第393話 第三章「潜水表」前編

十月二十日 午前九時三十七分

 時雨ミソラは、人間を四十三人と書かなかった。

 紙の左端に、四十三の横線を引く。

 一人に一本。

 その横へ、分かっていることだけを書く。

《意識》

《呼吸》

《体温》

《負傷》

《水深》

《空気溜まり》

《本人が選べる時間》

《医療上の推奨》

《本人の行先》

《変更》

 同じ人間を、同じ数字へまとめない。

 それでも、潜水表には合計が要る。

 酸素ボンベ九本。

 実働調整器七。

 予備調整器二。

 最大水深十八メートル。

 最長潜水時間は、訓練済みの者で二十四分。

 低体温者を抱える場合は十二分。

 意識のない者へ予備呼吸器を使えば、戻りは八分以内。

 空気溜まりは四か所。

 水没学校の図書室――十四人。

 旧寮の階段室――十二人。

 保守回廊――九人。

 圧力管理室――八人。

 合計四十三。

 最初に地上へ出た救助要請者は、地下の人数に含まれていなかった。

 彼は施設側の最新台帳から既に削除されていた。

 記録上の四十三と、現実の四十三は、同じ四十三ではない。

「数字、嫌いですか」

 七瀬が訊いた。

 腰高の固定台へ撮影機を置いている。

 左肩は雨合羽の内側へ収め、右手だけでクランクを回す。

「好き」

 ミソラ。

「好き?」

「嘘をついた時、どこが違うか分かる」

「人も嘘をつきます」

「人は理由を話せる。数字は理由を隠した人を指す」

 七瀬は潜水表を撮らない。

「公開範囲」

「基準は公開。個人の症状と行先は本人ごと」

「死亡時は」

「今は書かない」

「起きたら」

「起きた時に決める。先に撮影条件へ入れると、死ぬ人を待っているみたいになる」

「待っていなくても、記録は必要です」

「必要。今、私は嫌だと言った」

「受領」

 七瀬は時刻だけを記録する。

 午前九時三十九分。

 死亡時の公開条件、未決定。

 未決定は欠落ではない。

 決めなかった時刻が残る。

 潜水表には、被救助者だけでなく、救助する側の線も必要だった。

 ミソラは四十三本の下へ、別の色で十二本を引く。

 迅。

 百舌。

 施設潜水員四人。

 帰路班潜水員二人。

 七瀬。

 轟の水中作業員二人。

 医療潜水員一人。

「私は地上」

 轟。

「あなたの水中作業員」

「俺のじゃない」

「担当下」

「それなら」

 肩書き一つで、所有関係に見える。

 ミソラは欄を直す。

《伏見轟が手順責任を負う水中作業員》

「長い」

「誤読されにくい」

「落ちる前に読み終わらん」

「現場札は短く、原本は長く」

 救助側十二人にも、次の欄を付ける。

《潜水開始》

《最大時間》

《残圧》

《交代》

《負傷》

《中止権》

《中止代行者》

「中止権は本人だけでいい」

 施設職員。

「症状で判断できなくなる」

 ミソラ。

「その時は指揮官」

「医療症状なら私。設備危険なら轟。経路危険なら地上指揮。誰が止めたか分ける」

「止める人が多い」

「続けろと言う人は、もっと多い」

 タマキが迅の線を見る。

《中止権 本人》

《医療代行 時雨ミソラ》

《経路代行 地上指揮》

「僕が索を三回引いたら」

「帰還信号」

「止める権限?」

 凱が答える。

「信号担当として、復唱を求められる。単独で潜水中止を命令はしない」

「危ないのが見えたら」

「三回引く。理由を送る。緊急なら、現場は先に戻る」

「命令じゃない」

「帰還を求める信号」

「戻らなかったら」

「記録して、別の手段を取る」

「怒鳴る?」

「水中へは届かない」

「地上で」

「怒鳴らない」

「表に書く?」

 凱は自分の欄へ書いた。

《復唱されない時、音量を上げる前に経路を確認》

「前より細かい」

