第62話 第五章「作業拒否」後編
午後二時三十九分
真琴は休憩点検票を作った。
新品の紙の一頁目は使えない。
二頁目から始める。
《工程》
《通常休憩時刻》
《実施時刻》
《点検者》
《確認項目》
《異常の有無》
《再開判断者》
《変更理由》
《異議》
小麦が読む。
「長い」
「必要です」
「食べる前に読めない」
「食堂で使う文ではありません」
「休憩で使う」
「意味が違います」
「休憩二十分。これ書くのに何分」
真琴は自分で記入してみた。
三分四十秒。
「長い」
「言った」
小麦が赤鉛筆を取る。
《どこ》
《何時から何時まで》
《何を見る》
《危なければ誰が止める》
《誰へ言う》
「平たすぎます」
「工員が書く」
「法的用語が不足する」
「裏に長い方」
小麦は紙を裏返した。
表に五項目。
裏に真琴の条文。
「どっちが本文」
タマキ。
「両方です」
「但し書きが裏」
「裏は軽視されます」
「じゃあ、横」
机の上へ二枚並べる。
真琴は嫌そうな顔をした。
「紙が二倍です」
「短くして意味減らすより、紙増やす」
「私の台詞を取らないでください」
「タマキの」
「誰のでもいい」
迅が言う。
「使える方を使え」
「あなたが法務へ意見する日が」
「床の穴は見える」
「落ちた人が判例になるのを忘れないでください」
「知ってる」
迅の声が少し下がった。
真琴はそれ以上言わなかった。
午後三時十一分
工場長代理の承認を取りに行く前に、書庫の棚が倒れた。
原因は簡単だった。
上段の帳簿を抜き、荷重が片側へ寄った。
床の傾きは三度。
棚の固定金具は錆びている。
音は小さかった。
紙が一斉に息を吸ったような音。
迅が先に動く。
真琴の襟を左手で引き、机の下へ押す。
右腕は使わない。
棚が倒れる。
迅は蹴った。
棚の下端ではなく、横の椅子。
椅子が滑り、棚と床の間へ噛む。
一秒だけ止まる。
「出ろ」
真琴は眼鏡を落とした。
床がぼやける。
一メートル先の迅の顔も輪郭しかない。
「眼鏡」
「後」
「踏まれます」
「おまえが先」
「資料が」
「紙は呼吸しない」
迅が真琴を押し出す。
棚が椅子を潰した。
帳簿が床へ落ち、粉塵が爆発したように舞う。
真琴の胸が閉じる。
吸えない。
息を吐こうとすると咳が出る。
恐怖時、彼の言葉は短くなる。
「吸入器。鞄」
迅が旧白冠書記鞄を投げる。
真琴は受け損ねる。
眼鏡がない。
タマキが拾い、吸入器だけ抜いて渡す。
「誰から」
「真琴」
「誰へ」
「真琴」
「何のため」
「呼吸」
「受領」
真琴は吸った。
一度。
二度。
喉の奥が少し開く。
迅は倒れた棚へ戻ろうとする。
「止まって」
真琴が言った。
「資料」
「粉塵」
「おまえが言う?」
「私が失敗したから言えます」
「何を」
「棚を止めず、読み続けた」
「棚が悪い」
「荷重を変えたのは私です」
「固定してない工場が悪い」
「両方です」
真琴は床へ座ったまま、変更票を取った。
《書庫作業停止》
《理由 棚転倒、粉塵、固定金具不良》
《再開条件 棚撤去、換気、資料回収者の保護具》
自分の名を書く。
「今、契約読めない」
迅。
「読まなくても、現場変更はできます」
「じゃあ工場も」
「できます」
「紙がないと無理みたいな顔してた」
真琴は眼鏡をタマキから受け取った。
左のレンズにひびが入っている。
「私の顔は、通常時でも不快です」
「知ってる」
「否定してください」
「契約にない」
真琴は咳の間に、少しだけ笑った。
午後四時二十八分
休憩点検票は、工場長代理に拒否された。
「組織的な怠業だ」
代理は制御室の前で言った。
白い作業帽。
袖へ油が付いていない。
「既存契約の履行です」
真琴。
「一斉に出せば操業妨害になる」
「一斉とは書いていません。工程ごとの通常休憩です」
「点検は保全部が行う」
「条文では各班の点検者」
「運用が違う」
「変更記録を見せてください」
「慣行だ」
「慣行の開始時期と承認者を」
「外部に出す必要はない」
「では、工員本人が申請する場合は」
「個別に判断する」
「罰金は」
「正当な休憩ならない」
「長屋資格」
