第397話 第五章「百舌の同意順」前編

十月二十日 午後零時四十分

 水の中では、速い人間が強いとは限らない。

 速く動けば水を押す。

 押した水が、自分より先に相手へ届く。

 拳は短くなる。

 蹴りは戻らない。

 身体の大きさが、そのまま抵抗になる。

 竜胆迅は、百舌忍より速く泳げなかった。

 百舌は腕を大きく回さない。

 肩を落とし、肘を身体へ寄せ、短い蹴りで進む。

 透明防水服が水へ貼りつき、腰の鈴は一つも鳴らない。

 迅の学ランは地上へ置いた。

 黒い潜水服。

 右手首の赤い紐だけは外さない。

 水中で赤は黒く見える。

 七つの結び目も、指で触れなければ分からない。

 百舌が先。

 迅が後。

 施設潜水員二人。

 水没学校から旧寮へ向かう。

 図面では直線、二十八メートル。

 現実には、途中へ壁が三枚増えている。

 一枚目は、古い本棚。

 二枚目は、住民が作った寝台。

 三枚目は、施設側が後から設けた透明な検査壁。

 百舌は迷わない。

 寝台の下。

 配管の上。

 左へ身体を傾ける。

 迅は同じ経路を通る。

 肩が壁へ当たる。

 右手の古傷へ痺れ。

 百舌は振り返らない。

 後ろが通れると知っている。

 あるいは、通れない者を計画へ入れていない。

 旧寮の階段室。

 水面と天井の間、六十センチ。

 十二人。

 子ども二人。

 高齢者一人。

 脚を動かせない人一人。

 施設職員三人。

 残りは、年齢も立場も一目では分からない。

 百舌が水面へ顔を出す。

 打鍵器を壁へ貼る。

《次》

《東》

《四人》

 住民の一人が、西の屋根札を上げる。

 百舌は見ている。

 その人ではなく、呼吸の浅い四人を指す。

 東。

 先行。

 順番としては正しい。

 西を選んだ人は、今すぐ死ぬ症状ではない。

 後にする。

 後にすることが、拒否への罰か。

 医学上の順番か。

 水中では、理由が同じ動作になる。

 置いていく。

「西を確認した」

 迅が言う。

 空気溜まりでは声が届く。

 百舌は表示する。

《確認した》

《現在の優先順位 六番》

「東なら」

《四番》

「二人上がる」

《医療設備への距離》

「拒否したからじゃない」

《違う》

「本人に説明」

《時間》

「説明しない順番は、罰に見える」

《見え方では肺は変わらない》

「肺以外も生き残る」

 百舌は迅を見る。

 紫に近い瞳。

 喉の黒帯。

 気管切開痕の上を指で押さえる。

《肺が止まれば、その後はない》

 迅は返せない。

 百舌は冷酷ではない。

 冷酷なら、もっと簡単だった。

 彼女は一人ずつ呼吸を見ている。

 皮膚色。

 震え。

 意識。

 水温。

 潜水者の残量。

 順番には根拠がある。

 その根拠から漏れるものを、価値がないとは思っていない。

 思っていないまま、後へ置く。

 迅は西札の人へ近づく。

「今は六番。東なら四番。理由は距離と医療。待てる?」

 その人は屋根札を握る。

 待つ。

 そう言ったように見える。

「待つでいい?」

 指で時計。

 六。

 屋根。

 本人は首を縦へ動かす。

 迅は百舌へ示す。

《本人確認》

《西》

《六番》

 百舌が一度頷く。

 順番は変えない。

 説明だけ増えた。

 それでも、同じ後回しではない。

 自分の順番を知って待つ人と、忘れられたと思って待つ人は、身体の位置が同じでも違う。

 百舌は最初の四人を選ぶ。

 一人は意識低下。

 一人は呼吸困難。

 一人は低体温。

 一人は年少。

 全員、東。

 年少者が十字札を拒む。

 手を背中へ隠す。

 百舌は手を取ろうとしない。

 打鍵器へ表示する。

《東》

《呼吸》

《今》

 年少者は首を横へ振る。

 隣の大人が抱きしめる。

