第61話 第五章「作業拒否」前編

八月十五日 午前九時十六分

 人を働かせる契約は、たいてい「働け」とは書かない。

 働かなかった時に失う物を、細かく書く。

 朽葉真琴は赤錆大工場の旧会計室で、契約書を四列に分けていた。

 雇用。

 長屋。

 食券。

 負傷者基金。

 同じ工員の名前が、四つの紙にある。

 雇用契約だけを読めば、作業拒否は可能だ。

 長屋契約まで読むと、三日以上の職務放棄で家族区画の使用資格を失う。

 食券規定では、無断停止による減産が起きた場合、共同配給の優先順位が下がる。

 負傷者基金は、操業妨害による損失へ基金を流用できると書かれている。

 個人が手を止めると、自分だけではなく、別の負傷者の治療費が減る。

「よくできています」

 真琴は言った。

「褒めてる?」

 迅が窓際で訊く。

「いいえ。逃げ道を一つずつ別の紙で塞いでいる。悪意が一枚に集まっていないので、誰も自分を加害者だと思わずに済みます」

「破る?」

「紙を破っても、長屋は追い出します」

「役所を殴る」

「建物を殴ってください。職員へ傷害を加える案は却下します」

「誰も言ってない」

「あなたは主語を省くので、最悪の解釈から確認します」

 真琴は眼鏡の左つるを押し上げた。

 室内は埃っぽい。

 古い帳簿を動かすたび、灰色の粉が空へ上がる。

 小児喘息の名残が、胸の奥で細く鳴っていた。

 予備の吸入器は三か所へ隠してある。

 一つは内ポケット。

 一つは旧白冠書記鞄。

 一つは迅に見つからない机の裏。

「咳」

 迅が言った。

「していません」

「音」

「紙です」

「紙が呼吸する?」

「湿度で膨張します」

「おまえも?」

「比喩として不正確です」

 真琴は吸入器へ手を伸ばさなかった。

 迅は立ち上がり、窓を開けた。

 右手を使わず、左で古い留め金を外す。

 窓の外から工場音が入ってくる。

 低いローラー。

 遠い打撃機。

 四拍の信号。

 遅れる五拍目。

「閉めてください」

「空気」

「粉塵が外からも入ります」

「中よりまし」

「資料が飛びます」

 迅は窓枠へ壊れた金属券入れを置き、紙を押さえた。

 真琴が見る。

「鉞谷の物ですか」

「廊下に落ちてた」

「拾得記録」

「タマキに渡した」

「では、なぜここに」

「本人が、資料押さえに使えって」

「所有目的が変わっています」

「金を入れるより、紙を押さえる方が役立つ」

「金銭への侮辱です」

 真琴は券入れの下へ紙片を挟んだ。

《所有者 鉞谷鉄志。貸与目的 資料飛散防止。返却 閲覧終了時》

「面倒」

「あなたが拾うからです」

「落とした奴へ言え」

「本人は炉前です」

「だから殴る」

「話が戻りました」

 迅は配管図の写しを机へ広げた。

 銀の制御管。

 自動復帰器。

 地下弁室。

「鉄志を倒しても止まらない。分かった」

「最初から言っています」

「でも、邪魔は減る」

「工員の支持は残ります。自動運転も。契約も。あなたが鉞谷氏を倒せば、工員は『外部が親方を殴って操業を奪った』という最も単純な物語を得ます」

「分かりやすい」

「分かりやすさは、責任の人数を減らします」

「じゃあ、どうする」

「拒否できる条件を探します」

「書いてない」

「書いてあるから困っているんです」

「拒否したら家を失う」

「ええ」

「それは拒否じゃない」

「選択肢が不利益を伴うことと、選択肢が存在しないことは法的には別です」

「人間には?」

 真琴の指が止まった。

 迅は抽象語を嫌う。

 だから時々、法律より残酷に正確な質問をする。

「人間には、ほぼ同じです」

 真琴は答えた。

 午前十時三分

 最初に相談へ来た工員は、名前を言わなかった。

 年齢は三十前後。

 左手の人差し指が一節短い。

 食堂の聞き取り票では《給水》とだけ書いた者だった。

「止めたいわけじゃない」

 工員は入口へ背を向けず座った。

「何をしたいか、本人の言葉で」

 真琴。

「点検したい」

「どの設備」

「三番返送。圧力弁。昨日から音が違う」

「点検を拒否された」

