第387話 第十二章「死角を残す条例」前編
九月二十五日 午後二時五十八分
条例案には、目が九十六個あった。
東部時計広場の床へ、節点ごとの札が並べられている。
白い札。
撤去案。
黄色い札。
限定閲覧案。
青い札。
継続運用案。
色だけでは分からない人のため、縁の形も違う。
白は切れ目。
黄は三角。
青は丸。
水科イオは、三つの色を左右違う靴で踏まないよう歩いた。
「踏んでも、票は変わらない」
伏見轟が言う。
「札が汚れる」
「床に置いた」
「あなたが」
「俺」
「なら、踏んで」
「嫌だ」
「感情?」
「状態」
「その使い方、違う」
「流行ってる」
広場には、住民、監視員、商店主、警備、記録担当、保守員が集まっている。
全員が九十六の映像を見て決めるわけではない。
映像内容を見ず、位置と用途だけで判断する人。
自分が利用する一台だけを確認する人。
勤務記録を読む人。
見られた被害を申し立てる人。
監視に助けられた事実を話す人。
見ないことを選んだまま、決定へ参加する人もいる。
午後三時。
イオが真鍮装具へ触れる。
「予定時刻。暫定条例案を出す」
坂下ユウが言う。
「通った?」
「出す時刻だけ約束した」
「ずるい」
「期限は、守れる大きさに切った」
「中身は」
「大きすぎる」
「認めるんだ」
「十二分遅れてない。今はそれだけ褒めて」
「褒めない」
「状態?」
「感想」
ユウは黄の札を一枚持つ。
節点十九。
硝子店と住宅窓が同じ画角へ入るカメラ。
「これ、夜だけ」
「誰が決める」
イオ。
「店員と、窓の住民」
「意見が割れたら」
「店側へ物理遮蔽。住宅窓を画角から外す。閉店前後一時間」
「点検」
「私」
「見る?」
「方向旗と止め具だけ。映像は事件時に別の人」
「給料」
「今の監視手当と同額を要求」
「決まった?」
「決まってない」
「断る?」
「下がるなら」
「生活」
「まだ分からない」
イオは、その答えを前向きに言い換えない。
「条例へ、賃金差で選択を強制しない条項を入れる」
「金がなければ」
「条項だけでは足りない」
「じゃあ、書く意味」
「足りなかった時、誰が不足を決めたか戻れる」
「また戻る話」
「前へだけ進む人、信用しない」
イオは、止まった時計を一つ広場の机へ置いた。
自分の能力を失った時刻ではない。
監視員が最初に画面を伏せた、午前八時三十二分四秒。
動かない秒針。
終わった時刻を、次の仕事の始まりへ使う。
午後三時十二分。
九十六節点の確認が始まる。
一台目。
東環橋中央。
交通事故、洪水水位、夜間転落を確認。
継続運用。
条件。
閲覧者の氏名。公衆表示では本人の選択により勤務識別を使えるが、二鍵監査から氏名を照合できること。
閲覧理由。
開始と終了。
保存期限。
目的外検索不可。
二台目。
共同洗濯場裏口。
非常紐、煙、衝撃のセンサーは残す。
常時映像は撤去。
撤去。
「暴力事件があったら」
監視支持者。
「非常紐と、入口の人感灯」
轟。
「犯人の顔は」
「残らん時ある」
「それでいいのか」
「よくない」
「なら残せ!」
「利用者が、着替え、洗濯、家族連絡へ使う」
スエ。
「顔を守る方が大事か、犯人を捕まえる方が大事か!」
「同じ時に選ばせるな」
「事件は同じ時に来る!」
「だから、紐、灯、出口を増やす」
「顔がなきゃ」
野々村葉が言う。
「私、強盗の顔、覚えてない」
広場が静かになる。
「カメラで捕まった。助かった。今も、店の前は残したい。でも洗濯場は嫌」
「矛盾してる」
「そう」
「どっちなんだ」
「場所で違う」
二台目は、撤去。
三台目。
診療所入口。
搬送確認に必要。
ただし患者の顔、呼称、薬歴を一般監視へ連結しない。
限定閲覧。
四台目。
東部第五学舎前。
登下校時間のみ。