 西札を二人で持つ。

 家族か。

 施設内の保護者か。

 分からない。

 百舌は二人を見て、年少者の優先順位を下げた。

 東を拒否したから。

 迅の腹に、冷たいものが溜まる。

「呼吸が悪い」

《東を拒否》

「西へ先に送る」

《西口医療は不足》

「死ぬまで待つ?」

《説得》

「誰が」

《保護者》

「保護者も西」

《判断能力に問題》

 大人が表示を読んでいた。

 西札を握る手が強くなる。

「問題って何だ」

 迅。

《年少者の救命を損なう》

「だから権利を取る?」

《保護ではない判断を、保護者判断と呼ばない》

 正論だった。

 年少者の命を危険へ置く選択を、家族だから無条件に認めることはできない。

 けれど、東口で能力履歴を取られる恐怖も、迷信ではない。

 施設で何をされたか。

 迅は知らない。

「中央」

 迅が円札を出す。

「中央で安定。二十四時間保留。悪化したら東へ医療代行」

 百舌。

《中央の医療は不足》

「今の呼吸で何分」

 百舌は年少者の胸を見る。

《十七》

「中央まで」

《六》

「安定処置」

《可能》

「なら中央」

《最善ではない》

「本人と保護者が選べる中で、死なない案」

 百舌は打鍵を止めた。

 年少者が円札へ手を伸ばす。

 握る。

 大人も同じ札へ手を置く。

 同じ動作。

 同じ意味かは分からない。

 百舌は誓痕を使わない。

 中央班へ二人を渡す。

 年少者の優先順位は一番へ変わる。

 東を拒否したから下がった順番が、中央という第三の経路で戻る。

 選択肢を増やすことは、時間を使う。

 同時に、死なない道を増やす。

 午後零時五十六分。

 旧寮から最初の六人が出る。

 東二。

 中央二。

 西二。

 西を待った人が、六番目に出る。

 百舌は約束どおり順番を守った。

 迅は、彼女の背中を見ている。

 両手を背中へ組む立ち姿。

 自分の手が他人を同じ動作へ引き込むから、普段は隠す。

 能力を持つ人間が、能力を使わないために取る姿勢。

 それを知っても、彼女の判断が正しくなるわけではない。

 悪くもならない。

 六人を旧寮から出す前に、百舌は順番を床へ描いた。

 白い耐水筆。

 一。

 意識低下。

 二。

 呼吸困難。

 三。

 低体温。

 四。

 中央を選んだ年少者と、その保護者。

 五。

 東を選んだ職員。

 六。

 西を待つ人。

 番号は、価値ではない。

 そう書く余白は、水中の床になかった。

 迅は六番の人へ、指で数字を見せる。

 相手は自分を指す。

 六。

 次に、五を指す。

「五番が先?」

 首を横。

 もう一度。

 自分。

 五。

「五分?」

 頷く。

 百舌の表示では、六番目まで七分四十秒。

 迅は二本指で七。

 掌へ四。

 相手は眉を寄せる。

 数字が多い。

 巴の短い札を出す。

《待ち時間 八分以内》

 相手は屋根札の裏へ爪を当てる。

 面会拒否の印。

 西口へ出ても、家族へ会わない。

 それを迅が理解したと示すため、屋根を指し、次に顔を背ける動作。

 相手は頷く。

 待つ。

 その時、年少者が咳き込んだ。

 乾いた咳ではない。

 空気溜まりの湿気を飲み込む音。

 百舌がすぐ近づく。

 胸へ手を当てようとする。

 保護者が腕を払う。

 水面が揺れる。

 百舌は手を引く。

 代わりに、自分の胸へ二本指を当てる。

 呼吸数。

 次に年少者へ指を向ける。

 保護者は、年少者の胸へ掌を置く。

 百舌が指で数える。

 一。

 二。

 三。

 二十八。

 さっきより四多い。

 ミソラの基準では、中央へ送れる上限に近い。

 百舌は東を指す。

 年少者は円札を離さない。

 迅は、十七分という先ほどの推定を思い出す。

