第394話 第三章「潜水表」後編
タマキ。
七瀬は首を横へ振る。
「最初の円は、位置確認」
「選択じゃない」
「はい」
「どう区別」
「二回目に長く押す」
「長いって何秒」
「三秒」
「水中で数える人」
「本人以外が数えると、本人の動作へ意味を足します」
「じゃあ本人が三つ数える」
「数えられない人は」
「一回目は確認、二回目は選択?」
「震えで二度当たる人」
会話が一周する。
完璧な合図はできない。
最後に決めたのは、合図を一つへ固定することではなかった。
本人が使える動きを先に確認する。
その動きへ、その場だけの意味を付ける。
意味を別の潜水員が復唱する。
本人が訂正できる時間を一呼吸置く。
「一人ずつ違う」
施設職員が言う。
「だから一人ずつ書く」
巴。
「四十三人」
「四十三通り」
「遅い」
「遅さを減らすのが仕事です。違いを消すのではなく」
迅は、浅い訓練槽へもう一度入った。
深さ一・八メートル。
足は底へ届く。
それでも、水が耳まで来ると肩が上がる。
タマキが槽の外から低音器を鳴らす。
一回。
迅は進まない。
「進行」
「聞こえた」
「何で動かない」
「怖いから」
「合図は」
「聞こえた」
「じゃあ、怖いと停止は違う」
「違う」
「どうする」
「もう一回」
タマキは鳴らさない。
「復唱を求めた?」
「求めてない」
「じゃあ一回だけ」
「けち」
「信号は料金じゃない」
迅は自分で一歩進む。
水が鼻まで来る。
呼吸器。
泡。
底を蹴る。
壁まで三メートル。
七歩を作る距離ではない。
逃げる距離でもない。
ただ、水へ入って、水から出る。
壁へ触れる。
戻る。
耳が水面から出た時、迅はすぐ「平気」と言わなかった。
「怖かった」
タマキが先に訊く。
「途中」
「どこ」
「耳まで入った後、底が見えなくなった時」
「今、底見えてた」
「見えてても、見えなくなる」
「記憶で?」
「身体で」
「違い」
「分からない」
タマキは掌を下へ向けた。
不明。
「受領」
分からないことを、克服の途中という名前へ変えない。
迅は槽から上がる。
右手の小指と薬指を二度握る。
痺れはある。
握力は戻る。
「次、潜る?」
タマキ。
「潜る」
「怖いまま?」
「怖くなくなるまで待ったら、下の空気が先に終わる」
「怖いから急ぐ?」
「怖い時ほど、急いだ理由を後で書く」
七瀬がその言葉を撮らず、紙へだけ残した。
選択を待つ時間は、誰かが別の場所で稼がなければならない。
轟の三人が、保守回廊の枠へ向かう。
凱が東口受入の交代表を作る。
巴が札を増やす。
イオが圧力扉の閉鎖時刻を測る。
七瀬が撮らない記録を書く。
タマキは索を握る。
二回。
一回長く。
三回。
届いたかどうかを、手の中の振動で確かめる。
自分に能力はない。
だからできない仕事と、能力がなくても残る仕事を、同じ欄へ書かない。
午前十時四十二分。
図書室の十四本の線へ、最初の行先が一つずつ入り始める。
東。
西。
中央。
未確認。
潜水表は、未来を当てる表ではない。
誰が、いつ、何を知らないまま決めたかを、あとで隠さないための表だった。