「止める必要があるって言ったら、操業優先。見ながらやれって」

「見ながら、とは」

「動いてる管へ触る」

「危険」

「慣れてる」

「危険ではない?」

「危険だけど、慣れてる」

 真琴は二つを同じ記録へまとめなかった。

《本人は危険を認識》

《危険作業の経験あり》

「作業を拒否すれば」

「長屋がなくなる」

「即時ではありません。三日以上の職務放棄」

「一日止めたら、班の減産。三日分の罰金。次に止めたら三日になる」

「前歴がある?」

 工員は頷いた。

「去年、同じ弁で止めた」

「結果」

「異常なし」

「本当に」

「その日は。翌月、別の管が裂けた」

「関連」

「分からん」

「あなたの停止判断は記録された?」

「臆病って班日誌に」

「原文を見たい」

「出したら誰か分かる」

「では見ません。あなたの証言として、公開範囲を決めます」

「公開は嫌だ」

「保管だけ」

「保管も嫌だ」

「では書きません」

 真琴は紙を裏返した。

 工員が驚く。

「何もしない?」

「あなたが拒否したので」

「助けないのか」

「助けると言って、あなたの言葉を持ち出すことはしません。設備の点検権は別の資料から探します」

「俺が来た意味は」

「私が、個人の拒否では機能しないと知った」

「それだけ」

「あなたが、話した後も記録を拒否できた」

 工員は不満そうに立った。

 扉へ手を掛ける。

「本当に書いてない?」

「白紙です」

 真琴は見せた。

「名前も」

「聞いていません」

「指のこと」

「記憶していますが、文書化しません」

「忘れろ」

「努力します。保証はしません」

「嫌な奴だな」

「よく言われます」

 工員は出ていった。

 迅が窓際から言う。

「助けなかった」

「彼の希望を守りました」

「弁は」

「守っていません」

「どっちが大事」

「その質問へ、彼の代わりに答えないための相談です」

「便利」

「あなたの拳よりは不便です」

 午前十一時二十二分

 二人目は、家族の契約書を持ってきた。

 工員本人ではない。

 長屋で暮らす姉だった。

「弟が止めるって言ったら、家まで取られるんですか」

「条文上は、職務放棄が三日継続し、代替業務を二度拒否し、異議期間を経た後です」

「つまり」

「すぐには取られません」

「取られる可能性は」

「あります」

「工場が危ないなら、止めるのが正しいんでしょう」

「私は、まだ停止が唯一の正解とは確定していません」

「外の人たちは、止めろって」

「外の人、を誰と呼んでいますか」

「白い布の人」

「白布として停止要求は出していません」

「じゃあ何しに来たんですか」

 真琴は答えに詰まった。

 契約を読む。

 危険を記録する。

 拒否の条件を探す。

 どれも、今日の夜に弟が帰る保証にはならない。

「止めた後に、あなた方が家と食事を失わない方法を探しています」

「探してる間、弟は働く」

「はい」

「遅い」

「はい」

 真琴は謝罪しなかった。

 謝罪で時間が戻るなら、法律家は時計屋になる。

「これ、全部読んで」

 姉は契約書を机へ置いた。

「費用は」

「要らない」

 迅が言った。

 真琴が彼を見る。

「あなたは依頼を受けていません」

「金ないだろ」

 姉は頷いた。

「無料にしない」

 真琴は料金表を出した。

《初回相談 一円》

《契約複写 紙代実費》

《異議文作成 支払猶予可》

「一円?」

「契約関係を作るためです。払えない場合は猶予」

 姉は小銭を一枚出した。

「返してほしい時は」

「相談開始前なら全額。開始後は返金なし。ただし成果保証はありません」

「嫌な料金表」

「明確な嫌さは、曖昧な無料より安全です」

 姉は一円を机へ置いた。

「弟を止めてください」

「その依頼は受けられません。弟本人の意思が必要です」

「じゃあ、何を」

「契約を読みます。家族区画を守る条項と、点検の停止権を探します」

「遅い」

「はい」

 真琴は契約書の二頁目から読み始めた。

 午後零時四十一分

 小麦が昼食を運び込んだ。

 旧会計室の机は契約書で埋まっている。