本人指定の帰路確認。
授業中の校庭常時撮影は停止。
限定閲覧。
五台目。
公衆配給所。
盗難防止の実績あり。
配給拒否者、受領量、家族構成の追跡へ使われた記録あり。
「撤去」
真琴。
「物資の盗難が戻る」
配給担当。
「荷口だけ残す」
轟。
「人の列は外す」
「荷物と人が重なる」
「床へ重量計。封印番号。出庫時刻」
「それで犯人は」
「荷の差は分かる。誰が取ったかは分からん」
「人を疑わない仕組みか」
「疑う前に、数える仕組み」
「盗られた後だ」
「今も、盗る前の顔は分からん」
五台目。
人を撮るカメラは撤去。
荷口の限定カメラは、新しい節点として数えない。用途を機械的に固定し、既存一台の向きを変更する。
限定閲覧。
一台ずつ。
同じ議論は繰り返さない。
似た場所でも、利用者が違う。
時間が違う。
逃げ道が違う。
過去の被害が違う。
午後四時四十七分。
二十七台目で、会議が止まった。
旧広告塔西面。
犯罪抑止実績、七件。
違法な集会参加者抽出、十一件。
薄墨が閲覧順位を変更した回数、六件。
監視員が変更を拒否した回数、三件。
「撤去すれば、塔の死角が増える」
警備員。
「塔は、もう監視運用しない」
真琴。
「保管庫は残る」
「保管庫の警備は必要」
「外側を撮る」
「中へ来る人の顔が残る」
綺理。
「証拠を預ける人も」
「顔を隠せば、侵入者も隠れる」
「入口を二つ」
轟。
「一つは顔確認。本人が選ぶ。もう一つは二人同行と荷物封印だけ」
「匿名で爆発物を持ち込める」
「荷物は見る。顔と同じじゃない」
「中身を見るのか」
タマキ。
「目的を確認」
「中身不明は」
「受け取らない」
「匿名の証拠は」
綺理。
「外で封印。二人が重さ、形、危険反応だけ確認」
「二人が共犯なら」
「三人」
「増やせば正しい?」
「正しくない。壊しにくくなる」
轟は、柱の説明をするように言った。
節点二十七。
常時外周監視は撤去。
入口の荷物安全確認だけ限定。
白と黄、二枚に分けず、一台の機能を分離する。
「集計、どうする」
イオ。
「主たる映像機能で数える」
真琴。
「撤去」
「限定も残る」
「新規の限定機能として別番号を付けると、総数が増えます」
「増えた方が正確」
「九十六の処遇を固定する必要があります」
「数字のために、機能を一つにする?」
「……しません」
真琴は眼鏡の左つるを上げる。
「撤去十八、限定三十一、継続四十七という最終数は、機体単位です。二十七番機は本体を残し、常時機能を停止するため、限定へ分類します。撤去部材はレンズ駆動部。筐体と荷物センサーは残る」
「最初から、そう言え」
轟。
「今、整理したのです」
「法も現場で作る?」
「不本意ですが」
「建物も」
「一緒にしないでください」
「似た仕事」
「大変不本意です」
午後六時三分。
夕食が配られた。
会議は終わっていない。
小麦は来ていない。
別の共同厨房が、冷めても食べられる豆と根菜の握り飯を作った。
調理者名。
食材の出所。
代金。
残数。
休憩交代。
小麦が作った鍋帳の書式だけが、厨房を越えて残っている。
イオは握り飯を半分食べ、脈を測る。
「九十二」
ユウ。
「見た?」
「首」
「私の脈を監視しないで」
「顔に出る」
「顔へ責任を」
「今日はある?」
「ない」
「便利」
「誰に」
「私」
ユウは笑う。
「仕事、どうなると思う」
「選択肢は三つ」
イオは紙を出す。
一、映像閲覧を継続する。
目的限定、勤務時間短縮、拒否権、個人名記録。
二、保守・方向表示・センサー点検へ移る。
映像内容は原則見ない。
三、案内・見ない監査・死角路運用へ移る。
本人の移動を補助し、保存状態を確認する。
「四、辞める」
ユウ。
「入れる」
「辞めた後の住居は」
「現行では、宿舎退去」
