第395話 第四章「声の届かない同意」前編
十月二十日 午前十一時五分
火群七瀬は、水中カメラへ黒い布を巻いた。
「撮らないなら、持っていく理由は」
迅が訊いた。
「撮るかどうかを、現場で本人に訊くためです」
「訊く前から光る」
「だから布」
「重い」
「私も知っています」
撮影機は手回し式の小型機。
防水殻。
腰帯固定。
左肩へ掛けない。
それでも、潜水具に加えれば三・二キロ。
水中では軽く感じる。
軽く感じる物ほど、上がる時に身体へ残る。
七瀬は、重量を記録した。
「肩」
ミソラ。
「可動域内」
「痛み」
「四」
「十段階?」
「今は」
「撮影後」
「予測はしません」
「私がする。七」
「根拠」
「あなた」
七瀬は答えない。
潜水参加をやめるほどではない。
やめない理由が、必要性だけかは自分でも分からない。
母の映像。
監視網。
見ないと決めた記録。
水中では、目を開けても見えない。
見えないことが、七瀬には怖い。
「七瀬」
タマキが防水札を持ってくる。
「誰から」
「地上記録班」
「誰へ」
「図書室、旧寮、保守回廊の住民」
「目的」
「撮影許可の確認。手信号の学習。選択変更の記録」
「撮影許可を撮影して確認する?」
「しない」
「どうやって」
「札番号。潜水員の別記。本人の合図」
「本人が後で違うって言ったら」
「本人の現在の言葉を優先する」
「映像より?」
「映像は過去です」
「七瀬が言うと、何かあったみたい」
「ありすぎます」
タマキは三つの選択札に、四枚目を加えた。
黒い布の絵。
《撮らない》
裏面。
《救助は続く》
《行先選択へ影響しない》
《あとで撮影を選び直せる》
「僕が作った」
「巴の確認は」
「受けた」
巴が左手で親指を上げる。
右人差し指は温熱布で巻かれている。
「料金」
七瀬。
タマキが目を見開く。
「言う側になった」
「依頼した側が払います」
「成長」
「そう書かないで」
圧力筒へ入る。
七瀬。
迅。
施設潜水員一人。
百舌は透明指揮室から合図を送る。
東。
前進。
戻る。
三つ。
七瀬は同じ動きをしない。
手首へ四枚の札を見せる。
百舌は打鍵器へ短く入力した。
《撮影は施設記録に必要》
七瀬は黒布を指す。
《本人が拒否した場合》
《施設内に拒否権なし》
七瀬は、撮影機の録画輪を回さない。
外扉が閉じる。
水が上がる。
胸。
喉。
耳。
音が消える。
正確には、音が全部低くなる。
呼吸器の空気。
弁の震え。
自分の血流。
遠くで鉄を叩く振動。
迅の肩が一瞬固まる。
七瀬は見た。
撮らない。
迅は目を閉じ、一度息を止める。
次に吸う。
内扉が開く。
濁水。
照明を最小へ落とす。
施設潜水員の胸灯が白く広がり、浮遊物を雪のように照らす。
図書室へ向かう廊下は、廊下ではない。
天井近くまで水。
机が壁へ立ち、椅子が逆さに引っかかっている。
教科書の頁が一枚ずつ剥がれ、魚のように通り過ぎる。
七瀬のカメラへ、誰かの手が触れた。
振り向く。
透明窓の内側。
左手首へ三本線を描いた少年。
年齢はタマキより少し上か下か。
指先で、黒布を指す。
七瀬は撮らない札を見せる。
少年が札を握る。
握った。
同意。
そう解釈しかける。
少年は札を、七瀬のカメラへ押しつけた。
撮らない。
七瀬は録画輪から手を離し、両掌を見せる。
少年は一度頷く。
次に西の屋根札を取る。
自分の胸へ当てる。
西。
家族口。
七瀬は屋根札の裏面を見せる。
三つの椅子。
家族へ会う。
会わない。
医療だけ。
少年は、離れた椅子を指す。
家族には会わない。
西の受入所へ行く。
医療は受ける。
細かい選択。
撮影できない水中で、七瀬は番号を覚える。
札W-04。
撮影拒否C-02。
左手首三線。
胸灯位置、図書室南窓。
映像より弱い。
だから、迅にも見せる。
迅が同じ番号を指で返す。
施設潜水員にも。
三人の別記。
少年は納得したか、もう一度頷いた。
