第389話 第一章「沈んだ居住区」前編
十月二十日 午前六時四十分
風祭澪は、治療へ向かう人間の荷物をしていなかった。
紺の救難上着。
三本の真鍮笛。
白い救助索。
濡れた床へ置かれた防水図板。
高架下診療所へ入院する者というより、診療所を移設しに来た隊長に見える。
「荷物は」
環玉樹が訊いた。
「これで全部」
「着替え」
「一組」
「何日」
「検査二日。治療方針が決まれば追加」
「歯ブラシ」
「現地にある」
「枕」
「現地にある」
「隊長」
「現地にはいない」
「だから要る」
澪は答えず、右耳の後ろへ指を当てた。
補助具の縁が擦れて赤い。
高音域の感音難聴は、外環共同病院の停電で悪化してはいない。回復もしていない。最近は、笛の最も高い音が鳴った時、音より先に平衡感覚が揺れる。
治療は、現場を捨てることではない。
澪はそう説明してきた。
説明が必要な時点で、本人がまだ納得していない。
「枕は持っていけ」
伏見轟が言った。
大きな手で、小さな布包みを差し出す。
「何ですか」
「枕」
「鉄板が入っています」
「薄い」
「枕へ耐荷重はいりません」
「お前、無線を下へ入れるだろ。守る」
「病院の寝台へ無線は持ち込みません」
「そう言ってる奴の荷物に、もう入ってる」
轟が澪の鞄を指す。
革の側面が四角く膨らんでいた。
澪は鞄を開けた。
小型無線機が入っている。
「誰が」
「お前」
水科イオが言った。
濃い青緑の髪を片側だけ刈り上げ、左前腕の真鍮装具へ指を置いている。止まった時計を三つ、腰の工具帯へぶら下げていた。
「五時五十八分。自分で入れた。六時十二分に忘れた」
「見ていたなら止めてください」
「治療へ行く人間の自発性を尊重した」
「嫌味ですね」
「正確には観察」
時雨ミソラは、診療所へ提出する紙を折っていた。
淡い水色のフード。
右手は赤、左手は青の手袋。
右脇腹から背中へ残る慢性痛のため、立ったまま同じ姿勢を取らない。説明をしながら踵を半歩ずつ入れ替えている。
「右耳の聴力。高音域低下。大音量時の平衡障害。睡眠不足。治療延期の常習」
「最後は症状ではない」
「治療を遅らせる症状」
「仕事です」
「症状の名前を仕事にしないで」
澪は小さな笛を握った。
吹かない笛。
迷った時だけ握る笛。
「引継ぎを終えます」
床の図板へ三本の線が引かれている。
一本目は、救助索を通じる振動信号。
二回短く、進行。
一回長く、停止。
三回、帰還。
二本目は、水中で使う低音打撃。
金属管へ槌を当て、音ではなく骨へ響かせる。
三本目は、接触による復唱。
肩を二度押す。
手首を握る。
掌を開く。
「水中では、見える合図ほど誤解される」
澪は言った。
「泡で手が隠れる。灯りで色が飛ぶ。手袋の指が曲がらない。見えた者が見えなかった者の返事を代わりにする。だから、一種類にしない」
タマキは図板へ顔を近づけた。
「何を言ったかより、誰に届いたか」
「そう」
「届かなかった人は」
「近づく。三歩以内」
「水中で三歩は」
「索三尺。言葉を変えるな。距離を変える」
「復唱」
「環玉樹。進行は」
澪が二回、索を引く。
タマキは二回引き返す。
口では言わない。
「停止」
一回長く。
タマキが同じ長さを返す。
「帰還」
三回。
三回返す。
「合格」
「配達料」
「引継ぎ料を払うのは、受け取った側です」
「じゃあ、風祭澪が払う」
「私が渡した」
「受け取ったって確認したのは隊長」
イオが左前腕の刻印を一つなぞる。
「六時四十七分。論争開始。終業未定」
「タマキ」
澪が言った。
「一枚」
「何を」
「請求書」
「冗談です」
「冗談を復唱させるな」
タマキは緑のニット帽を深くかぶった。
左側頭部の火傷痕を隠すためではない。今朝の高架下は冷える。帽子の内側には、住所札が二枚縫われている。
受取人。
受取先。
目的。
彼は荷物を受ける前に、必ず三つを訊く。
人間へも訊く。
「風祭澪。受取人」
「高架下診療所の耳鼻科担当」
「受取先」
「診療棟二階」
「目的」
「検査と治療方針の決定」
「帰る予定」
「決まっていない」
「分からないって書く」
「書け」
澪は図板から三本の真鍮笛を外した。
一番高い笛をタマキへ渡す。
タマキは受け取らない。
「それ、聞こえない音でしょう」
