第390話 第一章「沈んだ居住区」後編
百舌の表示板が窓へ打ちつけられた。
《外部潜水 不要》
《設備図なし》
《障害になる》
迅が読んだ。
「正論」
「行かない?」
タマキ。
「正論と命令は同じじゃない」
「行く?」
「潜水班の指示に従う」
「後半」
「間違ってたら止める」
タマキは鉄箱を背負う。
箱は防水ではある。
潜水用ではない。
轟が留め具を外す。
「水へ持ってくな」
「道具が」
「沈む」
「僕も」
「お前は浮く」
「軽いって言いました?」
「体重の話」
「仕事の話に聞こえた」
轟は箱の中身を床へ並べる。
住所札。
古切手。
靴紐。
振動槌。
折れた鉛筆。
空の封筒。
犬の昼寝時間を書いた小地図。
潜水に要る物は、ほとんどない。
タマキは一枚ずつ見た。
「地図は要る」
「濡れる」
「覚えます」
「古い」
「新しい道が分からないなら、古い道がどこまで間違ってるか要る」
迅が、タマキの鉄箱から空の封筒を一枚取る。
「これは」
「返送用」
「誰へ」
「届かなかった時の僕」
「住所」
「まだない」
「役に立たない」
「届かなかったって分かる」
迅は封筒を戻した。
「潜水は、前半は地上」
ミソラが言う。
「技能不足。耳抜き訓練不足。装備が身体に合っていない」
「三つ」
「何が」
「行けない理由」
「足りない?」
「余ってます」
「なら地上」
タマキは反論しない。
反論しないことと、納得は同じではない。
彼は鉄箱の中から左右で色の違う靴紐を外した。
緑を東。
黄を西。
白を中央。
古い図面へ結ぶ。
三つの行先。
一つの人間を三つへ分けることはできない。
けれど、四十三人を一つへまとめる必要もない。
午前六時五十二分。
澪は引継ぎの最後に、全員を資材庫の外へ立たせた。
雨は降っていない。
それでも高架の継ぎ目から、昨日の水が一定の間隔で落ちてくる。
一滴。
間。
一滴。
「音の試験をします」
澪は三本の笛を並べた。
高音。
中音。
低音。
環玉樹が訊く。
「右耳で?」
「両耳です」
「聞こえない音を試すの」
「聞こえないことを共有するためです」
澪は高音の笛を吹いた。
迅と凱が顔を上げる。
七瀬は時刻を書く。
轟は音ではなく、澪の頬が引きつるのを見た。
澪自身には、笛の音が細い銀線のように途中で切れた。
その代わり、床が一度だけ右へ傾いた。
「聞こえた人」
八人。
「聞こえなかった人」
澪と、左耳へ綿を詰めた整備員一人。
「揺れた人」
澪だけ。
「では高音は水系救難信号から外します」
「隊長の耳に合わせるんですか」
若い帰路班員が訊いた。
「隊長が一人だけ聞けない信号を残すと、隊長が聞こえるふりをするからです」
「自分の話」
「失敗例です」
中音。
全員が聞いた。
ただし、高架下の反響で方向を二人が誤った。
低音。
耳ではなく、胸骨と靴底へ来た。
タマキが一歩後ろを見る。
「後ろから?」
「床から」
轟。
「分からない」
「分からない時の合図」
澪が言う。
「掌を下へ。決めたふりをしない」
タマキは掌を下へ向けた。
進行でも停止でもない。
不明。
救難信号の表には、以前その欄がなかった。
現場では、分からない人間ほど早くどちらかを選べと言われる。
澪は表の中央へ、新しい記号を書いた。
《不明――復唱を求める》
「命令が一つ増えました」
凱。
「命令ではありません」
「では」
「聞き返してよいという許可」
「許可が要る時点で、命令に近い」
澪は一秒考えた。
「訂正します。聞き返しは許可を要しない。表は、聞き返された側が怒鳴らないための規則」
「そちらなら使える」
凱は自分の記録用紙へ写した。
午前六時五十八分。
水系七局から最初の緊急振動が来た。
短い四回。
長い一回。
短い二回。
既存表にない。
資材庫の全員が、反射的に澪を見る。
澪は右耳の補助具へ手を伸ばしかけ、止めた。
「私に訊かない」
「でも隊長」
「引継ぎ中です」
床の図板へ、振動の順番を書いた。
「分かる人」
百舌忍の監督記録を読んでいた施設潜水員が手を上げる。
