第396話 第四章「声の届かない同意」後編
七瀬は潜らない。
左肩を冷やす。
地上で札番号を受ける。
東二。
西二。
中央一。
途中変更、一。
変更前は西。
変更後は東。
理由は、同伴していた年少者の呼吸が悪化したため。
本人が、自分も東へ行くと選んだ。
「家族口を選んだのに」
施設職員が言う。
「それが本人希望だった」
「今も本人希望」
ミソラ。
「一貫していない」
「人は、状況が変わると変える」
「施設手順が複雑になります」
「手順のために人を一貫させない」
百舌が窓へ出す。
《変更は一度まで》
巴がすぐ首を振る。
《なぜ一度》
《追跡不能になる》
《追跡の都合》
《救助の安全》
《誰の安全》
百舌は答えず、潜水班へ合図を送る。
手を背中へ組んだまま。
自分の誓痕を使わないようにしている。
それが自制なのか。
次の発動を選んでいるのか。
七瀬には分からない。
分からない表情を、悪意の証拠にしない。
午後零時十八分。
先ほど中央を希望した患者から、東口経由で新しい受領記録が届く。
《呼吸安定》
《中央への移動を本人が再確認》
《東での医療処置を終了》
《中央口受入承認》
担架が地上の連絡路を通って中央へ移る。
水中ではなく、地上で。
最短ではない。
二度運ぶ。
人手も使う。
全員を東へ送るなら不要だった移動。
患者は円札を自分で持っている。
七瀬は撮影許可を訊く。
患者は、円札を握った手で黒布札を指す。
撮らない。
「受領」
七瀬はカメラを持っていない。
それでも同じ言葉を使う。
撮影できないことと、撮らない選択は違う。
機材が壊れているから撮らなかったことにすれば、患者の拒否が消える。
七瀬は紙へ書く。
《機材故障中》
《本人も撮影拒否》
《二つを別記》
百舌がその記録を見る。
表示板。
《記録が増えすぎる》
七瀬は返す。
《選択が多いから》
《後で読めない》
《読む人を増やす》
《誤読が増える》
《訂正できる》
《救助中に訂正できない》
七瀬は手を止める。
その通りだった。
水中で誤読された選択は、地上へ出るまで本人の身体を運ぶ。
訂正可能性は、誤りを無害にしない。
七瀬は紙を一枚破る。
百舌の東固定案を否定する文ではない。
《途中変更を見落とした時》
《最初の搬送を停止できる位置》
《別口へ移す地上経路》
《誰が費用を負担するか》
誤りが起きる前提で、戻す路を作る。
次の空気溜まりには、壁がなかった。
正確には、壁だった物が床へ倒れ、その裏へ三人が身体を入れていた。
倒れた仕切り板。
天井との隙間、四十センチ。
呼吸できる空間は、顔一つ分ずつ。
七瀬が黒布札を見せる。
一人目。
右手を上げる。
黒布へ触れる。
撮らない。
二人目。
十字札を取る。
次に、カメラへ指を向ける。
親指を立てる。
撮ってよい。
三人目。
何もしない。
施設潜水員が、三人目を撮影許可へ数えようとした。
七瀬は撮影機を上げない。
「反応なしは、許可ではない」
声は空気溜まりへ届く。
潜水員が言う。
「意識が薄い」
「だから撮らない」
「本人確認が」
「医療代行はできる。撮影代行はしない」
「事故検証」
「顔を残さず、位置と症状を残す」
七瀬は撮影機を仕切り板の外へ向ける。
梁の番号。
水位。
倒れた壁。
呼吸できる隙間。
人の顔が入らない角度。
一人目は黒布札を握っている。
二人目は、撮影許可の小札。
三人目は意識が薄い。
三人を一つの画面へ入れれば、誰が何を選んだか分からなくなる。
七瀬は二人目へ、もう一度許可範囲を示す。
顔。
手。
全身。
設備だけ。
二人目は、自分の手を指した。
「手だけ」
確認。
その手は、西の屋根札を持っている。
「札も?」
本人は屋根札を裏返す。
裏面を映さない。
表の屋根だけ。
家族へ会うかどうか、共同宿舎か、医療だけか。
裏面にある目的は公開しない。
七瀬は撮影を始める。
黒い画面。
仕切り板。
濡れた指。
屋根の溝。
顔はない。
それでも、誰かが西を選んだ事実だけは残る。
撮影時間、七秒。
七瀬は止める。
長く撮れば、指の震え、爪の形、古傷から本人を特定できる可能性が増える。
「短い」
潜水員。
「必要な範囲です」
「感情がない」
「記録に感情を足すと、本人より先に意味が決まります」
「何を思って選んだか」
「本人が後で話すなら、その時に」
二人目が、手だけで小さく拍手する。
一度。
七瀬は撮らない。
許可されたのは、屋根札を持つ手の七秒だけだ。