「以前は聞こえた」
「今は」
「全部は聞こえない」
「だったら預かる理由は」
「聞こえる人間が持つ」
「聞こえる人間が、意味を知らないと危ない」
「今教えた」
「一回で分かったことにしないで」
澪の口元がわずかに動く。
笑う前の顔だった。
笑わない。
「正しい」
笛を引っ込める。
代わりに、小さな振動槌を渡す。
「これは音がなくても分かる」
「受領」
タマキは槌を鉄箱へ入れた。
留め具を二度鳴らす。
その二度目と、床下から返った音が重なった。
低い。
澪の合図ではない。
腹の底へ、太い何かが一度だけ触れた。
轟が顔を上げる。
「今の」
イオが真鍮装具へ掌を置く。
「六時四十九分十二秒。地下。周期なし」
もう一度。
今度は床がわずかに盛り上がった。
図板の水滴が、線の上を逆へ走る。
タマキは鉄箱を閉じ、床へ膝をつけた。右耳ではなく、左の掌を石へ当てる。
水の音は、遠くから来ると柔らかい。
近い水は、音ではない。
床、壁、靴底、歯の根を同じ方向へ押す。
「下です」
「何階」
澪。
「階じゃない。線が増えてる」
「何の線」
「水」
轟が床板の隙間へ工具を差した。
持ち上げる。
冷たい空気が噴き出した。
その直後、黒い水が細い柱になって天井近くまで上がる。
ミソラが澪を横へ引く。
イオが真鍮装具をかばう。
タマキは鉄箱を胸へ抱え、壁へ背をつけた。
水柱は一秒で止まった。
床下の圧力が変わった。
「管が割れたんじゃない」
轟が穴へ耳を寄せる。
「床下全体が押してる」
診療所の警報が鳴る。
高い音だった。
澪の右側で。
彼女は反応しない。
タマキが澪の左肩を二度押した。
警報の方向を指す。
澪は一拍遅れて振り向く。
遅れた一拍を、誰も見なかったことにしない。
「高架下第三排水警報」
イオが表示を読む。
「旧地下居住区。水系第七管理区画」
「閉鎖済みだろ」
迅の声が、階段上から落ちた。
紺の学ランの袖をまくり、右手首の赤い七結びを濡らしている。隣に火群七瀬。黒い短丈雨合羽の裾から、手回し撮影機の脚が見えた。左肩へは掛けず、腰高の台車へ固定している。
「閉鎖図なら」
タマキが言う。
「閉鎖してます」
「図なら?」
「住んでる人を閉じられません」
旧地下居住区。
黒雨後、排水調整槽の上へ仮設された労働者住居。
行政上は三年前に閉鎖。
実際には、住所を失った者、能力履歴を登録したくない者、七局を出た後も地上へ移れなかった者が残っている。
地図には、最初の十八部屋しかない。
生活は図面の許可を待たない。
壁を足し、棚を足し、寝床を足し、子どもが生まれれば廊下へ扉を足す。
出口だけは、勝手に増やせない。
「人数」
澪が訊く。
凱が階段を降りてきた。
白い外套ではない。
王位を終えた後の短い作業外套。左膝の黒い装具。胸には割れた青銅鐘を吊らず、工具用の平紐だけがある。
「施設側の最終記録は四十一」
「いつ」
「八か月前」
「最終じゃない」
「分かっている」
「現場確認」
「既に送った」
凱は主語を省かない。
「俺が、北側点検口へ二人を送った。南の排水弁へ一人。連絡が戻るまで四分」
「私が行く」
澪。
ミソラが、澪の鞄を足で引き寄せた。
「行かない」
「引継ぎ途中です」
「終わった」
「現場は始まった」
「治療も始まってる」
「予約です」
「予約を命令より弱く言わないで」
澪の手が、小さな笛を握る。
迅は穴から噴いた水を見る。
「戻ったら」
「戻らない」
澪が迅を睨む。
「私は治療へ行く。戻らないことを、戻れる者がいる証拠にする」
言い切るまで、声は低く一定だった。
最後の一音だけ、わずかに揺れた。
タマキは鉄箱から振動槌を出す。
澪へ差し出した。
「返却?」
「確認」
澪は槌を受け取る。
床へ二回。
進行。
タマキが二回返す。
一回長く。
停止。
タマキが返す。
三回。
帰還。
タマキは返さなかった。
「帰還は、帰る人が決める」
「訓練では復唱しろ」
「今は訓練じゃない」
「タマキ」
「風祭澪。受取先は診療棟二階。目的は検査。行って」
澪は、もう一度三回叩いた。
今度は命令ではない。
自分が帰る合図だった。
タマキは三回返した。
澪は鞄を肩へ掛けかけ、右耳側へ重さが寄るのを嫌って左へ持ち替える。轟の鉄板入り枕も、黙って入れた。
