第385話 第十一章「操作者を映す」前編

九月二十五日 午前四時十八分

 朝より先に、画面が止まった。

 東部第三閲覧室。

 四十八席。

 現在映像と十二秒前の映像。

 昨夜まで絶えず動いていた百九十二の小さな街が、一枚ずつ灰色へ変わる。

 故障ではない。

 坂下ユウが三十八番席の覆いを下ろす。

 伏木レンが十二番席を。

 続いて、四番、七番、十一番。

 非常信号、設備異常、本人指定の帰路確認は残す。

 それ以外の閲覧を止める。

 部分ストライキに参加しなかった監視員も、今朝は画面を伏せた。

 理由は同じではない。

 薄墨の違法運用を拒否する者。

 削除で自分の勤務記録まで消されかけたことへ怒る者。

 市民の報復を恐れ、顔を出す前に止めたい者。

 単に十二時間眠っていない者。

 七瀬は、その違いを一つの正義へまとめなかった。

「午前四時十八分二十秒。第三閲覧室、常時画面四十八中、閲覧停止三十六。限定継続十二」

 左肩を上げず、腰高の固定台へ撮影機を置く。

 撮るのは監視員の顔ではない。

 机の番号。

 覆いが下りる時刻。

 本人が選んだ公開札。

 緑。

 氏名と顔を公開。

 黄。

 勤務番号と判断内容だけ。

 赤。

 監査者だけが本人確認。公衆へ非公開。

「色だけだと、暗い場所で分かりません」

 魚住ミヨの指摘を受け、札の縁も変えてある。

 緑は丸。

 黄は三角。

 赤は波形。

 ユウの札は黄だった。

「顔は出さない?」

 七瀬が確認する。

「今は」

「氏名は」

「坂下ユウ。出していい」

「住居、家族、過去の能力は」

「出さない」

「勤務判断は」

「全部」

《全部》の範囲」

「この監視実証区で、私が見た時間、拒否した時間、順位を変えた申請、緊急閲覧。休憩室で端末を見た時間も」

「私的な会話は」

「出さない」

「受領しました」

 ユウは、画面へ灰色の覆いを掛ける。

「撮られる方が、質問多いね」

「撮る前に訊いています」

「前は?」

「足りませんでした」

「今、足りる?」

「まだ」

「便利な答え」

「誰に」

「七瀬に」

「否定しません」

 ユウは青い爪で、自分の勤務表の最後へ線を引いた。

《午前四時十八分二十七秒 常時閲覧を停止》

「辞めた?」

 タマキが訊く。

「仕事を?」

「見る仕事」

「一部」

「じゃあ、まだ監視員?」

「分からない」

「自分の仕事なのに」

「名前が先に決まって、仕事が後から変わった」

「配達員は、運ばなかったら配達員じゃない」

「返すのも?」

「配達」

「断るのも?」

「仕事」

「じゃあ、見るのを断る監視員でもいい?」

 タマキは考えた。

「名前が変」

「そこから?」

「名前、後で決める」

「いつ」

「今日じゃない」

「期限なし?」

「イオみたいに言わないで」

 午前四時三十七分。

 監視端末の向きを、運用室へ返す作業が始まった。

 返す、と言っても、復讐ではない。

 公道を見下ろしていたレンズへ、機械旗を付ける。

 市民から現在方向を確認できるようにする。

 うち十二台だけは、運用室外窓を映す試験へ切り替える。

 映すのは、室内の顔ではない。

 勤務番号板。

 閲覧理由板。

 画面を伏せた時刻。

 緊急閲覧の開始と終了。

 顔を出すことを選んだ監視員だけ、本人の席へ小さな鏡を置く。

「鏡は嫌」

 薄墨が筆談板へ書いた。

 左耳には清潔な覆い。

 耳鼻科医は、左鼓膜の穿孔と両耳の急性耳鳴りを記録した。右耳の低音域は一部残っているが、声量を自分で測れない。

 会話は文字と読唇が中心になった。

 彼は閲覧室の端へ座っている。

 拘束具はない。

 入口には梓と警備員。

 彼が出ようとすれば止めるかどうか、まだ審理されていない。

 医療者は搬送を勧めた。

