第392話 第二章「搬送先未定」後編
地上では分からない。
タマキが振動索へ手を置く。
二回。
進行。
返答なし。
一回長く。
停止。
返答なし。
「索が壁へ挟まってる」
轟が言う。
タマキは索を強く引こうとする。
轟が手首を押さえる。
「引くな。向こうの首になる」
「届いてない」
「届かない時に強くするのが一番危ない」
「じゃあ」
「別の線」
轟は圧力筒の外壁へ、振動槌を当てた。
低く一回。
間を置いて二回。
壁そのものを伝う。
映像板のミソラの灯が止まる。
左へ一度振れる。
受領。
タマキは息を吐いた。
「澪なら最初から壁を使った」
「澪はいない」
「知ってる」
「だから、今覚えた」
轟は同じ場所へ白墨で印を付けた。
失敗した線を消さない。
次の人間が、最初から別の線を選べるようにする。
十分後、ミソラが一人を連れて戻った。
細い身体。
年齢は分からない。
水中用の頭巾。
両腕を胸へ抱き、十字札を握っている。
東を選んだ人。
圧力筒の外扉が開く。
ミソラは患者を担架へ移しながら言う。
「意識清明。呼称は《ノギ》。本人が選択。東。目的、呼吸処置。能力履歴照会は救命範囲だけ。変更可能と説明済み」
タマキが復唱する。
「ノギ。東。呼吸処置。照会は救命範囲。変更できる」
担架の人が、首を横へ振った。
「違う?」
タマキ。
指が動く。
十字札を二回叩く。
次に自分の胸。
最後に、指を一本だけ立てる。
巴が手話を読む。
《呼称は一時》
《今日だけ》
「ノギは今日だけ」
タマキが名簿へ書く。
「明日以降、変更できる」
担架の人は頷く。
百舌が窓へ表示する。
《一人搬送に九分》
《四十三人では間に合わない》
ミソラは面体を外す。
「全員へ同じ九分は使わない。集団説明と個別確認を分ける」
《混乱する》
「もう混乱してる」
《統一が必要》
「統一するのは救助手順。行先じゃない」
ノギが担架から百舌を見る。
十字札を握ったまま、もう片方の手を開く。
施設の同意合図。
百舌も同じ掌を出しかける。
ノギはその前に、人差し指一本を曲げた。
《今日だけ》
同じ動きに、一つだけ違う動作を足す。
百舌は自分の手を背中へ戻した。
午前九時六分。
東医療口から、限定照会の暫定運用が承認された。
当直医の署名。
期限は十月三十日二十四時。
自動更新なし。
救命に不要な能力履歴、家族歴、過去所属は照会しない。
患者本人は処置後に公開範囲を変更できる。
巴が平文を黒板へ書く。
《東へ行っても、全部の過去を見せなくていい》
《命を助けるために必要なことだけ、今使う》
《あとで変えられる》
百舌が読む。
《施設内の薬剤履歴が欠ければ危険》
「薬剤名は必要」
ミソラ。
「実験番号は不要」
《番号と薬剤が結びついている》
イオが顔を上げた。
「結びつけたのは施設」
《切れば医療事故》
「切らずに、本人以外へ見せない」
《運用不能》
「運用したことがない、の間違い」
イオは真鍮装具の刻印を指で追う。
IO-04だった頃、薬の名前は教えられなかった。
番号だけで呼ばれ、番号だけで投与された。
退所後、身体に残った不整脈の原因を知ろうとしても、記録は番号と施設権限に封じられていた。
本人の身体なのに、本人が閲覧者ではなかった。
「百舌忍」
イオが透明室へ向く。
「あなたの薬剤履歴。自分で見られる?」
百舌の指が打鍵器の上で止まる。
《救助と無関係》
「答えないと書く」
《閲覧申請中》
「いつから」
《三年》
「三年は、申請中じゃない。拒否の長期保存」
百舌の瞳が揺れる。
それでも、《全員東》の表示を消さない。
自分が拒否されたから、他人の照会も止める。
そういう単純な反転を、彼女は選ばない。
施設の中で、生き残るために役立った手順を捨てる方が怖い。
正しい制度だけが人を傷つけるのではない。
間違った制度も、誰かを昨日まで生かしている。
だから壊す時には、昨日の分まで責任が要る。
午前九時十九分。
西口から受入確認が来る。
《十四人まで》
《家族名を地上で呼ばない》
《本人が会わない選択を含む》
《医療者二人》
《東への二次搬送は本人または緊急代行》
中央口。
《十二人》
《呼称のみ》
《二十四時間再判断》
《家族・施設・治安照会を保留》
《重症者は医療リスク説明》
三つの受取側が、受入れを示した。
タマキはそれぞれの紙を、三本の索の根元へ結ぶ。
「受取先が返事した」
イオ。
「うん」
「まだ送り主がいない」
「いる。下に四十三人」
「本人の返事がない」
「取りに行く」
「技能不足」
「練習する」
「九時二十分。残りは予測で三十分以下」
「何分で練習」
「一生」
「長い」
「だから今日は潜るな」
タマキは言い返そうとして、ノギの担架を見る。
一人を九分。
自分が潜れば、その一人へ余分な人間が増える。
行く勇気と、行かない技術は、同じ方向を向かない。
「前半は地上」
タマキは言う。
「後半は」
「その時に決める」
「決めた?」
「保留」
イオは、初めて少し笑った。
「保留欄、便利」
「空いてるから」
「空欄と保留は違う」
「知ってる」
「なら書く」
