第386話 第十一章「操作者を映す」後編
「まだ分からない」
「怖い?」
「怖い」
「見続けるより」
「比べられない」
「状態」
「それ、嫌い」
「知ってる」
薄墨の図は、だんだん埋まる。
技術協力。
同時に、彼がどの節点を違法に使ったかの自白でもある。
七瀬は図全体を撮らない。
撮影停止中だからではない。
住居窓、病院入口、匿名申告の位置が含まれる。
代わりに、図の番号と保管先、閲覧者を手書きする。
薄墨はそれを見て、筆談板へ書く。
《信用しないのか》
「します」
《撮らないのに》
「撮ることと、信用を同じにしません」
《いつから》
「遅くから」
《遅い》
「あなたに言われたくありません」
午前七時四十八分。
操作者側を映す試験台の前へ、二人が並んだ。
一人は坂下ユウ。
もう一人は、広場で筆記声明を出した女だった。
女は顔を出さない。
薄い衝立の向こうから、手だけを机へ置く。
「私の勤務先を見たのは、三十八番ですか」
質問は、紙へ書かれている。
ユウはすぐ答えない。
勤務ログを内容ではなく、節点番号と閲覧者番号で照合する。
「違います」
「本当に?」
「三十八番席に表示はされました。でも、検索命令を拒否した。閲覧開始は零秒」
「画面には出た」
「出た」
「見てない?」
「自動表示の一枚目は見えた。あなたの顔かは分からなかった。勤務先の検索はしていない」
「一枚見たなら、見た人です」
「はい」
ユウは逃げない。
「でも、追った人ではありません」
「誰が追った」
ログには、中央運用の番号。
個人名はない。
「ここが消されました」
七瀬が説明する。
「削除前の写しでは、中央運用による優先順位変更と、別席への再配信までは残っています。再配信先の一つは十二番。もう一つは番号欠落」
「十二番は」
伏木レンが前へ出る。
「俺です。表示を開いた。夫からの安否確認だと分類されていた」
「勤務先まで見た?」
「見た」
「どうして」
「安否確認なら必要だと思った」
「私が隠れているとは思わなかった?」
「表示に、《家族からの捜索》とあった」
「夫が家族なら、私は隠れられない?」
伏木は黙る。
言い訳を探す時間も、記録される。
「今なら」
女が書く。
「今なら、開かない」
「どうして」
「本人の拒否欄を先に見る」
「その欄は、昨日できた」
「そうです」
「前の私には、間に合わない」
「はい」
「謝る?」
「謝ります」
「許すかは、私が決める」
「はい」
「顔を出して」
伏木の肩が動く。
ユウが彼を見る。
七瀬は口を挟まない。
伏木は、自分の公開札を黄から緑へ変えようとして、止めた。
「顔を出す理由を、確認していいですか」
女の鉛筆が強く紙を擦る。
《覚えるため》
「報復?」
《分からない》
「なら、今は出しません」
伏木は言った。
「逃げるの?」
「勤務番号と氏名、判断内容は出す。顔は、監査とあなたへだけ。公衆には出さない」
《私には見せる?》
「直接会うか、封印映像か、あなたが選んでください」
女は長く迷った。
《封印映像。今は開けない》
「受領」
顔を求めた人が、顔を見ない選択をする。
拒否ではない。
保留。
伏木は鏡を自分の席へ置いた。
鏡面へ覆いを掛ける。
《本人確認済み》
《公衆非公開》
《被閲覧者に開鍵権》
「これで責任を取った?」
女。
「取っていません」
「薄墨みたいな言い方」
「嫌です」
「私も」
衝立の向こうで、初めて小さな笑いがした。
和解ではない。
笑いは、責任を軽くしない。
それでも、見た者と見られた者が同じ机へ座り、どこまで互いを見るかを一度だけ選び直した。
午前八時五分。
空白映像の公開準備が整った。
七瀬がカメラを伏せた二つの時間。
九月二十一日、午前十時〇分〇秒から午後零時三十六分まで。
九月二十五日、午前五時十四分十一秒から現在まで。
黒い映像の下に、停止理由と代替記録の一覧。
音声のうち、本人が公開を拒否した部分は無音。
無音にした時刻と担当者を表示。
投石者の顔なし。
監視員の顔なし。
娘の被害申告をした母親の声は、本人確認が済むまで非公開。
「空白を出せば、何か隠したと言われます」
真琴。
「隠しました」
七瀬。
「言い切るんですか」
「顔、私生活、医療、本人がまだ決めていないこと」
「違法な削除と同じだと」
「言われます」
「違いは」
「誰が、何を、何のために隠し、いつ見直すかを出します」
「見直しても公開しない場合」
「公開しない選択を更新します」
「永遠に?」