「王をやめてから、言葉で押し切る代わりに欄を増やしている」

「紙が王?」

「紙は命令しない。読む人がする」

「じゃあ読む人を決める」

「そうだ」

 潜水員四人のうち、一人は自分の氏名を公開名簿へ載せなかった。

 呼称《ヨツメ》

 面体の予備窓を四枚持つから。

 施設職員が言う。

「救助側は実名が必要です」

「なぜ」

 七瀬。

「責任」

「非公開と無記録は違います」

「被救助者へ、誰が触れたか説明できない」

 《ヨツメ》が自分の潜水登録証を見せる。

 本名は封筒内。

 地上責任者二人だけが照合。

 水中では呼称。

「これで責任は追える」

 七瀬。

「本人が逃げたら」

「封筒の管理者にも責任がある」

「複雑」

「公開された名前だけが責任を負うわけではありません」

 《ヨツメ》は、四枚の予備窓を順番に机へ置く。

 透明。

 曇り止め。

 遮光。

 ひび割れ代替。

 自分の顔を公開しない人が、他人の視界を守る道具を持っている。

 七瀬はその手だけを撮影してよいか訊く。

 《ヨツメ》は遮光窓を一枚、撮影機の前へ置いた。

 黒くなる。

 拒否。

「受領」

 七瀬は撮らない。

 救助側の顔も、公共財ではない。

 九本の酸素を十二人で使うと、足りない。

 全員が一本ずつ持つ計画は最初からない。

 潜水班は二人一組。

 一人が主呼吸器。

 一人が予備小筒。

 被救助者用を別に一本。

 一本の残圧を、三人が共有する場面がある。

「共有って、同時?」

 タマキ。

「交代」

 ミソラ。

「一人が吸ってる間、二人は」

「自分の主呼吸器」

「じゃあ共有じゃない」

「予備機能の共有」

「言葉が大きい」

「訂正する」

《一組につき被救助者用予備一本》

 タマキは頷く。

 言葉が大きいと、物が増えたように見える。

 共有酸素。

 共同救助。

 全員同意。

 大きな言葉は、誰の残量かを隠す。

 イオは各ボンベの残圧計を、同じゼロへ合わせなかった。

 七割。

 五割。

 三割。

 違うまま並べる。

「見栄えが悪い」

 施設職員。

「残量が違う」

「高い順に使えば」

「低い一本を忘れる」

「低い順」

「緊急時に足りない」

「じゃあ」

「用途ごと」

 イオは、数字と目的を隣へ書く。

 七割――意識不明者。

 五割――長距離。

 三割――短距離交換。

 弁不良――見張り付き。

「能力みたい」

 タマキ。

「何が」

「強い順に使えばいいわけじゃない」

「能力は残圧が見えない」

「反証」

「出てから分かることが多い」

「怖い」

「だから、出る前に条件を決める人もいる」

「僕はまだない」

「今は、酸素を運べ」

 イオは三割の短距離筒を渡す。

 タマキは受取人を訊く。

「誰へ」

「第二潜水班の交換係」

「目的」

「被救助者用予備」

「終了」

「潜水終了後、残圧記録」

「受領」

 能力がなくても、条件は作れる。

 条件があるから、能力が出るわけでもない。

 ただ、誰かの呼吸を「一本」とだけ呼ばずに済む。

 巴とタマキは、防水選択札を作っていた。

 三種類。

 東医療口。

 表面に深い十字溝。

 裏に、救命に必要な範囲だけ照会するという平文。

 西家族口。

 屋根形の二本溝。

 家族へ会う、会わない、医療だけ受けるの三つを裏面へ浮き文字で入れる。

 中央保留室。

 円形の溝。

 二十四時間、呼称だけで滞在し、行先を選び直せる。

 札の端には、細い破封帯を付ける。

「破ったら?」

 タマキ。

「変更」

 巴が手話で答える。

「破れない人」

 巴は札の中央に、押すと浮く小さな爪を付けた。

「押せない人」

 視線板。

 三つの札を横に並べ、目の動きで選ぶ。