タマキは自分の潜水参加欄へ書いた。
《前半 地上》
《後半 未定》
《変更者 環玉樹本人》
名簿の搬送先欄ではない。
救助者にも、行くか残るかを選ぶ欄がある。
地下の水位が、さらに一目盛り上がった。
百舌はそれを見ている。
表示板へ一文。
《選択肢が多いほど、遅れる》
イオが返す。
「一つしかない選択肢は、選択肢じゃない」
《死者には選択できない》
ミソラが答える。
「生きているうちに選ばせるため、今から潜る」
午前九時二十三分。
三つの受入先は、紙の上では開いていた。
現物は、どこも同じ意味では開いていない。
東医療口。
再圧室二床。
加温寝台六床。
外科処置台一。
医療記録端末は、施設側の古い識別番号を要求する。
西家族口。
待合十二人。
共同宿舎の車二台。
家族名を公衆板へ出さないため、面会担当が一人ずつ別室で照合する。
中央保留室。
寝台十二。
医療者一人。
呼称だけで入れる。
ただし、重症処置はできない。
「入口を三つ作っても、受け取る中身が同じじゃない」
凱が受入表を読む。
「同じにする必要はありません」
巴。
「必要なのは、違いが本人へ伝わることです」
「水中で全部伝える時間はない」
凱。
「全部ではなく、選択を変える差です」
「何が差になるかを誰が決める」
「医療はミソラ。家族照合は西の担当。保留条件は中央。私は言葉を短くする。本人は、分からないと示せる」
イオが三枚の札を机へ並べた。
「試す」
「誰で」
タマキ。
「私」
イオは目を閉じる。
「私は水中。声は出せない。右手は動く。左腕の装具は外れている。呼吸は安定。名前を照会されたくない。心臓の再評価は受けたい」
タマキが十字札を差し出す。
イオは取らない。
円札を出す。
取らない。
「何で」
「心臓の再評価は東。名前の保留は中央。札が一枚しかない」
「東で照会を限定」
「それを水中で分かるようにして」
巴が十字札の端へ、小さな円形の切り欠きを加えた。
《東医療口》
《照会は呼吸・循環・薬剤だけ》
触れば十字の一角が丸い。
イオは取る。
「今のは私が条件を知っていた。知らない人には」
「分からない札を取らない、という選択が残ります」
「取らなければ後回し」
百舌が透明室から表示する。
《現実》
「だから後回しにした人を消さない」
イオ。
《時間は戻らない》
「順番を説明する。戻せる時は戻す。無理なら無理と書く」
《遅い》
「速い手順の被害も書く」
百舌は返さない。
次の試験。
伏見轟。
両手を握ったまま、目だけを動かす役。
三枚の札を視線板へ置く。
東。
西。
中央。
轟の目が中央へ二度動く。
タマキが円札を取る。
轟は眉を寄せる。
「違う?」
轟は一度瞬く。
確認の意味が決まっていない。
「瞬き一回が肯定って、誰が決めた」
迅。
「施設標準」
職員。
「目に水が入ったら」
「誤作動」
「人間を機械みたいに言うな」
轟が目を開けた。
「俺は西を見た」
「二度目は中央」
「右目の視野に照明が入った」
七瀬が照明を一段落とす。
視線板を近づける。
轟は西を見る。
次に、面会拒否の小札。
最後に医療受入。
三つ。
「西。家族には会わない。共同宿舎。必要な医療は受ける」
タマキが指で順に示す。
轟は視線を変えず、最後に掌を下へ向けた。
「何」
「まだ一個足りん」
「何が」
「受取側が本当にいるか」
西口へ低音信号を送る。
二回。
間。
一回。
受入側から同じ信号が返る。
轟は掌を上へ返した。
握れないことは、拒否ではない。
目が動いたことは、同意とは限らない。
受取人がいると書いてあることは、受け取るという返事ではない。
一つずつ、別だった。
午前九時二十九分。
東口へ先行搬送された《ノギ》から、新しい合図が来た。
医療処置は継続。
しかし、処置後の行先は中央。
東の登録担当が、施設識別番号の入力を求めている。
ノギは拒否。
「処置を止める?」
凱。
ミソラが即答する。
「止めない。救命に番号は要らない。投薬記録は一時呼称と札番号へ結ぶ」
「端末が受け付けない」
「紙で残す」
「後で転記不能」
「不能と書く。番号を作るよりまし」
東の医療者から、短い返答。
《紙運用 受領》
ノギは東口へ出た。
だから東を選び続けなければならないわけではない。
入口は、人生の所有権ではない。
凱は受入表の下へ一行を加えた。
《最初に通った口は、その後の所属を決めない》
「長い」
タマキ。
「短くするなら」
巴が考える。
「《入口は行先を奪わない》」
「少し格好いい」
「規則は格好よさより誤読防止です」
「じゃあ最初ので」
凱は長い一文を残した。
短い言葉は覚えやすい。
覚えやすい言葉ほど、別の場面で勝手に使われる。
救助中の規則は、標語より重い方がよかった。
第二潜水班が圧力筒へ入る。
今度は迅もいる。
外扉が閉じる直前、タマキが索を二回引いた。
進行。
迅は二回返す。
水が胸まで上がる。
迅の肩が、一瞬だけ固まった。
耳が水へ入る直前。
タマキは見た。
迅は、怖くない顔を作らなかった。
怖いまま、面体を下ろした。
内扉が開く。
四十二の空欄へ、濁水が流れ込んだ。