「死後は別の問題です」
「逃げますね」
「今、決めないだけです」
「その言い方、綺理に似ました」
「嫌ですか」
「似た者同士の喧嘩が増えるので」
綺理がガラス棒を鳴らす。
「聞こえてる」
「失礼しました」
「謝罪、短い」
「三案のうち最短です」
「残りは」
「捨てました」
「記録者の前で?」
真琴は眼鏡を押し上げた。
「今のは、失言です」
「記録しました」
七瀬。
「撮っていないでしょう」
「紙へ」
「消してください」
「本人の依頼。受領」
「本当に消すんですか」
「迷っています」
「では、保留」
「似ましたね」
「不本意です」
午前八時三十六分。
薄墨がいなくなった。
拘束されていない。
だから、逃亡という言葉を使う前に、移動の権限を確認する必要がある。
医療者は、安静と再診を指示した。
警備は、任意協力中として入口通過の申告を求めた。
審理側は、証拠保全妨害と違法閲覧について出頭要請を準備していた。
薄墨は、どれにも署名していない。
「いつ」
七瀬。
梓が二つの時計を見る。
「左では八時二十八分十二秒。右では八時二十六分五十五秒。入口圧力板、一人分」
「誰が見た」
「見ていない」
ユウ。
「出口カメラは」
「常時閲覧停止。非常信号なし」
「能力」
迅。
「昨日、三回使った」
七瀬。
「今は」
「使った形跡なし」
「普通に出た」
タマキ。
「誰も止めなかった?」
「止める命令がなかった」
梓。
「証拠保全妨害は」
真琴。
「現行犯時間を過ぎています。任意協力から離れたこと自体は逃走に当たるか審理が必要です」
「面倒」
迅。
「本日――」
「数えるな」
全員が言った。
薄墨の席に、三つ残っている。
一、九十六節点の技術図。
二、違法優先順位変更の一覧。
三、折り畳んだ遮光布。
遮光布の内側に、鉛筆書き。
《協力した範囲》
《逃げた範囲》
《同じにするな》
その下に、再診予定時刻と医療所番号。
行くと約束した署名はない。
「追う?」
迅が訊く。
七瀬は、入口へ向く。
撮影機は伏せたまま。
左肩は、走って機材を抱える状態ではない。
しかし、追わない理由を身体だけへ置かない。
「今は追いません」
「理由」
「勤務者の公開範囲と、ログの保全を完了させます」
「逃げる」
「はい」
「また」
「はい」
「腹立つ?」
「はい」
「珍しい」
「いつもです」
「顔、水平」
「顔へ責任を」
「今日はある」
七瀬は遮光布を透明袋へ入れた。
薄墨の私物。
証拠でもある。
所有権と保全理由を二欄に分ける。
「免責は」
真琴。
「しません」
「技術協力の評価は」
「残します」
「逃亡は」
「残します」
「どちらを見出しへ」
「どちらも」
「長い見出しになります」
「短くしないでください」
「読まれません」
「読まれないことも記録します」
真琴はため息をついた。
「記録は便利ですね」
「誰に」
「あなたに」
「否定しません」
午前九時。
空白映像が公開された。
黒い画面。
停止時刻。
停止理由。
代替した記録。
公開しなかった範囲。
異議申立て先。
映像がないことを、映像の欠陥として隠さない。
同時に、監視員の勤務記録が公開される。
顔を選んだ者だけ、顔。
氏名を選んだ者だけ、氏名。
誰も選ばなくても、勤務番号、閲覧理由、時刻、判断は残る。
薄墨の監査表。
《犯罪抑止実績》
《違法監視》
二つの欄が、同じ大きさで並ぶ。
どちらにも、合計点はない。
広場の人々は、それを見上げる。
怒る者。
安心する者。
分からないと言う者。
読みきれず帰る者。
七瀬は、その反応を撮らない。
黒い画面の下へ、手書きで一行を追加する。
《この空白を見た人の顔は、記録していません》
その一行を書いた時、左肩へ鈍い痛みが走った。
腕を長く上げられない。
七瀬は筆をタマキへ渡す。
「続き」
「何を書く」
「時刻。午前九時二分。記入者交代」
「理由」
「左肩の長時間挙上が困難」
「撮れなくなる?」
「なりません」
「前みたいには」
「撮りません」
「撮れない?」
「長時間、高い位置で一人では撮れません」
「違う?」
「違います」
タマキは時刻を書く。
七瀬は、自分の手から筆が離れるところを見た。
記録は途切れない。
記録者は、一人であり続けない。
広場の十二台のレンズは、運用室を向いている。
そのうち一台の前で、勤務者が自分から鏡を置いた。
顔が映る。
別の席は、勤務番号だけ。
別の席は、空席。
見える量は違う。
責任がないことには、しなかった。