「目を開けられない人」

 事前記録。

 家族代理。

 医療代行。

「家族が本人と違うこと言ったら」

 本人が優先。

「本人が混乱してたら」

 説明を短くし、時間を置いて再確認。

「時間がなかったら」

 ミソラが答える。

「私が選ぶ」

「どうしてミソラ」

「症状を見て、残り時間を計算する役だから」

「責任者だから?」

「責任者でなくても、選んだ人の名は要る」

「間違えたら」

「間違えたと書く」

「謝る?」

「生きていたら、本人へ。死んだら、謝れば届くとは言わない」

 タマキは中央札の円を指でなぞる。

「何も握らない人は」

「保留にしない」

 巴が黒板へ大きく書いた。

《握らない=選んでいない》

《沈黙=保留ではない》

《動けない=同意ではない》

「中央が保留なのに」

 タマキ。

「中央を選ぶ動作が要る」

「何もできない人を中央へ入れたら」

「医療代行。『本人が中央を選んだ』とは書かない」

「言い方、多い」

「意味が違う」

「水中で全部言える?」

 巴は答えない。

 右人差し指が硬くなり、手話の途中で一度止まる。

 左手で右指を伸ばす。

 痛みを隠さない。

「全部は無理」

 音声で言った。

 音量が少し大きすぎた。

 本人が眉を寄せる。

「三つだけ」

 巴は札の表へ書く。

《ここへ行く》

《危険を知る》

《あとで変えられる》

「危険、何」

 タマキ。

「行先ごと」

「多い」

「絵にする」

 ミソラは、東札へ三つ描く。

 白い寝台。

 注射器。

 開いた帳簿。

 西札。

 家の屋根。

 小さな診療箱。

 二つに離れた椅子――家族へ会わない選択。

 中央札。

 時計。

 小さな酸素瓶。

 閉じた名札。

「絵が怖い」

 タマキが言う。

「注射が?」

「帳簿。東へ行く人が、注射より帳簿を怖がる」

「正しい」

「正しく描いた?」

「隠してない」

「怖がらせるためじゃなく?」

「怖くない絵にしたら、選んだことにならない」

 タマキは三枚を鉄箱へ入れた。

 鉄箱は潜水へ使わない。

 地上で、札を順番に渡す。

 彼は箱の底へ布を敷く。

 札の角が折れないように。

「環玉樹」

 凱が呼ぶ。

「潜水参加について」

「前半は地上」

「後半」

「未定」

「技能訓練を始める。参加を約束する訓練ではない」

「誰が教える」

「迅」

「教えられる?」

 迅は圧力筒から戻ったところだった。

 濡れた学ランを脱ぎ、胸へ毛布を掛けている。

 灰色の前髪が額へ貼りついている。

 右手の赤い紐だけ、外して乾かしていた。

「泳げる」

「教えられるか訊いた」

「人に教えるほど上手くない」

「じゃあ、百舌忍」

「拒否されてる」

「施設の潜水員」

「百舌の指揮下」

「ミソラ」

「医療が先」

「轟」

「沈む」

 轟が壁の向こうから言った。

「俺は潜水具より重い」

「凱」

「左膝で蹴り足を作れない」

「七瀬」

「カメラを持つと一人分増えます」

「イオ」

「水中訓練はした。教える資格はない。教官を殴った記録はある」

「全員、役に立たない」

「迅が一番まし」

 凱。

「褒め方」

 迅。

「事実だ」

 タマキは迅を見る。

「耳まで水に入れる?」

 迅の目が動く。

 床。

 圧力筒。

 開いた出口。

「入れる」

「平気?」

「平気じゃない」

「じゃあ、どうして」

「平気な奴だけで人数が足りるなら、俺は地上にいる」

「怖い時、何する」

「息を止める」

「駄目でしょう」

「一秒」

「水中で一秒は」

「長い」

「分かってる」

 迅は毛布を外した。

 潜水用の浅い訓練槽へ、片足を入れる。

 タマキも靴を脱ぎ、縁へ座る。

 水は腰まで。

 濁っていない。