三人を仕切り板の下から出すには、身体へ触れる必要があった。
一人目は、肩へ触れると全身を硬くした。
迅が手を離す。
「触らないと出せない」
本人は黒布札を離さない。
タマキの作った触覚板を見せる。
肩。
腰。
足。
索。
どこへ触れてよいか。
本人は腰と索を選ぶ。
肩は拒否。
迅は腰帯を見せる。
「自分で巻く?」
本人が頷く。
仕切り板の隙間では、両腕を大きく動かせない。
迅は帯を差し入れる。
本人が自分の腹へ回す。
留め具だけ、迅が指で示す。
水が顎まで上がっている。
早く触れば、三十秒短くなる。
本人が留め具を二度外す。
向きが違う。
迅は手を出さない。
三度目。
留まる。
腰索を引く。
身体が隙間から出る。
肩は誰にも触れられない。
水へ入った瞬間、本人が迅の腕へしがみついた。
自分から触れることと、触れられることは同じではない。
迅は腕を外さない。
本人が離すまで待つ。
二人目は撮影を許可したが、身体への接触は足だけを選んだ。
七瀬が足首へ索を巻く。
左肩を上げない。
腰を落とす。
右手で留める。
仕切り板の端が、水流で跳ねた。
撮影機の防水殻へ当たる。
鈍い衝撃。
記録輪が一度、勝手に回る。
七瀬はすぐ停止する。
「今の映像」
潜水員。
「事故記録として封じます」
「本人の顔が」
「入った可能性があります」
「消す?」
「確認前に消さない。公開しない。本人へ戻った後、本人と一緒に判断する」
「今見れば」
「今は救助」
七瀬は撮影機のレンズへ黒布を二重に巻く。
記録輪を物理的に止める楔を入れる。
機材が壊れたから撮らないのではない。
壊れかけた機材が勝手に撮る可能性を止める。
三人目。
意識が薄い。
ミソラが医療代行を出す。
東。
撮影はしない。
迅が担架布を仕切り板の下へ滑らせる。
板を持ち上げる力はない。
轟が地上から振動で手順を送る。
一。
板の下へ二本の短棒。
二。
短棒を同時に九十度回す。
三。
できた隙間へ布を通す。
迅と施設潜水員は同時に回さない。
同時を誰かの誓痕へ任せない。
迅が先。
潜水員が一呼吸後。
板が斜めに上がる。
七瀬が布を押し込む。
左肩に痛み。
押し切らない。
潜水員へ手を開く。
交代。
布が通る。
三人目を載せる。
誰も顔を撮らない。
担架布の四隅についた番号だけを、地上記録へ送る。
午後零時二分。
三人は別々の口へ向かう準備に入った。
一人目は中央。
二人目は西。
三人目は東、医療代行。
同じ仕切り板の下にいた三人。
同じ災害に遭ったことは、同じ行先を選ぶ理由にはならなかった。
地上へ戻った時、撮影機の防水殻には細い亀裂が入っていた。
七瀬は機材を布へ置く。
「修理」
轟。
「今はしません」
「応急なら五分」
「五分後に撮る必要があるか、先に決めます」
「機材が直ってから決めれば」
「直った物は使いたくなります」
轟は亀裂へ指を近づけ、触れない。
「分かる」
「設備屋が?」
「直した扉は開けたくなる」
「開ける必要がない時も」
「ある」
七瀬は機材へ札を付ける。
《故障》
《勝手な撮影の可能性》
《使用停止》
《本人確認前に映像を閲覧しない》
タマキが見る。
「壊れたカメラにも行先」
「保管庫」
「目的」
「事故映像の封印と、本人による判断」
「受取人」
「綺理」
石英綺理が鍵箱を一つ出す。
「受領します。開封は本人、七瀬、医療者の三者条件。顔が入っていなければ、設備記録だけ分離します」
「顔が入っていたら」
「本人が決めるまで預かる」
七瀬は撮影機を渡す。
手放した左肩が、遅れて痛んだ。
ミソラが冷却布を置く。
「痛み」
「六」
「予測は七」
「外れました」
「悪化方向に一だけ」
「誤差」
「あなたの肩には大きい」
七瀬は反論せず、冷却布を受け入れた。
撮らないことは、何もしないことではない。
機材を預け、代替記録を作り、本人へ返す手順を残す。
目を閉じるより、手間がかかる。
迅が紙を見る。
「間違えない方法じゃない」
「ありません」
「言い切った」
「あなたも、暴力の源を誤る可能性がある」
「ある」
「能力を使わない」
「使わないことも間違える」
「だから記録する」
「殴らなかった人の死も?」
七瀬は答えるまで三秒かかった。
「記録します」
「嫌だな」
「はい」
「それでも?」
「それでも」
水中の窓へ、三種類の札が並ぶ。
同じ列にいる人々が、別々の物を持つ。
誰も拍手しない。
声もない。
画面にも映らない。
それでも、違う行先は存在していた。