「水中信号の責任者」
澪が言う。
「一人にするな。ミソラは医療。タマキは宛先。凱は地上指揮。轟は構造。迅は――」
「余り」
迅。
「余りは最初に溺れる。潜水班の指示に従え」
「了解」
「復唱」
「潜水班の指示に従う。間違ってたら止める」
「後半が余計」
「そのための余りだ」
澪は返事をしなかった。
高架下から出る。
雨は降っていない。
空は低く、運河の臭いが壁沿いに溜まっていた。
救難車の扉が閉じる。
澪は振り返らない。
車が動く直前、窓の内側から指を三度曲げた。
帰還。
誰へ向けたかは確認しない。
午前六時五十五分。
北側点検口から、最初の報告が来る。
「地下三層まで浸水。圧力扉二枚閉鎖。応答あり」
凱が訊く。
「人数」
「壁叩き、四十三」
「四十三人が叩いたのか」
「違います。四十三の登録札を、内側から窓へ押し当てている」
「職員を含む?」
「含む。読み取れた範囲では」
報告者が息を吸う。
「百舌忍。監督生」
七瀬が撮影機のクランクへ手を置く。
「初出時刻、六時五十五分二十一秒」
地下点検口の観察窓へ、透明な防水服の少女が現れた。
顎下で切った濃い茶髪。
前髪だけ白い。
喉を覆う黒い帯。
腰には、音の出ない鈴がいくつも下がっている。
少女は声を出さない。
両手を背中へ組んで立つ。
その後ろで、四十二人が同じ方向へ顔を向けていた。
少女は一枚の表示板を窓へ当てた。
《救助指揮 百舌忍》
《全員 東医療口》
《単一搬送》
《異議は浮上後》
タマキは表示を読んだ。
「異議は、今あります」
窓越しに聞こえるはずのない言葉だった。
百舌はタマキの口元を読んだ。
紫に近い瞳が、一度だけ細くなる。
表示板を書き換える。
《水中では声が届かない》
タマキは防水図板へ三つ書いた。
《誰から》
《誰へ》
《何のため》
百舌は答えず、右手を上げる。
後ろの四十二人が、同じ右手を上げた。
同じ角度。
同じ速度。
同じ高さ。
誰かが自分で上げたのか。
上げさせられたのか。
上げられない者が何人いるのか。
水越しには分からない。
古い図面の上を、青い染みが広がった。
十八室しかないはずの居住区に、四十三枚の住所札。
そのうち一枚だけ、受取先の欄が空白だった。
午前七時三分。
最初の圧力扉が、地上側へ七センチだけ開いた。
その隙間から、水ではなく一人の男が押し出された。
施設の作業服。
胸の名札は裏返し。
右手に、透明な記録板。
轟と迅が同時に腕を伸ばす。
「頭」
轟。
「脚」
迅。
二人は男を床へ寝かせた。
ミソラが赤い手袋で頸を支え、青い手袋で胸へ触れる。
「呼吸二十二。脈百十二。右下腿裂創。意識あり。名前は後」
男は咳をし、水を吐いた。
「中、何人」
凱が訊く。
ミソラが首を振る。
「先に症状」
「分かっている」
「分かっている人は、質問を待てる」
凱は口を閉じた。
男の呼吸が十八まで落ちる。
ミソラが指を一本立てる。
「一問」
「中に、四十三人いるか」
男は頷いた。
タマキがすぐに言う。
「頷けない人は」
男が咳の合間に答える。
「……六人。眠ってる。二人、脚が動かない。子ども、四」
「職員」
「九」
「百舌忍は」
「監督生」
「救助される側?」
男は視線を逸らした。
答えない。
タマキは同じ問いを繰り返さなかった。
答えないことも答えだと言えば、また誰かの代わりに意味を決める。
「記録板」
七瀬が言う。
「見せられますか」
男は右手の板を抱え込んだ。
拒否。
七瀬は撮影機のクランクから手を離した。
「受領しました」
「撮らない?」
迅。
「今は」
「記録がない」
「本人の板があります。見せない選択もあります」
男は七瀬を見た。
しばらくして、板を床へ置く。
裏返したまま、指で三度叩いた。
「三回」
タマキが澪の引継ぎを思い出す。
「帰還?」
男は首を横へ振る。
板へ、濡れた指で文字を書く。
《三つ》
凱が地図を見る。
「出口が三つある」
男は頷いた。
旧図面に出口は一つしかない。
東側の医療用浮上筒。
男は板の表を見せた。
手書きの断面図。
東。
西。
中央。
東は医療口。
西は旧学校の給食搬入口から家族受入所へ上がる。
中央は圧力調整庫。地上へ出ても、二十四時間は身分登録を保留できる。
「増設した?」