 底が見える。

「面体を付ける」

 迅。

「鼻で息できない」

「口で」

「知ってる」

「知ってるならやれ」

「教え方が下手」

「資格がない」

「言い訳だけ上手い」

 タマキは面体を下ろす。

 息を吸う。

 水へ顔をつける。

 すぐ上げる。

「何秒」

 イオが振動で測る。

「二・八」

「三秒じゃない」

 タマキ。

「言い張るなら料金を取る」

「もう一回」

 迅が水へ入る。

 耳まで沈む。

 肩が固まる。

 一秒。

 迅は呼吸器をくわえているのに、吸わない。

 右手が赤い紐のない手首を押さえる。

 タマキは水中で迅の目を見る。

 怖い顔ではない。

 顔を作る余裕がない顔。

 迅が息を吸う。

 泡が上がる。

 水面へ出る。

「十二歳になる」

 迅が言った。

「何が」

「耳が水へ入ると、一秒だけ」

 タマキは黙る。

「第七水門?」

「うん」

「克服したんじゃないの」

「してない」

「泳げる」

「泳げることと、怖くないことは別」

「何で今まで言わなかった」

「訊かれなかった」

「訊いたら言う?」

「言った」

「ずるい」

「何が」

「大人みたい」

「十七」

「大人ぶる年」

「十四に言われたくない」

 タマキはもう一度面体を下ろす。

 水へ顔。

 迅は手を出さない。

 タマキが自分で水面へ戻るまで待つ。

「四・一秒」

 イオ。

「伸びた」

「溺れるまでの時間が?」

「息を選べた時間」

 迅。

「格好いい言い方」

「料金」

 タマキは水を吐き、笑う。

 すぐ真顔になる。

「能力、欲しいと思ったことある?」

 迅。

「ある」

「何で言わない」

「能力がない僕で、ここまで来たから」

「欲しいって言うと、それが消える?」

「みんなが『やっと』って言う」

「言わせなきゃいい」

「止められる?」

「殴る」

「だから水中で役に立たない」

「地上でも、それだけじゃない」

「知ってる」

「なら、欲しいは欲しいでいい」

「迅は、欲しいって選んだ?」

 迅は答えない。

 七退一還は、十二歳の水門事故から生まれた。

 本人が条件を選ぶ前に、身体へ刻まれた。

「選んでない」

「じゃあ、僕に言える?」

「言えない」

「聞く側?」

「それならできる」

 タマキは水から上がる。

 濡れた髪を拭く。

 緑のニット帽は被らない。

 左側頭部の火傷痕が見える。

 イオが止まった時計を一つ外し、訓練槽の縁へ置く。

「能力は、欲しい時に出るとは限らない」

「知ってる」

「欲しくない時にも出る」

「知ってる」

「条件を施設に選ばせると、あとで自分の言葉に戻すのに時間がかかる」

「何年」

「六年。進行中」

「長い」

「一生より短い」

 タマキは三枚の選択札を見た。

「僕が決める」

「何を」

「出るなら、条件」

「出なかったら」

「配達する」

「出たら」

「配達する」

 イオは返事をしない。

 同じ人間だと言うのは簡単だ。

 周囲の仕事の渡し方が変われば、本人の自分への見方も変わる。

 能力は、身体に起こることだ。

 社会は、それを役職へ変える。

 午前十時十一分。

 第二潜水班から、最初の潜水表が戻る。

 図書室十四人。

 意識清明八。

 混乱四。

 意識低下二。

 東を明示した者、五。

 西、三。

 中央、二。

 未確認、四。

 旧寮十二人。

 東三。

 西四。

 中央二。

 未確認三。

 保守回廊九人。

 東二。

 西二。

 中央一。

 未確認四。

 圧力管理室八人。

 百舌を含む。

 行先確認、拒否。

「百舌忍も搬送対象」

 タマキ。

「監督生です」

 施設職員。

「水の中にいる」

「指揮者です」

「肺は役職を読む?」

