第391話 第二章「搬送先未定」前編
十月二十日 午前八時十二分
水科イオは、救助者名簿の二行目で鉛筆を止めた。
一行目。
《氏名または本人が選ぶ呼称》
二行目。
《搬送先 東医療口》
三行目。
《本人確認》
「順番が逆」
紙を机へ置く。
仮設指揮所は、旧水道局の資材庫を使っている。
長机。
潜水装備。
九本の実働酸素ボンベ。
白い照明。
濡れた作業員。
床には三つの出口へ向かう索が色ではなく結び方で分けられていた。
東は一結び。
西は二結び。
中央は輪。
濁水の中で色が消えても、手で区別できる。
名簿だけが、全員を東へ運び終えている。
「搬送先を先に印刷した理由」
イオは用紙を作った職員へ訊いた。
若い職員は、眼鏡へ水滴を付けたまま答える。
「緊急時の標準です。判断不能者は指定医療機関へ」
「全員、判断不能?」
「水中です」
「水中だと人間の判断が溶ける規則?」
「声が届きません」
「声以外は」
「誤解が」
「だから専門家が決める」
「はい」
「今、私があなたの昼食を決めていい?」
職員は黙る。
「声が届いてるから駄目?」
「食事と救命は違います」
「違う。だから、どこが違うか書く。『緊急時だから』で一つにしない」
イオは二行目を切った。
切り取った紙片へ《東医療口》だけが残る。
それを九本の酸素ボンベの前へ置く。
「東へ行く人の札。全員の名簿じゃない」
百舌忍は、机の反対側に立っていた。
透明防水服から水が落ちる。
黒い喉帯。
腰の無音鈴。
右手と左手を、背中で組んでいる。
地下から地上へ出たわけではない。
北側点検口の圧力筒を使い、指揮区画だけへ移動した。居住区と同じ圧力を保つ透明室の中にいる。厚い窓越しに、携帯打鍵器を操作する。
《名簿は搬送効率のため》
《本人確認は浮上後に可能》
巴が読んだ。
声ではなく、窓の横へ置いた黒板へ平文に直す。
《先に行き先を決める》
《名前や本人の希望は、あとで確かめる》
百舌が眉を上げる。
打鍵。
《簡略化しすぎ》
《医療上の救命可能性を含む》
巴は右人差し指を伸ばそうとして、途中で止めた。
南環市場で契約文を止めた反証の硬直。
左手で書く。
《救命可能性を誰が判断する?》
《本人が拒否した時は?》
百舌。
《監督生》
《施設医療規定》
《拒否は救助拒否として記録》
「拒否したら、後回し」
イオが言う。
《危険へ自ら残る者を、同意者より先に運べない》
「選んだ罰を、順番で渡す」
《罰ではない》
《結果》
「研究所は、その言葉が好き」
百舌の手が背中から離れた。
右掌が一瞬だけ開く。
施設の同意合図。
すぐ閉じる。
イオは自分の左前腕へ触れた。
真鍮装具には、終了時刻が何十も刻まれている。
七局で、結果はいつも先に印刷されていた。
《能力出力が基準未満》
《訓練不適合》
《退所》
《再利用》
本人確認は、最後だった。
「水科イオ」
タマキが隣から呼んだ。
「何」
「装具、痛い?」
「今は」
「触ってる」
「秒を測ってる」
「嘘」
「七秒の嘘」
「長い?」
「短い嘘ほど、訂正されにくい」
タマキは名簿を覗く。
「東へ行けば、全員助かる?」
ミソラが答えた。
「全員、とは言わない」
「四十三人」
「現在の情報では、東が最も医療資源が多い。加温、酸素、外科、感染管理。水深十八メートルからの搬送後に必要な処置を一か所でできる」
「西は」
「家族受入所。加温設備はある。医療者二人。重症は東へ二次搬送」
「中央」
「保留室。圧調整と最低限の診察。本人情報を二十四時間、外部照会へ出さない。重症者には勧めない」
「じゃあ東が正解」
「医療だけなら」
「医療以外」
ミソラは紙を三枚に分けた。
東。
《医療設備 多い》
《能力履歴・薬歴の照会がある》
《照会範囲の拒否欄あり。ただし救命処置に必要な最小情報は使用》
西。
《家族・生活先と接続》
《家族確認が必要》
《家族と会わず医療だけ受ける選択もある》
中央。
《呼称のみで入室可能》
《十二人まで》
《医療設備 少ない》
《二十四時間以内に再判断》
「正解は三つじゃない」
ミソラが言う。
「人によって違う。時間でも変わる」
「東が一番助かる確率は高い」
百舌が打った。
《その通り》
ミソラは頷く。
「今の症状だけなら」
イオがミソラを見る。
「認めるんだ」
「数字を嫌いになっても、肺は感情で膨らまない」
「じゃあ、百舌が正しい」
「救命率の部分は」
「部分を分けてる間に死ぬ」
「分けないと、生きた後を誰かが決める」
ミソラは左右逆に手袋を着けていた。
怒っている。
右手の青。
左手の赤。
本人は気づいていない。
「私は、東を推奨する人を作る。東へ強制する人は作らない」