「施設符号です。四、長、一、二。居住区四。主圧管破断。第二遮断板不作動」
「確定?」
澪。
「八割」
「二割」
「四が人数か区画番号か」
「訊く」
タマキが低音槌を取った。
同じ符号を返すのではない。
短い一回。
間。
短い四回。
《四とは何か》
地底から返った。
長い一回。
短い二回。
《区画》
澪は頷いた。
「受領。第二遮断板の開放準備。水系図面と現物差分を取る。東・西・中央の受入先へ予備連絡」
言い終えてから、環玉樹を見る。
「最後の一文は、あなたの仕事です」
「今言った」
「言ったのは引継ぎ。実行責任者は」
「凱?」
「地上連絡は凱。振動受信はあなた。設備は轟。医療はミソラ。記録は七瀬」
「隊長は」
「治療」
口にした瞬間、澪の顔が少しだけ険しくなった。
現場へ残るより、治療へ行く方が難しい人間はいる。
勇敢だからではない。
現場なら、自分の失敗を仕事で埋められるからだ。
治療室では、埋める仕事がない。
「帰ってきますか」
タマキが訊いた。
「治療が終われば」
「隊長として?」
「その時の仕事が必要とする範囲で」
「曖昧」
「未来の役職を今の安心へ使わない」
澪は三本の笛を一つずつ渡した。
高音は使わない印を付け、保管箱へ。
中音は地上連絡班へ。
低音はタマキへ。
「これは借り物です」
「返却先」
「私ではなく、帰路班の備品棚」
「隊長に返さない?」
「人へ返すと、物までその人の権限になります」
「帰ってきても?」
「棚へ返す」
タマキは低音器の柄へ、小さな荷札を結んだ。
《送り主 帰路班》
《受取人 水系救難担当》
《目的 聞こえない場所へ知らせる》
《返却先 備品棚》
「まだ能力ないのに、細かいな」
迅が言う。
「能力がない時に細かくしないと、出た時だけ偉くなる」
「出る前提か」
「出ない前提だけにすると、出た時に他人が決める」
澪はその会話を聞き、何も褒めなかった。
褒めれば、条件を先に誘導するかもしれない。
午前七時八分。
第二遮断板が半開のまま止まったという追加信号。
七局の居住記録は四十二。
監督生を含めると四十三。
百舌忍は救助側か、被救助側か。
施設の表は救助側へ置いていた。
ミソラは四十三本目の横線を引いた。
「役割は救助側。身体は被救助側になり得る」
「両方へ数える?」
「人間は一人。必要物資は二つの役割分」
「ずるい数え方」
「現実の方がずるい」
午前七時十五分。
澪を乗せる搬送車が来た。
運転手が後部扉を開ける。
澪は一歩乗り、振り返った。
水系七局の警報灯が、高架の向こうで白く点滅している。
戻ることはできる。
車を降りればいい。
彼女は降りなかった。
「聞こえない時、推測で吹かない」
最後の指示。
「聞こえた人へ、聞こえない人の責任を押しつけない。復唱を取る」
タマキが低音器を胸へ当てた。
「受領」
車の扉が閉じる。
澪は現場から去った。
去ることによって、引継ぎが本物になった。
午前七時二十六分。
観察窓の百舌が、初めて両手を背中から離した。
右手の掌を地上へ見せる。
施設の標準合図。
《同意》
《継続》
《従う》
三つの意味を一つへ押し込んだ手。
後ろの職員三人が、同じ掌を上げる。
水の中で、三人の肘がまったく同じ角度へそろった。
次の瞬間、観察窓の内側にあった重い遮断板が、三人の動作だけで持ち上がる。
息の合った訓練ではない。
動作の始点も、力の増え方も、同じだった。
百舌の手首に、紫の細い線が浮かぶ。
無言同意〈サイレント・イエス〉。
三人が同じ身振りを模倣した時、次の一動作を同じにする誓痕。
遮断板が上がる。
奥の空気溜まりへ、酸素配管が一本通る。
四十二人のうち何人かが、目を閉じたまま息を吸う。
百舌の計画は、人を救っていた。
救っている計画を止めるには、間違いを叫ぶだけでは足りない。
より遅く、より面倒で、それでも間に合う別の手順が要る。
タマキは三本の靴紐を地図へ結び終えた。
東。
西。
中央。
青い染みが、三つすべてへ届いた。