 職員は答えない。

 ミソラが百舌の欄へ書く。

《対象》

《本人選択 未確認》

《医療推奨 東》

《監督責任 別記》

「救助されたら、責任が消える?」

 タマキ。

「消えない」

「責任があるから、救助されない?」

「それも違う」

「同じ紙に書く?」

「紙は分ける」

「人は」

「分けない」

 潜水表の百舌の横線は、他の四十二人と同じ長さだった。

 午前十時二十分。

 空気溜まりの再測定が届く。

 図面の四十七分ではない。

 最も短い場所は、二十一分。

 水没学校の図書室。

 住民が天井へ寝棚を増設したため、空気量が半分以下になっている。

 ミソラは十四本の線へ、同じ印を付けた。

《先行》

 百舌が表示する。

《全員、東へ》

 ミソラは、東五、西三、中央二、未確認四を指す。

「先行する。行先は分ける」

《間に合わない》

「間に合わせる」

《根拠》

 ミソラは九本の酸素ボンベを見る。

 足りない。

 潜水員。

 住民。

 距離。

 減圧。

 低体温。

「今から作る」

 希望ではない。

 責任を引き受けた人間が、足りない根拠を足す宣言だった。

 七瀬が潜水表の全体だけを撮る。

 名前も呼称も入れない。

 四十三本の横線。

 三つの行先。

 九本の酸素。

 最後に、《選べる時間》の欄。

 十四本へ、残り二十一分。

 紙の上で、時間だけが全員より先に減っていた。

 午前十時二十三分。

 ミソラは九本のボンベへ名前を付けなかった。

 患者の名を付ければ、その人だけの物に見える。

 出口の名を付ければ、途中で行先を変えにくくなる。

 番号だけを付ける。

 一番。

 二番。

 三番。

 使用圧。

 開始時刻。

 潜水者。

 予備呼吸器の有無。

「無機質」

 七瀬が言う。

「人に番号を付けてない」

「道具へはいい?」

「道具が拒否したら考える」

「一番が嫌だと言っています」

 タマキが一番ボンベの弁を指す。

 古い弁が、開けるたび甲高く鳴る。

「声帯障害」

 ミソラ。

「治療」

 轟が工具を持ってくる。

「交換部品なし。磨く。二分」

「酸素を使わないで」

「工具へ酸素は使わん」

 施設職員が言う。

「水中切断器へ一本回せば、保守回廊の格子を早く開けられます」

「何人分減る」

 ミソラ。

「一回の使用で、ボンベ残量の三分の一」

「人換算」

「二人。重症なら一人」

「使わない」

「格子を開けなければ九人が」

 轟が図面へ指を置く。

「切らずに外す」

「水圧でボルトが抜けません」

「抜かない。枠を戻す」

「錆びています」

「錆は、壊れたって意味じゃない。動き方を忘れた鉄だ」

「比喩では開きません」

「寸法」

 轟が聞く。

 職員は答える。

 枠幅。

 蝶番。

 増設材。

 水位差。

 轟は三十秒、図を見た。

「住民が足した棚板、二枚。梃子にする。配管吊り金具を逆へ掛ける。地上側から引けば、枠が三ミリ戻る」

「三ミリで」

「パッキンが離れる。水が抜ける。圧差が落ちる。人が開ける」

「何分」

「七分」

「切断器なら二分」

「酸素二人分」

 ミソラが潜水表へ書く。

《保守回廊 七分待機》

《酸素二人分を温存》

 待つことも、救助の一部になる。

 待たされた人間へ、その理由を伝えなければ罰になる。

 巴が防水札へ絵を足す。

 時計。

 二本の酸素瓶。

 開く格子。

「水中で七分をどう伝える」

 タマキ。

 イオが止時計を一つ取り、文字盤の針を七へ合わせる。

「これを窓へ貼る」

「動かない時計」

「残りじゃない。約束した時刻」

「七分後に開かなかったら」

「責任者が行く」

「誰」

 轟。

「俺」

「一人で?」

「三人」

「三人の名前」