《推奨を拒否された時》
「拒否理由を訊く。訊けなければ、拒否だけ記録する。生命危険が切迫し、本人が選べないなら、私が救命上の搬送先を選び、私の名を残す」
《あなたが代行する》
「代行した事実を、本人の同意と呼ばない」
百舌はしばらく打たない。
沈黙。
イオは、それを同意とは数えない。
午前八時二十六分。
観察窓から新しい映像が届く。
七瀬が設備灯だけを撮り、住民の顔を入れず地上へ送った映像だ。
水没学校の廊下。
天井まで四十センチの空気。
黒板の上端。
浮かぶ教科書。
梁へ結ばれた十二枚の住所札。
その一枚へ、裏側から文字が書かれている。
《東はいや》
別の札。
《家族に会う》
もう一枚。
《名前を出さない》
字は水で揺れている。
書いた人間の手元は映らない。
「三つ」
タマキ。
「既に選んでる」
「書ける人だけ」
イオ。
「書けない人は」
「書ける人が代わりに書いたかもしれない」
巴。
「筆跡だけでは本人同意にならない」
タマキが映像へ顔を近づける。
「じゃあ、どうしたら本人?」
「本人というものを、一つの確認へしない」
巴は黒板へ項目を書く。
《呼称》
《行先》
《目的》
《今の理解》
《変更方法》
「多い」
ミソラ。
「水中で五問は無理」
「削る」
巴。
「何を削るかは、緊急度で変える」
「能力履歴の照会を恐れて東を拒む人へ、病歴の詳細を水中で説明できない」
イオ。
「だから拒否を認める」
ミソラ。
「何も分からないまま拒否したら」
「後で選び直せる中央がある」
「十二人だけ」
「物理定員」
轟が圧力室の図面を広げた。
「壁厚、二百八十。扉二枚。空気供給は二系統。十二人なら持つ。十三人目で床が抜けるんじゃない。酸素交換の余裕が消える」
「十三人目は」
「東か西。あるいは中央の一人が選び直して出た後」
「保留にも順番がある」
タマキは輪結びの索を見た。
「空席は無限じゃない」
「だから誰を入れるか決める」
凱。
「誰が」
「本人。選べない場合は、代行者。代行者がいなければ医療責任者」
「獅堂凱は」
「地上指揮。搬送先は決めない」
「言い切ると、決めないことまで命令みたい」
「どう言えばいい」
「僕に訊かないで」
「訊けと言った」
「搬送先を訊け。言い方は自分で決めて」
凱は一度、椅子へ座った。
王位を終えてから、立ったまま全員へ答えを配る癖を減らしている。
減らしただけで、消えていない。
「俺は、搬送先を決める権限を持たない」
ゆっくり言う。
「設備の開閉、潜水班の交代、酸素の配分について、地上指揮の責任を負う。本人が選べない緊急搬送は、ミソラが医療理由と自分の名を記録する。百舌の提案は、東口を標準にする案として検討する。全員同意としては扱わない」
百舌が表示板へ打つ。
《指揮系統が分裂する》
「分ける」
凱。
《水中では一秒の遅れが死ぬ》
「一人の誤りも死なせる」
《私は施設内を知る》
「知識は使う。権限は検討する」
《私が拒否すれば》
「あなたの拒否を記録する」
《それでも入る》
「救助要請がある」
《誰から》
タマキが反応した。
百舌が、彼の三つの質問を返した。
《誰が外部を呼んだ》
指揮所が静かになる。
地下から出た男は、医療用毛布に包まれている。
名札をまだ裏返している。
彼が手を上げた。
「俺です」
「名前を」
凱。
「今は、出さない」
「受領」
タマキ。
「誰へ」
「地上で聞こえる誰か」
「受取先、広い」
「地下に水が来た。狭く言う時間がなかった」
「目的」
「出たい人を出す。残るって言った人も、あとで変えられるようにする」
百舌が打つ。
《施設外へ情報を渡す権限なし》
男は毛布の中で肩を震わせた。
「だから、渡した」
《規則違反》
「はい」
《あなたの行動で浸水が拡大した可能性》
「あります」
《責任》
「取ります」
男は名札を表へ返さない。
「名前を出さずに」
百舌の指が止まる。
イオは男を見る。
名前を出さずに責任を取る。
便利な逃げにもなる。
名前を出すことでしか責任を認めない制度も、便利な支配になる。
「責任は、名前だけじゃない」
イオが言う。
「したこと、時刻、戻せる範囲、誰に説明するか」
「番号でも?」
男。
「番号は、本人が選ぶなら」
「自分で選べる番号なんか、番号じゃない」
「なら呼称」
「まだ決めない」
「未定と書く」
タマキが名簿へ書いた。
《呼称 未定》
《救助要請者》
《目的 出たい者の出口確保》
《本人情報 保留》
「搬送先」
「中央」
男は即答した。
「理由」
「東へ出たら、施設の薬歴が自動照会される。西へ出たら、家族が生きてるか分からない。中央で決める」
「受領」
初めて、一人の欄が埋まった。
