第388話 第十二章「死角を残す条例」後編
一枚の票へ押し込めれば、百人目の空席で作ったものを自分たちで壊す。
真琴は採決を六つに分けた。
一、九十六節点の個別処遇。
二、継続節点の閲覧者記録。
三、死角路と緊急呼出。
四、見ない当番と緊急開鍵。
五、監視拒否と配給・住居・雇用の分離。
六、三十日後の再審査。
「六回も投票するのか」
広場から不満。
「一回で全部決めれば、賛成したくない条項へも賛成したことになります」
「時間がない」
「暫定条例です。今夜決めるのは、明日も続ける最小限です」
「三十日後にまた?」
「はい」
「永遠に決まらない」
「永遠に決め直せないよりましです」
迅が小声で言う。
「今の、名言」
「法文です」
「短い」
「例外は後ろにあります」
「やっぱり長い」
六つの票は、同じ方法では取らない。
節点処遇は、該当区画の利用者、勤務者、保守者の三群で確認。
閲覧者記録は、監視員自身の賛否を別に表示。
死角路は、実際に試験通行した人の拒否と保留を独立表示。
見ない当番は、緊急例外を使われる可能性のある住民の異議欄を置く。
生活分離は、配給所と宿舎の実務者へ費用見積りを求める。
再審査は、全体の参加者へ。
「住民じゃない私が票を持つ?」
綺理。
「見ない当番の設計者として意見は出せます。地域の決定票は持ちません」
「イオは」
「雇用転換案の提出者。監視員本人ではないため、賃金票は持たない」
「轟」
「設備安全の拒否権。政治的賛否ではありません」
「迅」
「何もない」
「早い」
「殴るもの、ない?」
迅。
「壊れた留め具があります」
轟。
「仕事、あった」
迅は広場の端へ行き、札箱の脚を直した。
投票へ参加しないことを、物語から外れることとは扱わない。
雇用条項で、最も長く止まった。
「同額賃金を条例へ書けば、財源がない」
配給担当。
「書かなければ、見ない仕事へ移るほど減給される」
イオ。
「監視手当は、精神負荷への対価です」
伏木レン。
「見ない当番も、開けない責任がある」
「同じ負荷か」
「違う。だから、安くていいとはならない」
坂下ユウ。
彼女の右人差し指の青い爪は、もう剥げ始めている。
「私は、同額じゃなければ移らない。明日、画面へ戻るかもしれない」
「脅し?」
「生活」
「監視を止めたいなら、少し我慢を」
誰かが言う。
ユウは声の方を探さない。
「見られる人の自由を、見る人の貧乏で買わないで」
広場が静まる。
イオは、代わりにきれいな言葉を足さなかった。
「暫定三十日、現行基本給を維持。監視特別手当は、閲覧・非閲覧ではなく、夜勤、緊急開鍵、健康負荷、責任範囲で再計算する」
真琴が書く。
「財源不足なら」
「不足額、削減提案者、削る対象を公開。自動減給なし」
「三十日後は」
「再審査」
「保証じゃない」
ユウ。
「はい」
「賛成じゃない」
「保留で記録します」
「でも、試験勤務は続ける」
「それも」
保留と勤務継続を、矛盾として消さない。
午後八時三分。
六項目の結果が出た。
節点処遇。
成立。
閲覧者記録。
成立。
死角路。
成立。ただし三十日間の仮設占用。
見ない当番。
成立。ただし緊急開鍵の単独判断へ異議二十一件。
生活分離。
成立。ただし財源欄は未確定。
三十日後の再審査。
成立。
「成立して、未確定」
迅。
「両立します」
真琴。
「条例、完成?」
タマキ。
「暫定版です」
「完成って言わない?」
「言いません」
「珍しい」
「学習しました」
「誰から」
「不本意ながら、全員から」
署名は一枚へ集めない。
真琴は法務担当として全文へ署名。
梓は警備・緊急例外の範囲へ。
轟は設備安全と撤去順へ。
イオは職能転換案の提出者として、賃金確定欄には署名しない。
ユウは見ない当番の試験継続へ署名し、同額賃金未確定へ異議。
七瀬は空白映像と撮影停止記録の公開方法へ。
綺理は保管箱の鍵分散へ署名するが、監視映像の所有者にはならない。
迅は署名しない。
「本当に、何も?」
タマキ。
「留め具、直した」
「責任は」
「札箱」
「条例には」
「読んだ」
「感想」
「長い」
「それだけ?」
「逃げ道がある」
真琴が顔を上げる。
「批判ですか」
「褒めた」
「分かりにくい」
「顔へ責任を」
「負わせません」
七瀬は、条例採択の瞬間を撮影しなかった。
撮影停止の能力は、既に二度使い終えている。
今は物理的にレンズを下げ、本人の選択として撮らない。
代わりに、六つの結果札、署名欄、異議欄、未確定の財源欄を固定台で一枚ずつ記録する。
人々の歓声は、なかった。
反対者は残っている。
保留者も帰らない。
賛成者も、勝った顔をしない。
条例ができたから安全になるのではない。
明日から、誰かがレンズを外し、誰かが閲覧開始を記録し、誰かが見ないまま箱を点検し、誰かが異議を出し直す。
紙は、仕事を代わってくれない。
ただ、仕事から逃げた人の名前を消しにくくする。