 薄墨は、耳鼻科処置を受けた後、短時間の技術協力だけを選んだ。

 七瀬たちは、その選択を免責とは扱わない。

「鏡が嫌な理由は」

 七瀬は紙へ書く。

《顔が増える》

 薄墨。

「監視員本人が鏡を選ぶ場合は」

《本人の選択なら止めない》

「あなたの顔は」

《出さない》

「氏名」

《薄墨影治。事件記録と技術監査だけ》

「母親、元恋人、住居、医療所」

 薄墨の鉛筆が止まる。

《出すな》

「受領します」

《聞かないのか》

「何を」

《なぜ》

「今の記録に必要ありません」

《前なら聞いた》

「はい」

《成長した顔をするな》

「していません」

 薄墨は七瀬の口元を見た。

《している》

「顔へ責任を負わせないで」

《迅の悪い言葉》

「街へ広がっています」

《編集しやすい》

「使用料を請求します」

 薄墨が、声を出さず笑った。

 耳鳴りの中でも、笑いは早い。

 午前五時十二分。

 十二台目のレンズが運用室外窓へ向いた時、広場に集まった人々が動いた。

 窓の外へ表示された勤務番号。

 閲覧時間。

 拒否記録。

 それを見た男が叫ぶ。

「三十八番は誰だ!」

 ユウの勤務番号だった。

「洗濯場を見てた奴!」

「目的外閲覧は拒否しています」

 七瀬が広場の送話器へ答える。

「最初は見たんだろ!」

「勤務開始時に画面へ表示されました。七日履歴の検索を拒否」

「顔を出せ!」

「本人は出さないと選びました」

「責任から逃げるのか!」

「氏名と判断は公開しています」

「顔がなきゃ分からない!」

「何をするために顔が必要ですか」

「覚えるためだ!」

「報復のためでは」

「違う!」

「では、顔がなくても判断記録を読めます」

「おまえらは、都合のいい時だけ隠す!」

 群衆の一部が、閲覧室入口へ走る。

 梓が両手を上げる。

「停止。入口から八メートル。入室権限なし。異議は受領する」

「どけ!」

「停止理由は三つ。勤務者への身体危険。未公開個人情報。保存機器の保全」

「おまえも監視側か!」

「本日は保全警備」

「便利に立場を変えるな!」

「変更時刻を記録しています」

 男が梓へ肩をぶつける。

 梓は左膝を深く曲げず、半歩外へ。

 相手の勢いを壁側へ流す。

 拘束しない。

「身体接触、午前五時十三分二秒」

「いちいち言うな!」

「後から、私だけが殴られたと言わないためです」

 別の女が入口の窓へ石を投げる。

 迅が前腕で受ける。

「また?」

 タマキ。

「石、人気」

「料金取れば」

「返却料」

 迅は石を地面へ置く。

 投げた女が次を探す。

「中で、私の娘を見た奴がいる!」

「勤務番号は」

 七瀬。

「知らない!」

「いつ、どこ」

「水浴び場! 八月二十三日!」

「申告を受領します。映像の有無と閲覧者を、本人側の鍵で確認します」

「今、顔を見せろ!」

「娘さんは、顔の公開を望んでいますか」

「被害者だぞ!」

「だから、本人へ確認します」

「親の私じゃ足りないのか!」

「家族であることと、公開範囲を所有することは同じではありません」

「おまえは子どもがいないから言える!」

 七瀬の右手が撮影機の取っ手へ掛かる。

 撮れば、投石と突入を記録できる。

 同時に、母親の顔と、娘の被害申告が監視網へ追加される。

 固定台のレンズは、今、運用室入口へ向いている。

 左肩は長く上がらない。

 技術の問題ではない。

 選択の問題でもある。

「午前五時十四分十一秒」

 七瀬は言った。

「二度目の撮影停止を行います」

 クランクを止める。

《撮影しない保護》。理由は、監視被害を申告した当事者家族と、公開を選んでいない勤務者の顔を新たな素材にしないため。代替記録は、入口圧力板、梓の警備記録、投石物、勤務番号板、本人が選ぶ音声申告。再開条件は、現場の重大危険または個別同意」