搬送先が先ではない。
本人の言葉が先だった。
午前八時四十一分。
水没学校の映像で、一枚の札が新しく窓へ出る。
《病院へ》
《でも名前はあと》
ミソラが紙へ書く。
「東。限定照会希望」
百舌。
《東口は本人確認必須》
「必須範囲を減らす」
《制度外》
「救命処置は制度内?」
《当然》
「では、救命に不要な照会を止める」
《照会を止める権限がない》
「誰にある」
真琴が別紙を出す。
「東医療口の受入規程では、患者が意思表示できない場合、当直責任者が照会範囲を限定できる。意思表示できる場合については、規程がない」
「ないなら」
迅。
「禁止?」
「規則の空白です」
「空白は使える」
真琴は眼鏡の奥で迅を見る。
「あなたが言うと侵入計画に聞こえます」
「医療計画」
「もっと悪い」
ミソラが紙を取る。
「当直責任者へ連絡。意思表示できる患者にも限定照会欄を適用する暫定運用を要請。期限は本件終了まで。自動更新なし」
「誰が署名」
「私では足りない。正式資格がない」
ミソラの声は平らだった。
自分の技能を小さく言っているのではない。
法的な不足を、感動で埋めない。
「東口の医師へ回す」
凱。
「回答期限、十分」
「五分」
ミソラ。
「十分だと、水位が一目盛り上がる」
「五分で読む量か」
巴が規程を見る。
「三頁。平文なら一頁」
「作る」
「通訳料」
タマキ。
巴が手袋の句点を親指でなぞる。
「緊急料金。後で請求」
「誰へ」
「東医療口。空白の旗ではない」
「受領」
各自が、自分の仕事へ戻る。
イオは切り取った《東医療口》の紙片を、名簿の横へ置いた。
まだ一人分しか使われていない。
「水科イオ」
タマキ。
「何」
「能力がない人を、判断不能って書いたことある?」
イオは時刻を数えない。
「ある」
「自分も?」
「毎日」
「訂正した?」
「まだ全部は」
「じゃあ、今回」
「今回だけで帳尻を合わせない」
タマキは頷かない。
否定もしない。
「僕、潜る」
「技能不足」
「知ってる」
「知ってて言う方が悪い」
「地図が違う。住所を知ってる人がいる」
「水中で住所は読めない」
「触れる」
「耳抜きは」
「練習する」
「時間」
「何分」
「それを私に訊くな」
「イオみたい」
「私だ」
タマキの口元が少しだけ上がる。
百舌が窓の中から二人を見ている。
彼女の表示板に、新しい文。
《判断能力の確認に時間を使う間》
《空気溜まり残量 四十七分》
ミソラが数字を見る。
「推定根拠」
《施設計器》
轟が首を振る。
「増設天井分、入ってない」
《施設計器は校正済み》
「部屋が図面どおりならな」
水没学校の天井は、住民が断熱材と寝棚を足して低くしている。
空気の量は、図面より少ない。
百舌の四十七分は、正確な計器で間違った部屋を測った数字だった。
轟が壁へ耳を当てる。
高い金属音。
「二番水門」
全員が見る。
「あと五分」
凱が立つ。
「東側圧力筒を先行開放。潜水班一組、進入。西と中央の点検を継続。搬送先未定者を、東へ確定した者として扱わない」
百舌が打つ。
《異議》
「記録した」
凱。
《従わない》
「あなたの行動へ、あなたの名を残す」
百舌は表示板を下ろした。
両手を背中へ組む。
命令へ従うとも、妨害するとも言わない。
沈黙は返事ではない。
返事を待つための時間だ。
ただし、水は待たない。
東側の圧力筒で、最初の赤灯が回った。
切り取られた《東医療口》の紙片は、まだ机の上に一枚。
名簿には、四十二の空欄が残っていた。
午前八時四十七分。
東側圧力筒の外扉が閉じた。
中へ入ったのは、潜水班三人。
百舌側の施設潜水員二人。
地上側からはミソラ。
迅は外に残された。
「医療者が先?」
「最初に触れる人が、何を触っていいか知ってる」
ミソラは面体越しに答えた。
「拳は、次」
「順番が低い」
「怪我人としては高い」
「まだ怪我してない」
「予測」
内扉の圧力が下がる。
水が膝。
腰。
胸。
ミソラは右手と左手の役割を確認する。
右で圧迫。
左で器具。
手袋の色は、もう直してある。
百舌は透明室から潜水員へ合図を送った。
掌を前。
二度曲げる。
東。
三人の動作が、合図を見るだけでそろいかける。
誓痕は発動しない。
三人目のミソラが、同じ掌を出さなかったからだ。
彼女は手首の内側へ、東の十字札を付ける。
次に西の屋根札。
中央の輪札。
三つを見せる。
百舌の目が鋭くなる。
内扉が開いた。
濁水が圧力筒へ入り込む。
三人の姿は、一秒で輪郭だけになる。
地上の映像板へ、胸部灯の位置だけが映る。
上。
下。
右。
施設潜水員の二灯は、一直線に東経路へ進む。
ミソラの灯だけが、三歩分遅れる。
何かに触れた。