午後八時十五分。
最初の撤去が始まった。
共同洗濯場裏口。
轟は脚立を使わない。
低い作業台へ乗り、右手でレンズ駆動部を外す。
左肩は上げ続けない。
ネジ一本。
配線二本。
共用されていた煙・衝撃・非常紐の線を分ける。
「監視だけ切って、警報残す」
スエが見上げる。
「残す」
「間違えたら」
「試す」
「私が?」
「誰が使う」
「私ら」
「なら」
スエは非常紐を引く。
赤灯。
手動ベル。
閲覧室の映像は点かない。
「救護へつながる?」
ユウが携帯端末で確認する。
「警報だけ受領。映像なし。現場へ折返し」
送話器が鳴る。
『非常紐。状況を』
「試験。けが人なし。浅海スエ」
『受領。映像を開きますか』
「開かない」
『受領』
スエは紐を離す。
「褒める?」
轟。
「まだ」
「いつ」
「三回使って、壊れなかったら」
「何日」
「私が決める」
「受領」
轟は外した黒い半球を、地面へ置く。
壊さない。
部品台帳へ番号を付ける。
「記念に飾る?」
タマキ。
「倉庫」
「また使う?」
「用途決まるまで、使わん」
「永久に?」
「永久って書かない」
イオが言う。
黒いレンズの電源が切れる。
赤灯だけが残る。
午後八時五十七分。
七瀬は死角路の入口に立っていた。
手回し撮影機は、胸より低い固定台。
レンズには、黄色い覆い。
撮影停止の能力は使わない。
既に撮影を終え、機材を物理的に覆っているだけ。
「歩く?」
迅。
「はい」
「撮らない?」
「はい」
「終わりで外す?」
「決めていません」
「カメラ、持つ?」
「固定台ごと押します」
「肩」
「腰の高さです」
「俺、持つ?」
「必要なら頼みます」
「今は」
「必要ありません」
「正直」
「状態です」
迅が笑う。
死角路へ入る。
一つ目の遮蔽。
外から頭は見える。
顔は見えない。
内側に、座る人。
野々村葉。
「通る?」
七瀬。
「少し待つ」
「撮っていません」
「知ってる」
「理由は訊きません」
「訊いてほしい時もある」
「今は」
「訊かないで」
「受領」
七瀬は横を通る。
二つ目。
ユウが、方向旗を点検している。
「仕事、始めた?」
「試験」
「給料」
「まだ八割」
「続ける?」
「今日まで」
「明日」
「明日決める」
「時刻」
「イオみたい」
「すみません」
「謝ると、もっと似る」
ユウは機械旗のねじを締める。
外のレンズが南へ向く。
旗も南へ。
死角路からは外れる。
三つ目。
共同浴場の湯気。
診療所の白い灯。
出口が二つ。
タマキが、どちらへ行くか訊かない。
七瀬は中央で止まる。
カメラの黄色い覆いへ手を置く。
外すかどうか。
迅は見ない。
先に出口へ立ち、靴底の紐を直している。
「待つ?」
「決まるまで」
「いつ」
「分からない」
「珍しい」
「言いましたね」
「流行ってる」
七瀬は覆いを外さない。
外したとも、外さなかったとも、その先は記録されない。
死角路の外では、夕食帰りの親子が通る。
子どもが遮蔽板の下から花を見る。
母親は非常紐の位置を確かめる。
老人が中央の椅子へ座る。
配達員が入口で、荷の目的を確認する。
誰も、七瀬の決断を待っていない。
生活は、記録者の結論より先へ進む。
共同洗濯場裏口。
外された黒い半球は、番号札を付けて箱へ収められた。
支柱には、煙、衝撃、非常紐の三灯だけが残る。
浅海スエが、その支柱へ物干し紐を結んでいた。
「設備を勝手に使わないでください」
ユウが言う。
「昔は私の洗濯場を勝手に見てた」
「昔の管理者と、今の試験担当は別です」
「支柱は同じ」
「荷重が」
「濡れた布四枚」
「風が吹けば増えます」
「じゃあ、あなたが結び直して」
ユウは反論しながら、結び目を点検した。
その足元を、赤い布球が転がっていく。
洗濯場の子どもが追う。球は遮蔽板の向こう、死角路へ入った。
「待ちなさい!」
母親の声。
「見えないから危ない!」
死角路の中から返事が来た。
「見えないけど、紐はある!」
非常紐が一度鳴る。事故ではない。子どもが場所を知らせるために引いた。
「鳴らすな!」
ユウ。
「鳴らしていいって書いてある!」
「緊急時!」
「球が緊急!」
子どもが赤い球を抱えて出口から現れた。顔を映すレンズはない。転んだ膝の泥だけが見える。
母親は叱りながら膝を拭く。スエは笑い、ユウは非常紐の説明札へ《遊びでは引かない》と書き足そうとして手を止めた。
「書く前に、読める字で聞く」
タマキが横から言う。
「あなた、何歳」
「七つ」
「《緊急》分かる?」
「すごく急ぐ」
「球は」
「すごく急いだ」
ユウが額を押さえた。
「説明から作り直します」
物干し紐が風を受け、旧レンズ台を軸に低く鳴った。布が一枚、ユウの顔へ張りつく。
「だから荷重が!」
「支柱は立ってる」
「私が見ます!」
「見ない路なのに?」
洗濯場に笑い声と口論が重なった。
死角路は、最初の夜から静かではなかった。