 轟は施設職員二人を見る。

 一人は目を逸らす。

 もう一人が手を挙げる。

 タマキはそれを数えない。

「一人だけ」

「もう一人は俺が選ぶ」

「本人が」

 タマキ。

 轟は黙る。

 保守班の若い女性が、工具台から手を上げた。

「私が行きます」

「潜水資格」

「浅所。圧力筒内だけ」

「水中枠は」

「訓練あり」

「名前」

 女性は答えかけ、止めた。

「作業記録には書く。公開映像には出さない」

「受領」

 七瀬。

 轟は三人の担当欄へ、本人たちが自分で印を付けるまで待った。

 午前十時三十一分。

 最初の選択札が地下へ運ばれる。

 十四人分ではない。

 三種類を一枚ずつ。

 見本。

 施設潜水員は、東札だけでいいと主張した。

 ミソラは三枚すべてを自分の手首へ結ぶ。

「重い」

 迅が言う。

「札三枚」

「判断の話」

「重くていい。軽い選択は流される」

「名言みたいに言うな」

「症状の説明」

「何の」

「あなたの」

 迅は面体を被る。

 タマキが索を持つ。

「竜胆迅」

「何」

「誰から」

「地上班」

「誰へ」

「図書室十四人」

「目的」

「選択札を渡す。状態確認。搬送準備」

「殴る」

「必要なら」

「目的に入ってない」

「入れたら怒るだろ」

「入れなくても怒る」

「どうしろ」

「殴らない」

「約束はしない」

「水中で気絶させたら、死ぬ」

「知ってる」

「知ってる人が一番危ない」

 迅は返事をせず圧力筒へ入る。

 内扉が閉じる。

 水が上がる。

 耳まで来る直前、迅は一度目を閉じた。

 タマキは索を二回引く。

 進行。

 迅が返す。

 二回。

 水が頭を越えた。

 今度は、呼吸が止まった時間が一秒より短い。

 克服ではない。

 予測できた恐怖へ、先に息を入れた。

 濁水の中へ三つの札が沈む。

 東の十字。

 西の屋根。

 中央の円。

 水没学校の窓に、十四人の手が現れた。

 同じ形ではない。

 指が二本しか曲がらない手。

 掌を見せたまま動かない手。

 札へ触れず、顔を背ける人。

 東の十字を握る人。

 西の屋根を胸へ当てる人。

 中央の円を、隣の人へ渡す人。

 地上の映像板では、何が同意で何が助けか分からない。

 七瀬は録画灯を消した。

「なぜ」

 施設職員。

「撮影光で、窓の内側が見えなくなる」

「記録が」

「索の復唱、札の番号、潜水表、地上側の時刻で代替します」

「顔がなければ本人確認が」

「本人確認と顔の撮影は同じではありません」

 七瀬は撮影停止の時刻を書く。

 十時三十七分十四秒。

 理由、水中視界と住民の恐怖。

 代替、触覚札番号、索信号、潜水員二名の別記。

 再開条件、住民の許可と光量低下。

 カメラを下ろしても、記録の仕事は終わらない。

 むしろ、目で見えないものをどう残すかが始まる。

 窓の内側で、一人が東札を握った。

 別の一人が、その手をほどく。

 本人が変えたのか。

 隣が奪ったのか。

 迅が二人の間へ手を入れる。

 拳ではない。

 掌を上へ向ける。

 札を置く場所を作る。

 二人の手が離れる。

 一人は東。

 一人は西。

 最初から違っていた。

 同じ窓にいたから、同じ行先に見えただけだ。

 地上の潜水表へ、二本の線が増える。

《東 一》

《西 一》

 四十三人のうち、まだ二人。

 水位は増える。

 酸素は減る。

 午前十時四十一分。

 九本の酸素ボンベへ、名前の代わりに役割札が付いた。

 一号。

《東口・担架用》

 二号。

《旧寮・空気溜まり補助》

 三号。

《意識不明者用》

 四号。

《潜水班交換》

 五号。

《潜水班交換》

 六号。

《保守作業予備》

 七号。