轟。
「施設が。……表にはない」
「三つの出口を作って、一つしかないことにした」
七瀬。
「管理しやすいから」
イオが言う。
声に温度がない。
「人間は出口が多いと逃げる。研究所はそう考える。実際には、出口が一つだと隠れて死ぬ」
男がイオの真鍮装具を見る。
左前腕の時刻列。
「七局」
「元」
イオは短く答える。
「番号で呼ぶな」
「呼んでない」
「目が呼んだ」
男は目を伏せた。
タマキは三つの出口へ、それぞれ別の形を描く。
東は十字。
西は屋根。
中央は空の円。
「色だけじゃ駄目。濁ったら見えない」
轟が言う。
「形も、手袋だと分からない」
ミソラ。
「触れる溝を付ける」
タマキ。
「握れない人は」
「目で選ぶ」
「目を開けられない人は」
「前に言ったこと」
「前に何も言っていない人は」
タマキは答えられない。
百舌の全員東搬送は、その空白を埋める。
埋め方が速い。
速さは、助ける時には正義の顔をする。
問題は、正義が誰の欄へ名前を書くかだった。
凱は男へ一問を追加しない。
代わりに地上指揮へ向き直る。
「東口の受入可能数」
「病院側は全四十三」
「西」
「家族照合が済んでいる十四。追加は現時点で不可」
「中央」
「十二。圧力室の物理定員」
「合計四十三」
「ただし、東は能力履歴照会を含む」
真琴が新しい紙を持って降りてきた。
丸眼鏡のレンズが曇っている。
左手で紙を持ち、右手に署名用の細い筆。
「西は家族・居住関係の確認。中央は氏名を保留できるが、医療設備は最低限。三つは安全度も情報公開も同じではない」
「選ばせればいい」
迅。
「説明できれば」
一文字巴が、真琴の後ろから現れた。
白手袋の指に黒い句読点。
透明な喉当て。
折り畳み黒板。
巴は地下窓の百舌へ手話を送る。
《三つの出口》
《本人へ説明》
《選択》
《撤回》
百舌は両手を背中に組んだまま、視線だけを動かした。
返事をしない。
巴は待つ。
十秒。
二十秒。
水位表示が一目盛り上がる。
百舌が右手を出した。
東を示す施設手話。
そのあと、四本指。
三本指。
四十三人。
もう一度、東。
《全員》
巴が首を横へ振る。
《あなたが決めた?》
《四十三人が決めた?》
百舌は表示板へ書く。
《判断不能者を含む》
《時間不足》
《標準手順》
ミソラが読む。
「標準手順は必要」
タマキが振り向く。
「必要?」
「意識がない人へ、選択を待って酸素を使い切らせないために」
「じゃあ、意識がある人は」
「選ぶ」
「混乱してる人」
「選べる範囲を減らす。説明を短くする。選べないなら、理由を残して救命を優先する」
「百舌忍は、全部を一つにしてる」
「それが速いから」
ミソラは百舌を擁護していない。
速いものを、遅いふりで批判しないだけだ。
救助の遅さは、本人尊重という名前を付けても肺へ入る。
午前七時十七分。
地下の照明が一列消えた。
観察窓の向こうで、四十二人の腕が下がる。
一人だけ、上がったままだった。
肩から先が動かないのか。
下げたくないのか。
百舌の合図を見ていないのか。
地上からは分からない。
「映像を拡大します」
七瀬が言い、すぐに言い直した。
「撮影許可がある範囲だけ。窓の公示板と設備灯。人の顔は入れません」
タマキが観察窓へ近づく。
「顔を入れないと、誰が手を下げられなかったか分からない」
「分かります」
「撮る?」
「撮らない」
「じゃあ、どうやって」
「私が覚える」
「間違えたら」
「間違えたと書く」
「強いですね」
「弱い方法です。だから複数必要」
七瀬は紙へ、位置だけを描いた。
《後列左から三人目》
《右腕上がったまま》
《理由不明》
真実ではない。
観察記録。
違いを、七瀬は小さく書かない。
東側の配管が震えた。
轟が床を叩く。
「水門二番。持たん」
「何分」
凱。
「今の音なら二十分。次に高い音が混じったら五分」
「東口を先に開ける」
「誰が決める」
タマキ。
「俺が設備作業を決める」
凱は答えた。
「人の行先は決めない。東口を使える状態にする。西と中央も同時に確認する」
「復唱」
タマキ。
「東を開ける。東へ全員を送るとは言っていない」
「受領」
凱は一瞬だけ、胸にない鐘へ手をやりかけた。
何もない場所で指を止める。
「潜水班を組む」