今度の頷きを、すべてへの同意にしない。
屋根札だけ。
次の窓。
高齢の女性が、東札を握る。
呼吸が速い。
唇が青い。
ミソラの事前指示では、先行。
七瀬はカメラを身体へ固定し、担架帯を出す。
女性は黒布札も握った。
撮らない。
七瀬は録画輪へ封印帯を巻く。
封印番号を女性に見せる。
女性は理解できているか。
目が泳ぐ。
呼吸。
寒さ。
混乱。
七瀬は一問ずつ見せる。
東。
女性が握る。
撮らない。
握る。
あとで変える。
指を動かさない。
分からないのか。
変えないのか。
七瀬は、分かったことにしない。
潜水員が腕時計を指す。
時間。
七瀬は東を医療推奨として運ぶ。
札へ、自分の記録印を付ける。
《本人は東札を握った》
《変更可能の理解は未確認》
《撮影拒否は明示》
《医療代行 七瀬ではなく地上ミソラ確認》
水中では書けない。
記憶する。
記憶は、都合よく整う。
だから迅へ、指で順番を返す。
東。
撮らない。
変更、未確認。
迅が同じ順番を返す。
施設潜水員は東だけを返した。
七瀬は彼の肩を止める。
撮らない。
変更、未確認。
潜水員が苛立つ。
時間を指す。
七瀬は時間を認める。
それでも、二つを返させる。
記録のためではない。
地上へ着いた時、東へ運んだことだけが残れば、女性の拒否が消える。
三人は女性を圧力筒へ送る。
次の救助者が受け取る。
その間に、図書室の空気は減る。
水面と天井の間が、指四本分。
十四人が、顔だけを出している。
百舌が内側から浮き板へ表示を出す。
《全員 東》
《一列》
《同一動作》
住民の一部が掌を開く。
同意合図。
少年は開かない。
屋根札を胸へ押しつける。
別の女性は中央の円札。
百舌は一列を崩さない。
迅が水面へ顔を出す。
「百舌」
声は空気溜まりで届く。
百舌は喉帯を押さえ、打鍵器を防水板へ接続する。
《時間がない》
「分ける」
《一列なら水路で詰まらない》
「行先別の順番」
《三列は混乱》
「一列の中で札を変える」
《救助者が誤る》
「もう誤ってる」
迅が指す。
後列の一人。
東札を持っている。
もう片方の手で中央を示している。
「どっち」
百舌がその人へ施設手話を出す。
掌。
東。
継続。
相手は掌を返す。
百舌は《東》と板へ書く。
七瀬は違うと思う。
相手の掌は、百舌と同じ角度ではない。
指先が下がっている。
停止かもしれない。
力がないだけかもしれない。
七瀬は本人へ近づく。
東札を指す。
相手は握らない。
中央札を見せる。
目が動く。
もう一度。
中央。
相手の右眼が二回動く。
視線選択。
百舌が首を横へ振る。
《眼振》
《選択ではない》
ミソラがいない。
七瀬に医学判断はできない。
迅が言う。
「中央へ」
《根拠不足》
「東も根拠不足」
《標準》
「標準は根拠じゃない」
水位が上がる。
本人の鼻へ水が触れる。
選択を待つ時間が切れる。
七瀬は中央札を本人の胸へ固定した。
《視線二回》
《医学的確度不明》
《七瀬が中央を代行》
《到着後再確認》
本人の同意とは書かない。
百舌の目が険しくなる。
それでも、七瀬は担架を中央経路の救助者へ渡す。
最初の四人が図書室を出る。
東二。
西一。
中央一。
行先が違う。
水路は途中まで同じ。
分かれるのは、旧音楽室の分岐。
水中では声が届かない。
結び目で分ける。
一結び。
二結び。
輪。
七瀬は少年の西札を、二結びの索へ通す。
少年自身が握る。
撮影機の黒布も確認する。
分岐へ着く。
東班が右。
西班が左。
中央は上。
その瞬間、後方の圧力が変わった。
水が押す。
索が三本、同じ方向へ引かれる。
施設潜水員が、少年の西索を東索へ掛け替えた。
混乱を避けるため。
近い圧力筒へ入れるため。
生存を優先するため。
少年が気づく。
二結びを探す。
見つからない。
東の一結びを握らされる。
少年は首を横へ振る。
泡。
濁水。
誰も見ない。
七瀬は潜水員の腕をつかむ。