「影響しない」
「負傷者基金」
「影響しない」
真琴は一つずつ復唱した。
七瀬のカメラはない。
代わりに、工員三人が立っている。
小麦の鍋帳から確認を許可した三人。
「今の発言を、本人用の点検票へ記載します」
「録音していないだろう」
「証者が三人」
「工員は部下だ」
「だから証言能力がないと?」
「そうは言っていない」
「では、記録します」
代理の主語が逃げる。
真琴は追う。
質問で相手を追い詰め、答えられないこと自体を罪へ変える。
それが自分の悪癖だと知っている。
今日は、答えを取る前に出口を置いた。
「この場で承認しなくて構いません。工員本人が通常休憩を取り、その間の点検を申請した時、拒否するなら、あなたが理由と変更時刻を書く。それだけ確認します」
「書けば変更できる」
「はい」
「なら、こちらが勝つ」
「勝敗ではありません」
「外部はいつもそう言う」
「私は外部ではなく、契約を読む者です」
「誰の依頼で」
真琴は一円を思い出した。
「長屋で暮らす家族一名。契約者本人の意思は別途確認します」
「一円で工場を止める気か」
「一円は相談契約です。工場の値段ではありません」
代理は笑わなかった。
「個別申請だけだ」
「その言葉を記録します」
「好きにしろ」
真琴は眼鏡のひび越しに代理を見る。
「その言葉は、今週よく聞きます」
午後五時十七分
最初の休憩点検票は、空白のまま食堂へ置かれた。
誰も書かない。
書けば最初になる。
最初は、制度上は一人目である。
共同体の中では、裏切り者の別名になり得る。
小麦は票の横へ、夕方の端パンを置いた。
「食べたら署名?」
工員が訊く。
「別」
「無料?」
「一円。署名しなくても同じ」
「署名したら」
「一円」
「得がない」
「署名の値段をパンへ入れない」
工員は一円を払ってパンを取り、票には触れなかった。
次の者も。
三人目は票を読んだ。
裏の長い条文まで。
名前を書かず、質問だけ記す。
《異常なしだったら、休んだ時間の賃金は減るか》
真琴が回答を書く。
《通常休憩のため減額なし。ただし実際の給与処理は共同会計へ確認》
四人目。
《点検者が一人なら、異常を嘘と言われないか》
《確認者を一名以上選べる。選ばない権利もある》
五人目。
《親方が反対したら》
真琴の筆が止まる。
鉄志は反対する。
同時に、二番ローラーを自分で止めた。
単純な答えはない。
《鉞谷鉄志の反対理由を本人名で記録する。反対だけで休憩権は消えない》
六人目が、表へ工程名を書いた。
《三番返送》
時刻。
《明日 十二時十分から十二時三十分》
点検項目。
《弁の異音、温度、圧力》
危なければ誰が止める。
そこだけ空白。
工員は鉛筆を持ったまま、入口を見る。
鉄志が立っている。
いつからいたのか分からない。
「親方」
工員が言う。
「俺が止める、って書けばいい?」
鉄志は票を取らない。
「おまえが異常と思ったら、おまえが言え」
「止めるのは」
「俺が判断する」
「また親方」
「設備全体は俺が見る」
「でも、俺が最初に言う?」
「言え」
「臆病って書かない?」
食堂が静かになる。
鉄志は聞き返さなかった。
聞こえている。
「書かん」
「前は」
「俺も見た」
「止めなかった」
「そうだ」
「今度は」
「止めるかは、見て決める」
「休憩は」
「取れ」
「親方も?」
鉄志の右手が腰の手袋へ伸びる。
一枚を抜きかける。
やめた。
「俺の票を作れ」
真琴が訊く。
「工程」
「炉前」
「時刻」
「交代が来た時」
「時刻ではありません」
「分からん」
「では、未定と書きます」
「それでいい」
真琴は《未定》と書いた。
完成ではない。
空白を、空白のまま誰かの名前へ戻しただけだ。
最初の工員が、自分の票へ書く。
《危険を認めた者 自分。停止判断 鉞谷鉄志。異議 書ける》
署名する。
一人。
工場は止まらない。
ローラーも、炉も、銀の制御管も動いている。
ただ、明日の十二時十分に、一人が二十分だけ手を止める予定ができた。
大きな工場に対しては、あまりに小さい。
小さいから、誰の手で始まったか消えなかった。