 皿を置く場所がない。

 小麦は紙束の優先順位を見ず、迅の膝へ塩パンを置いた。

「食卓」

「人間」

「空いてる面がある」

「料金」

「二円」

「膝使用料」

「払わない」

「じゃあ返す」

 迅が塩パンを持ち上げる。

 右手が動きかける。

 左へ持ち替える。

 小麦は何も言わず、真琴の前へ薄い豆のスープを置いた。

「紙へこぼします」

「飲まないと咳で飛ばす」

「咳はしていません」

「胸がしてる」

 真琴は不機嫌に吸入器を使った。

 迅が言う。

「机の裏じゃない」

「見たのですか」

「蹴った」

「隠した意味が」

「机へ隠すな」

「あなたに管理されたくありません」

「してない。場所が悪い」

「正しい指摘を最悪の態度で言う才能がありますね」

「褒めるな」

 小麦が契約書の一枚を指差した。

「これ、休憩」

「触らないでください」

「手、洗った」

「内容を」

「読める」

「拡大鏡は」

「持ってきた」

 小麦は首掛け式の小さな拡大鏡を出した。

 本人が嫌っている道具だ。

 細かいレシピと細かい契約のためだけに使う。

「食事休憩二十分以上。工程都合で分割可。分割した場合、一回五分以上」

「既読です」

「五分未満は休憩じゃない?」

「契約上は」

「昨日、三分が多かった」

「違反の可能性があります」

「可能性じゃなく、三分」

「聞き取りが匿名で、契約者本人との照合がない」

「本人が丸をつけた分、十七人」

 小麦は鍋帳の写しを置いた。

「そのうち十二人が五分未満。名前は非公開。工程担当者と本人の確認は取れる」

 真琴の指が止まる。

「休憩を取らせる義務は、雇用側にあります」

「休む人が拒否したら」

「雇用側は安全確保のため、業務命令として休憩を命じられる」

「親方が休まない」

「鉞谷氏も雇用契約上は労働者です」

「議長」

「役職は休憩を消しません」

 小麦は真琴のスープへ蓋をした。

「食べるまで、次の紙は渡さない」

「脅迫ですか」

「配膳」

「契約上の根拠は」

「私の皿」

 真琴は三口で飲もうとした。

「五分」

「飲料に休憩規定を適用しないでください」

「食事」

「薄いスープです」

「豆十二粒」

「数えたのですか」

「入れた」

 真琴は椅子へ座り直した。

 小麦は勝ち誇らない。

 勝ち誇る代わりに、自分も隣へ座った。

「私も五分」

「厨房は」

「交代した」

「珍しい」

「侮辱?」

「事実です」

「記録して」

 真琴は鍋帳へ《土門小麦、十二時四十五分から十二時五十分、休憩》と書いた。

 自分の契約メモにも同じ時刻を書く。

 人を休ませる条文を探す者が、休憩を抜けば、文だけが働く。

 午後一時二十七分

 休憩条項の先に、点検条項があった。

《休憩中の設備点検》

 工程停止を伴わない視認、触診、計器確認は、各班の休憩時間に実施できる。

 異常を認めた場合、点検終了まで再開を保留できる。

 保留は職務放棄とみなさない。

「見つけた」

 迅が言った。

「私が見つけました」

「声出したの俺」

「発見者の定義を争いますか」

「料金」

 タマキがいつの間にか扉に立っていた。

「何の」

「見つけた賞金」

「ありません」

「じゃあ真琴」

「ありません」

「制度は夢がない」

「賞金目当てで契約解釈を変えられる方が困ります」

 真琴は条文の但書を読む。

《ただし、運転統括者が操業上の重大損失を認める場合、点検を別時刻へ変更できる》

「塞がってる」

 迅。

「まだです」

「重大損失って言えば終わり」

「言うだけでは足りない。認めるの主語は運転統括者。理由と変更時刻を記録しなければならない」

「今まで記録した?」

 小麦。

「見当たりません」

「じゃあ休憩を短くしたのは」

「契約違反の可能性が高い」

「可能性」

「本人確認が」

「十二人」

「分かっています」

 真琴は言葉を強くした。

 怒るほど敬語になる。

「法的には、個人の作業拒否ではなく、既に存在する休憩を正常に実施し、その時間内で設備を点検する。異常が出れば再開を保留する。これなら罰金条項は直接適用されません」