潜水員は時計を見せる。
酸素。
残り。
少年は西の屋根札を破ろうとする。
変更ではない。
抗議。
札が破れない。
七瀬は潜水員の手から一結びを外す。
西へ戻す。
急流が来る。
三人の身体が壁へ押される。
迅が七瀬の腰帯をつかむ。
少年をもう片腕で抱える。
潜水員は東索を離さない。
三人の行先が、水の力で一つになる。
分けるには、誰かが何かを手放す必要がある。
迅が壁の手すりを蹴る。
右手で七瀬。
左肘で少年。
足で潜水員の東索を押し返す。
拳は使わない。
水中で殴った相手が呼吸器を外せば終わる。
七瀬は西索の二結びを、少年の手首へ巻く。
潜水員へ、東を指す。
自分たちは西。
潜水員は拒否する。
七瀬の黒いカメラを指す。
記録が必要だという意味か。
機材が重いから東へ戻れという意味か。
撮影者を守れという意味か。
分からない。
七瀬はカメラの腰帯を外した。
水中へ手放す。
迅が目を見開く。
カメラは沈む。
黒布をまとったまま、音楽室の床へ落ちる。
七瀬は両手を空ける。
少年と西索を取る。
潜水員は東へ戻る。
選択が分かれた。
カメラは、救助より高価だった。
高価だから、手放したことを正しい話へしない。
誰が修理費を負うか。
中の未記録素材はどうなるか。
腰帯を外したことで七瀬自身が浮力を崩した責任。
全部、後で残る。
今は少年を西へ運ぶ。
西口の圧力筒へ到着。
少年が屋根札を先に窓へ押しつける。
受入側が二結びを返す。
受領。
七瀬は水面へ上がる。
左肩が熱い。
腰帯を外した時、無理に腕を伸ばした。
「札」
西口の受入者。
「W-04。撮影拒否C-02。家族面会拒否。医療受入。呼称未定」
少年が首を横へ振る。
七瀬は止まる。
「どれ」
少年は屋根札を持ち上げる。
次に、二本指で歩く動作。
右。
左。
右。
西へ来たことではない。
その後の行先。
受入者が地図を出す。
少年は共同宿舎の印を指す。
家族受入所から、別の生活先へ行きたい。
「追加」
七瀬。
「西口到着後、共同宿舎を希望。家族面会拒否は継続」
少年が頷く。
今度は、屋根札の範囲について。
七瀬はそう記録する。
午前十一時四十二分。
地上指揮所へ戻る。
カメラは、轟が別の索で引き上げていた。
「壊れた?」
「防水殻、左角。巻取軸、曲がり。中身はまだ開けるな」
「撮っていません」
「なら中身は空」
「空でも、開封記録が要ります」
「面倒」
「修理する人が言いますか」
「面倒だから、順番が要る」
七瀬は左肩を冷却布で固定する。
ミソラが触れる。
「痛み」
「七」
「予測どおり」
「喜ばないでください」
「症状に勝っても嬉しくない」
潜水員が東口から戻る。
その後ろに、先ほど中央を視線で選んだ人がいた。
東医療口の毛布。
十字札。
七瀬の胸が冷える。
「中央では」
「分岐で反応が低下。東へ変更」
潜水員。
「誰が」
「救助判断」
「本人は」
「意識混濁」
「中央札は」
「外しました」
「記録」
「東搬送」
「中央を選んだ可能性は」
「医学的確度がない」
七瀬はミソラを見る。
ミソラが患者の眼を確認する。
「眼振あり。視線選択の確度は低い」
百舌の判断は、医学的には正しかった可能性がある。
それでも。
「中央を代行した七瀬の判断も、東へ変更した潜水員の判断も残す」
ミソラ。
「どちらかを消さない」
患者の右手が毛布から出る。
弱く動く。
円を作る。
親指と人差し指。
中央。
今度は、明瞭だった。
七瀬は息を止めた。
「移せる?」
「今は酸素飽和が低い。東で処置を始める。安定後、中央へ変更できる」
「本人へ」
ミソラは円を見せる。
次に東の十字。
治療。
時計。
中央。
《今、東で治療》
《あとで中央》
《変えられる》
患者は円をもう一度作る。
同意か。
中央の希望か。
両方か。
ミソラは一つへまとめない。
「中央希望、継続。現時点は医療代行で東。安定後に本人へ再確認」
患者を東口へ戻す。