「選択じゃない」
「そう」
「条例で止める?」
「三十日だけ」
「三十一日目」
「決まってない」
「明日班へ」
「全員は入れない」
「知ってる」
「怒る?」
「もう怒った」
「いつ」
「二十日」
ユウが止まる。
「時刻」
「忘れた」
「記録ある」
「見ない」
「見ない当番?」
「今は、見ない私」
イオは紙へ四つ目を足す。
《辞職。三十日間の宿舎猶予と、再訓練窓口。以後未定》
「未定って書く?」
「書く」
「不安になる」
「消しても、不安は消えない」
「前向きに言わないんだ」
「嫌い」
「知ってる」
五十台目は、祈りの部屋の前だった。
特定の宗教施設ではない。
亡くした人の名を言う者、言わない者、何も信じない者が、一人で座れる小部屋。
入口のカメラは、夜間の放火未遂を一度記録している。
同じカメラは、誰が何曜日に祈りへ来たかを集会名簿へ使われていた。
「残す」
火事を経験した老人。
「外す」
家族へ信仰を知られたくない若者。
「入口の火と煙だけ」
轟。
「顔がなければ、放火犯を」
「火を付ける前の顔は、普通の顔だ」
迅。
「付けた後なら」
「煙、熱、出口。警備は現場へ」
「捕まらない」
「捕まえるために、祈る人を毎日名簿へする?」
若者。
五十台目。
レンズ撤去。
煙、熱、衝撃だけ継続。
撤去へ一。
六十三台目は、学校裏の門。
子どもたちが、目かくし鬼をしていた場所。
教員は登下校時間の監視を求める。
生徒側は、遅刻記録と植込みでの会話を残したくない。
「門だけ映す」
「植込みも門の横です」
「板を置く」
「死角でいじめが」
「板の内側へ呼出」
「押せない子は」
「足板」
「声を出せない時」
「三色灯」
「色が分からない子」
「形」
会話が、轟とイオの設備問答へ似ていく。
生徒の一人が手を上げた。
「カメラがどっち向いてるか、僕らにも分かるようにして」
「方向旗」
ユウ。
「触ったら怒られる?」
「点検当番に入る?」
「子どもへ仕事を」
教員。
「仕事じゃなく、授業にする?」
イオ。
「監視教育ですか」
「機械の向き、保存時間、誰が見たかを学ぶ。見られることに慣れる授業じゃない」
生徒が言う。
「壊し方も?」
「止め方」
轟。
「違う?」
「戻せる」
六十三台目。
登下校時間だけ限定。
授業中は門方向固定、植込みを物理遮蔽。
方向旗と停止札を、生徒・教員・保守員の三者で点検。
限定へ一。
七十一台目。
東部水位計。
人の顔はほとんど映らない。
川面、橋脚、目盛り、浮遊物。
「継続」
全員が早かった。
真琴が眼鏡を上げる。
「閲覧者名と理由は必要です」
「水位を見るのに?」
「水位映像から、橋上の通行者を追った記録があります」
「端へ人、入る」
轟。
「画角を下げる」
「洪水時、橋上避難者が見えない」
「非常時だけ上げる」
「誰が」
「水門担当。時刻と理由」
継続運用。
機械だけを見るカメラにも、人を見た瞬間の責任を付ける。
八十四台目。
共同宿舎の廊下。
盗難と夜間暴力が減った実績。
同時に、誰がどの部屋へ泊まったか、交際、家族、病歴の推測へ使われた記録。
「外せば、また殴られる」
住人の男。
「残せば、逃げた先が分かる」
別居中の女。
二人の答えは、どちらも経験から出ている。
「廊下全部ではなく、非常階段と入口」
梓。
「部屋前は」
「照明と非常紐」
「殴られた人が押せない時」
「隣の人が聞く」
「隣が加害者なら」
「出口二つ」
「建物を直す?」
轟は宿舎図面を見る。
廊下の端が、行き止まり。
「壁、抜ける」
「隣は倉庫」
「所有者」
「宿舎管理」
「許可」
「今はない」
「カメラの処遇は」
イオ。
「出口ができるまで限定で残す」
女。
「期限」
「二十一日」
「工事が遅れたら」
「自動延長なし。もう一度決める」