 推定は、使った瞬間から古くなる。

「中央まで六分」

 迅。

 百舌は頷く。

「悪化したら」

 東。

「その説明を本人へ」

 百舌は年少者へ指を見せる。

 円。

 次に十字。

 胸。

 中央へ行く。

 呼吸が悪くなれば東へ。

 年少者は円札を握ったまま、十字へ一度触れる。

 保護者も同じ動作。

 同じ意味か。

 百舌は二人へ別々に確認する。

 年少者。

 円。

 十字。

 頷く。

 保護者。

 円。

 十字。

 頷く。

 二人の動作を一度にそろえれば速い。

 百舌は誓痕を使わない。

 迅は、その自制を評価したくなかった。

 評価すれば、過去に使った時の責任が薄まる気がした。

 けれど、今使わなかった事実まで消すのも違う。

「使わなかった」

 迅は言う。

 百舌が見る。

「記録する」

 百舌は一度だけ頷いた。

 最初の担架を階段室から沈める。

 意識低下の一人。

 狭い出口。

 幅五十四センチ。

 担架は五十二。

 図面では通る。

 現物では、壁へ後付けの棚が二センチ出ている。

「外す」

 迅が棚へ手を掛ける。

 百舌が止める。

 棚の上には、薬瓶が三本。

 住民が空気溜まりへ持ち込んだ吸入薬。

 外せば薬瓶が水へ落ちる。

 迅は棚を壊さず、担架の布だけを外す。

 人の身体を布で包み、枠を先に通す。

 百舌が身体を支える。

 迅が枠を斜めにする。

 出口の先で布を枠へ戻す。

 四十秒余計にかかる。

 薬瓶は残る。

 次の人が使える。

 救助した一人のために、残る五人の薬を失わない。

 二人目。

 呼吸困難。

 面体を付けようとすると、両手で払いのける。

 百舌が目を見る。

 施設職員が首を横へ振る。

《抵抗》

 迅は表示を奪う。

《理由》

 本人は喉を指す。

 面体の縁。

 首。

 百舌が黒い喉帯を外し、自分の傷を見せる。

 気管切開痕。

 次に、面体を自分の顔へ当てる。

 喉へは触れない形を示す。

 本人はまだ拒む。

 迅が小型の鼻口器を出す。

 全顔面体ではない。

 密閉は弱い。

 移動速度は落ちる。

 本人は鼻口器へ触れる。

 頷く。

 百舌は全顔面体を使わない。

 最善の酸素効率より、本人が着けられる器具を選ぶ。

 その結果、東までの所要は一分二十秒増える。

 百舌の表の順番が一つずれる。

 西を待つ人が、六番から七番になる。

 迅はその人へ、新しい数字を示す。

 七。

 相手の眉が動く。

 迅は理由を指す。

 喉。

 面体。

 遅い。

 相手は屋根札で床を一度叩く。

 怒りか。

 了解か。

 迅は掌を下へ。

 不明。

 相手は、自分の胸を叩く。

 次に、待つ人の列を指す。

 最後に、鼻口器の人へ親指を上げる。

 怒っている。

 それでも先に行かせる。

 感情を一つへ決めなくても、順番は確認できた。

 中央の年少者を運ぶ時、保護者が同じ索へ入ろうとした。

 一本の腰索へ二人。

 施設手順では禁止。

 百舌が二本へ分ける。

 年少者が首を横へ振る。

 保護者の手を離さない。

「同じ索だと、片方が引かれた時に二人とも壁へ当たる」

 迅が言う。

 年少者は理解しているか分からない。

 百舌は二本の索を、中央の短い連結帯でつなぐ。

 二人の腰は別。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 片方が流されても、衝撃は二本へ分かれる。

 保護者が帯を確かめる。

 年少者も確かめる。

 同じ索ではない。

 離れてもいない。

 規則を破らず、規則が守ろうとしたものを残す。

 百舌はそういう変更ができる。

 できる人間が、なぜ一本化へ戻るのか。

 迅には分からない。

 分からないまま、百舌の手順へ従う。

 階段室から水へ入る。