《医療代行予備》

 八号。

《弁不良・要監視》

 九号。

《空・構造材以外の使用不可》

「酸素に名前を付けるんですか」

 施設職員が言った。

「名前ではない」

 ミソラ。

「用途を先に決めると、状況が変わった時に使えません」

「変更欄がある」

「変更する時間が」

「黙って持っていけば、変更した人が消える」

 イオが八号の弁へ石鹸水を塗った。

 小さな泡。

「漏れ、毎分〇・六」

「使用不能?」

「十六分以内なら、見張り付きで使える。放置すれば不能」

「見張りに人を使う」

「使わないなら一本減る」

「どちらが正しい」

 凱。

「正しさではなく、誰を見張りへ置くか」

 イオは八号へ黄色い紐を二本結ぶ。

「この二本は、注意ではない。二人確認。弁を開ける人と、残圧を見る人を分ける」

「一人でできる」

「できる人が倒れた時、誰も分からない」

 七瀬は札だけを撮る。

 ボンベを運ぶ人の顔は、本人が選ばない限り入れない。

「道具の記録が増えて、人の記録が減る」

 タマキ。

「人を道具へ近づけないためです」

 七瀬。

「でも、道具を持った人が責任者になる」

「だから氏名は非公開でも、記録庫には役割と交代時刻を残す」

「見られている街みたい」

「違いを一つずつ作るしかありません」

 監視と記録は、カメラの有無だけで分かれない。

 見られる側が範囲を選べるか。

 見る理由が残るか。

 終了時刻があるか。

 酸素一本にも、終了時刻がある。

 タマキは九号の空ボンベを持ち上げた。

「軽い」

「中身がない」

 轟。

「役に立たない?」

「呼吸には」

「呼吸以外なら」

「後で考える」

「後っていつ」

「必要になった時」

「必要になる前に考えるのが設計」

「使い道を先に決めると、使わないために取っておけなくなる」

 轟は空ボンベを床へ横にした。

 転がらないよう、木片を二つ当てる。

「空は空で残す」

 タマキはその木片へ札を付けた。

《今は使わない》

 何のために使わないかは、まだ書かない。

 触覚札の試験は、うまくいかなかった。

 最初の被験者は施設の潜水員。

 厚い手袋でも、十字、屋根、円を区別できた。

 二人目は、右手の感覚が鈍い整備員。

 十字と屋根を逆にした。

 三人目は、指が二本しか曲がらない帰路班員。

 どの札も握れなかった。

「握らないは、拒否?」

 施設職員。

「握れない」

 ミソラ。

「本人がそう言った?」

「症状が示している」

「症状の代行?」

「本人に訊く」

 帰路班員は左手で、右手の二本を指す。

「握れない」

 短く答えた。

 巴は札を握る方式から、押す方式へ変える。

 十字は中央を押すと縁が立つ。

 屋根は二点を押すと頂点が浮く。

 円は縁の一部を押すと、輪が少し回る。

「力が違う」

 轟。

「どれが一番軽い」

「円」

「保留が選ばれやすくなる」

 巴は三枚の内部ばねを交換する。

「同じ力へ」

「同じ力でも、指の向きが違う」

「では」

 札を縦にせず、水平の板へ置く。

 肘で押せる。

 額でも押せる。

 足でも触れられる。

「水中で板を持つ人がいる」

 タマキ。

「その人が傾けたら」

「選択を誘導します」

 巴。

「壁へ固定」

 轟。

「壁がない場所」

「索へ三点固定」

「索が揺れる」

「揺れても三枚が同じ角度になる枠」

「重い」

「軽くすると曲がる」

「人間って面倒」

 タマキが言う。

「道具の方が、人間を一種類だと思い込む」

 轟は木枠を削りながら返す。

「面倒なのは、思い込んだ道具を直す方だ」

 試験四人目。

 七瀬が目を閉じ、左肩を動かさず、右手も使わない条件にする。

 額で札を押す。

 最初に円。

 次に十字。

「変更?」