限定閲覧。
廊下中央の二台は撤去予定。
入口一台は、出口工事まで二十一日限定。
建築が遅れれば、監視が自動で永続する形にしない。
九十六台目。
東部時計広場。
今、会議を見下ろしている八台のうち、最後の一台。
公開討議、災害集合、迷子捜索には役立つ。
参加者の反応分析、拍手、沈黙、移動方向を政治的同意へ変えた記録もある。
「残す」
広場で声明を出した監視支持者。
「限定」
七瀬。
「撤去」
監視同意票を破った住民。
三つの札が並ぶ。
「多数決?」
迅。
「使用目的が違います」
真琴。
「災害時、全台」
梓。
「平時は」
「二台。地面と出口を広く。顔の自動追尾なし」
「公開討議」
「主催者が、撮影範囲を事前に選ぶ。参加者へ、映像あり・なしの区画を分ける」
「反応分析」
「禁止」
「迷子」
「本人の特徴と捜索時間だけ。後から参加者全員を連結しない」
「誰が解除」
「災害終了を、現場・住民側・監査側の三者で記録」
九十六台目。
限定閲覧。
最後の札が、黄色い列へ置かれた。
分類は終わっていない。
集計が、まだ残る。
同じ機体に、撤去する機能と残す機能がある。
時間限定と本人指定が重なる。
数字へ一度入れるため、主目的を決めなければならない。
「数えると、削る」
七瀬。
「数えなければ、決定できません」
真琴。
「削った欄を、別に残す」
「はい」
九十六枚の主札の横へ、副目的と例外の小札が積まれた。
主札だけ見れば、街は三色になる。
小札を読めば、一台ごとに違う生活がある。
午後七時四十二分。
九十六台の分類が終わった。
撤去、十八。
限定閲覧、三十一。
継続運用、四十七。
合計、九十六。
撤去十八のうち、完全撤去十一。
レンズ・追尾機構だけ撤去七。
限定三十一。
時間限定、十二。
本人指定、六。
事件・非常時限定、八。
医療・搬送限定、五。
継続四十七。
交通・水位・設備、二十六。
公的広場・防犯、十三。
本人が継続を選んだ帰路、八。
分類名は重なり得る。
だが、集計では主目的を一つにした。
副目的と例外は別欄。
継続運用の全台へ、四項目が必須になる。
閲覧者名。公衆表示は本人の選択で勤務識別へ置き換えられるが、二鍵監査では氏名へ戻せる。
閲覧理由。
開始・終了時刻。
保存期限。
さらに、閲覧拒否を配給、住居、雇用の不利益へ直結させない。
監視同意を撤回しても、既存映像が自動削除されるわけではない。
削除、保全、事件利用は別に選ぶ。
死角路。
入口と出口。
緊急呼出。
照明。
利用者が選ぶ案内。
監視カメラは置かない。
見ない当番。
内容でなく保存状態、削除時刻、開鍵記録を監査する。
緊急例外は、一人でも開けられるが、理由と範囲を後から残す。
「条例名」
真琴。
「長いのは嫌」
迅。
「あなたに決定権はありません」
「短い方、読む」
「読まない人へ合わせて法文を削ると、例外が消えます」
「本文、短い。例外、大きい」
タマキ。
「但書を本文より大きく?」
「真琴の夢」
「なぜ知っているのです」
「前に聞いた」
「いつです」
「南環市場。料金表の前」
タマキは目を逸らした。
真琴は疑ったが、追わない。
暫定名称。
《東部監視節点・閲覧責任・死角確保に関する九月二十五日暫定条例》
「長い」
迅。
「予想どおりです」
「街の人、何て呼ぶ」
「死角条例」
ユウ。
「意味が違う」
真琴。
「呼ぶ人の仕事」
イオ。
「公式名称は長いまま?」
「はい」
「面倒」
「本日、何人目か数えるのをやめました」
真琴は言った。
全員が真琴を見る。
「珍しい」
迅。
「流行らせないでください」
条例は、全員一致では成立しなかった。
賛成。
反対。
保留。
自分が使う節点だけ賛成。
雇用条項だけ反対。
死角路だけ賛成。
薄墨の監査表が不十分として保留。