「全員が同時に休んだら」

 タマキ。

「工程別です。全停止にはならない」

「止まらない」

「最初から全停止を法文一つで作る話ではありません」

「遅い」

「遅いです」

 真琴は認めた。

「しかし、誰か一人を英雄にして手を止めさせるより、罰金を負わずに一工程ずつ速度を落とせます」

「鉞谷が反対する」

 迅。

「反対理由を記録させます」

「書かない」

「なら、変更は無効と主張できます」

「工場長が押す」

「理由は必要です」

「嘘を書く」

「嘘の証拠が必要です」

「また遅い」

「ええ」

「拳の方が」

「速い。ただし、あなたの拳は契約上の罰金を一円も減らしません」

 迅は黙った。

 右手の赤い紐を親指で押さえる。

「一円も?」

 タマキが訊く。

「一円もです」

「弱い」

「本人へ言ってください」

「聞こえてる」

 迅は窓の外を見た。

 票の書式を決める前に、工員の家族が三人、旧会計室へ来た。

 長屋契約の名義人。

 負傷者基金から治療費を受けている母親。

 食券を預かる十二歳の娘。

 作業拒否をする本人は来ていない。

「息子は止めたいと言った」

 母親が言う。

「でも私の薬は基金から出ている。止めれば基金が減る。私は何へ署名する」

 真琴はすぐ答えなかった。

 答えを早く出す法律家は、たいてい質問を別の形へ変えている。

「あなたは、息子さんの作業継続を決める権限を持ちません」

「じゃあ薬が切れても黙れって?」

「いいえ。薬の支払いと、息子さんの安全判断を分ける請求を作ります」

「紙を分ければ金が増えるのか」

「増えません」

「弱いな」

 迅が窓際から言った。

「聞こえています」

 真琴は母親へ向き直る。

「ただ、いまの契約は二つを結び、本人へあなたの薬を人質として見せています。まず、それを記録できます」

「記録で飲める薬はない」

「はい」

 真琴は認めた。

「だから、停止期間の基金不足を誰が立て替えるかも同時に決めます」

 小麦が共同会計帳を開く。

「三日分なら、食堂の予備費から出せる。五日だと無理」

「返済」

 タマキ。

「工場再開後、給湯契約の修理費へ上乗せを交渉」

「交渉が失敗したら」

「食堂の赤字」

「小麦が払う?」

「私じゃない。共同会計」

「誰の金」

「食べた人と、食べられなかった人の金」

 小麦は眉を寄せた。

 善意は、出所を書かないと他人の財布を使う。

「三日分を上限。対象者と金額を公開。ただし病名は非公開。延長は別の承認」

 真琴が書く。

 母親は紙を見た。

「息子が止めなかったら」

「立替は発生しません」

「止めたら、私が負担を作る」

「息子さんが作るのではありません。安全な操業を準備しなかった側の負担です」

「誰だ、それ」

 真琴は言葉を選ぶ。

「一人ではありません」

「一人じゃないと、誰も払わない」

「だから名前と額を後から分けます」

 母親は納得しなかった。

 納得しないまま、病名非公開の欄へ丸を付けた。

 十二歳の娘が、食券を机へ並べる。

「止まったら、これ使えない?」

「規定では優先順位が下がります」

「何番」

「世帯ごとに違います」

「うちは」

 真琴が台帳を確認する。

「七番から十一番へ」

「何がなくなる」

「肉と油が先に減る可能性があります」

「父さん、力出ない」

「そうですね」

「止めた後、直すのに力いる」

「そうですね」

「変だね」

「はい」

 真琴は三度目も認めた。

 子どもへ制度を説明する時、難しい言葉を使えないのではない。

 難しい言葉で隠していた矛盾が、使えなくなる。

 娘は食券の裏へ鉛筆で書いた。

《止めた人の肉を減らさない》

「条文になりますか」

 タマキ。

「このままではなりません」

「意味は」

「必要です」

 真琴は別紙へ置き換える。

《安全点検または緊急停止への参加を理由として、配給順位を不利益に変更しない》

 娘が読む。

「長い」

「すみません」

「肉って書けば」

「油や薬が抜けます」

「じゃあ裏に肉って書く」

「構いません」

 表には条文。

 裏には子どもの一行。

 どちらか一枚では、足りない。

 工員本人が来たのは、その四十分後だった。

 母と娘が帰ったあとである。

「二人、何て」

「本人の同意なしに詳しくは言えません」

「家族だ」

「だからです」

 男は机の票を見た。

《安全点検による配給不利益なし》

 裏を返す。

《止めた人の肉を減らさない》

 男は長い方ではなく、短い方を読んで笑った。

「娘だな」

「答えません」

「字で分かる」

「では私の守秘は成立しています」

「変な理屈」

「現実が先に漏れました」

 男は停止票へ、まだ署名しなかった。

 代わりに、配給不利益の禁止欄へ丸を付けた。

 一人の決断を作る前に、決断を罰する仕組みを一つ減らす。

 それは勇敢には見えない。

 勇気を要求する制度より、勇気がなくても逃げられる制度の方が、長く人を守ることがある。