七瀬は、その一部始終を撮らない。
撮影機は壊れている。
代わりに、四人が別々に書く。
七瀬。
ミソラ。
潜水員。
東口受入者。
同じ出来事が、四つの文になる。
どれも完全ではない。
完全な一つへ編集しないことが、今できる記録だった。
百舌が透明室から表示する。
《変更が多い》
《救助者の負担》
《一本にすれば起きない》
七瀬は紙へ書き、窓へ見せる。
《一本にすれば、間違いが見えない》
百舌。
《生存が先》
《生きた本人が、間違いを訂正する》
《訂正までに死ねば》
七瀬は返せない。
ミソラが書く。
《だから医療推奨を消さない》
《だから強制を同意と書かない》
百舌の両手が背中へ戻る。
午前十一時五十八分。
最初の搬送集計。
東、七。
西、四。
中央、二。
十三人。
予定より一人少ない。
変更確認に時間を使った。
図書室の空気残量、推定九分。
七瀬は壊れたカメラを机へ置く。
黒布は外さない。
記録できなかった時間が、機材の中へ入っているわけではない。
記録できなかったものは、人の記憶と別記と、間違えた結果の中に残る。
水没学校の窓へ、新しい札が出た。
《さっき東》
《今は中央》
同じ人かどうか、顔は映らない。
七瀬は時刻を書く。
十一時五十九分四秒。
選択は、一度の署名で終わらない。
水は、その事実を待ってくれなかった。
正午二分。
七瀬は、壊れた撮影機の外殻へ触れなかった。
触れれば修理を始める。
修理を始めれば、撮れなかった時間より機材の損傷を先に考える。
それは悪いことではない。
機材を直すのも仕事だ。
ただ、今は順番が違う。
「七瀬」
迅が濡れた髪から水を落としている。
「何を見た」
「質問が広い」
「水中で」
「さらに広い」
「少年」
「西へ到着。家族面会は拒否。共同宿舎へ移動希望」
「名前」
「本人が選んでいない」
「呼び方」
「まだ」
「覚えられる?」
「左手首に三本線。札W-04。撮影拒否C-02」
「人を番号で覚えてる」
「名前の代わりではありません。本人が選ぶまでの照合」
「顔は」
「覚えています」
「撮らなかった」
「見なかったとは言っていません」
迅はタオルを頭へ置く。
「俺も見た」
「どこを」
「靴」
「水中で?」
「片方、底が剥がれてた」
「なぜ先に言わない」
「今訊かれた」
「あなたの観察は、質問待ちの荷物ですか」
「受取人がいないと届かない」
「不達にしてください」
「返送先」
「ここ」
七瀬は潜水表へ追加する。
《W-04》
《右靴底剥離》
《受入後の歩行補助》
「役に立った」
迅。
「威張らないで」
「料金」
「タマキの悪影響です」
机の向こうで、タマキが顔を上げる。
「呼びました?」
「呼んでいません」
「名前を言った」
「記録上」
「呼んだのと同じ」
「違います」
「何が」
「目的」
「誰から、誰へ、何のため」
「今は議論しません」
「保留」
タマキは潜水札を拭く。
彼の手元には、新しい拒否札が増えていた。
掌を見せられない人のための、手首へ巻く帯。
握れない人のための、指先で押す爪。
視線が安定しない人のための、頭を左右へ傾ける二択板。
「選び方を増やすと、間違いも増える」
七瀬。
「減らすと、選べない人が増える」
「どこで止める」
「本人が使えるところ」
「四十三人、全部違ったら」
「四十三通り」
「時間」
「水が決める?」
「決めさせないため、他で稼ぐ」
タマキは轟の作業表を指す。
保守回廊の格子。
西口の手動巻上げ。
中央圧力室の送気。
東口の受入交代。
選ぶ時間は、会話だけでは作れない。
誰かが錆を削り、索を張り、ボンベを満たし、受入側へ説明して作る。
自由は、考え方ではない。
設備費と人手を食べる。
百舌の東固定案は、その費用を削る。
削った分を、拒否する人間が払う。
七瀬はそこまで書き、線を引く。
意見。
事実ではない。
自分の考えを、観察の欄へ紛れ込ませない。
午後零時十一分。
水没学校から、第二便が出る。