ体重を乗せる。問題ない。左膝。問題ない。首。少し硬い。
古賀がこちらを見た。
「行け」
低い声だった。
「何」
「通過検査を終える。おまえたちは第二線を越えろ」
「医務室」
「後で行く」
「後で倒れたら、俺のせいになる」
「もう十分、おまえのせいにできる」
「事実は」
「事実は、私が仕掛けた。おまえが避けた。部下が蹴った。おまえが殴らなかった」
古賀は、瀬名と呼んだ兵を見る。
「瀬名。短棍を置け」
「班長」
「検査終了まで外れろ」
「こいつは危険です」
「危険だから試した。試験方法が規則を越えた。私の命令だ」
「でも」
「置け」
瀬名は短棍を床へ置いた。
金属ではない木の音が、橋に響く。
迅は由良へ言った。
「古賀が歩くまで待つ」
「本人が行けと言った」
「支えられてる」
「意識はある」
「選べる?」
由良は古賀を見る。
古賀が二人の腕を外した。
一人で三歩歩く。
足取りは硬いが、倒れない。
「これでいいか」
「医務室へ行け」
「命令するな」
「方法だ」
「おまえの方法は嫌いだ」
「俺も、おまえが嫌いだ」
「知ってる」
古賀は少し笑った。
笑うと、右耳上の傷が歪む。
「五年前、武器を預けた男に、兄を殺された」
突然だった。
迅は黙る。
「拳は預託品に入らない。能力も発動しなければ違反じゃない。男はそう言って、兄の頭を石へ打ち付けた。だから私は、無手を安全と呼ばない」
「俺も呼んでない」
「なら、なぜ怒らない」
「怒ってる」
「見えない」
「殴ると見える」
「分かりやすいぞ」
「今日は高い」
「何が」
「代金」
古賀は鼻で息を出した。
「通過を認める。接触事案は双方の記録へ残す。おまえの帯は、警備側接触による反応と注記する」
「部下だけのせいにするな」
「しない。私の検査命令だ」
迅は一度、古賀の靴を見た。
両足とも地面へ乗っている。
「なら行く」
「二度と来るな」
「帰りに通る」
「面倒な奴だ」
「知ってる」
午後二時四十一分
第二白線の通過は、一人ずつだった。
迅の封印帯は真っ赤なまま。
だが、拘束印は付かなかった。
真壁が帯の上へ透明な注記札を巻く。
《十四時十四分。警備側蹴撃による反応。本人打撃なし。映像・証言あり。》
「長い」
迅が言う。
「短くすると、あなたが殴ったように見えます」
「じゃあ長くていい」
「珍しい」
「七瀬に言うな」
「撮っています」
七瀬が胸の小型機を指した。
「残り」
「二十二分九秒」
「使ったな」
「必要でした」
「古賀の顔」
「正面は入れていません。右耳の傷も、本人確認に不要なので外しました」
「俺は」
「顔が入っています」
「不公平」
「あなたは公開活動者です」
「誰が決めた」
「あなた。公開決闘へ出た時に」
「昔の俺が面倒だ」
「今のあなたも」
第二線を越える。
橋の向こうに、灰色荷車はもうない。
車輪の跡だけが、東へ曲がっている。
由良は跡へしゃがみ、白い泥を指で触った。
「四輪。左後輪が摩耗。重さは人なら六、荷物なら八百斤。急いでない。消す気もない」
「追える?」
「道なら」
「許可は」