 レンズへ蓋をする。

 画面が黒くなる。

 群衆から怒号。

「逃げた!」

「都合が悪くなった!」

「証拠を消すな!」

 七瀬は送話器だけを持つ。

「空白部分も公開します。停止時刻、理由、代替記録、再開条件を含めて」

「映像がなきゃ、警備が嘘をつける!」

 梓が答える。

「私が嘘をつく可能性はあります。入口圧力板、二時計、投石物、複数証言を分けて残します」

「全部仲間だろ!」

「投げた本人も記録者になれます」

「捕まえるくせに!」

「投石責任と、記録への異議を分けます」

 言葉だけでは、入口を守れない。

 三人が同時に押す。

 梓一人では止めない。

 凱が入口の左へ立つ。

 迅が右。

 王路を作らない。

 誰かの退路を一つへしない。

「入る者は、一人ずつ目的を言え」

 凱。

「命令するな!」

「では、質問だ。中へ何をしに行く」

「監視員の顔を見る!」

「顔を見た後、何をする」

「覚える!」

「何のため」

「二度とやらせないためだ!」

「仕事を止める手続きは外でできる。顔を覚える必要はない」

「おまえは王の顔で人を従わせた!」

「そうだ」

「なら分かるだろ!」

「顔が効きすぎることを知っている」

「偉そうに!」

「今も、そう聞こえる」

 凱は肩を下げる。

 見られると固まる姿勢を、自分で崩す。

「俺が入口を守る理由は、監視員が正しいからではない。今、あなたが顔を見て罰する権限を持っていないからだ。彼らの違法な閲覧は審理する」

「信用できるか!」

「信用を求めない。手順を読め」

「読む間に逃げる!」

「逃げた時刻も残す」

「時刻で人が捕まるか!」

 迅が言う。

「捕まえるのが、全部?」

「黙れ、危険人物!」

「顔、増えた」

「おまえのせいで!」

「違う。並べた奴」

「おまえが殴った映像だ!」

「殴った」

「認めるのか!」

「今、殴ってない」

「過去が消えるか!」

「消えない」

「じゃあ!」

「今、石を投げない理由にもならない」

 男の手から、二個目の石が落ちた。

 入口圧力板は、押す人の数だけを示す。

 顔は撮らない。

 五人。

 七人。

 四人。

 増減する。

 やがて、一人ずつ異議受付へ移る。

 全員ではない。

 叫び続ける者もいる。

 入室はさせない。

 追い返しもしない。

 午前六時七分。

 監視装置の向きを返した映像が、市内へ公開された。

 第一画面。

《節点一二》

《閲覧者:勤務番号・第三室一番》

《公開選択:黄》

《閲覧目的:夜間商店防犯》

《閲覧時間:午後九時~午前三時》

《目的外検索:二件、拒否一件、実行一件》

 第二画面。

《節点三八》

《閲覧者:坂下ユウ》

《公開選択:氏名・判断/顔非公開》

《閲覧停止:九月二十日午前八時三十二分四秒》

《緊急閲覧:共同洗濯場救護一件》

《目的外検索拒否:七件》

 第三。

 第四。

 勤務時間が、長い。

 十二時間。

 十四時間。

 休憩中の閲覧。

 交代者不在。

 市民は初めて、目の後ろに椅子があることを知る。

 目を動かしていたのが、眠らない制度ではなく、眠い人間だったことを知る。

「同情で、違法閲覧が消える」

 七瀬は言う。

 黒い配信画面の音声だけ。

「消えません。低賃金と長時間勤務も、違法な閲覧も、拒否した記録も、同じ一覧に置きます」

 薄墨は筆談板へ書く。

《犯罪件数も》

「はい」

 監査表へ、犯罪抑止の実績が加わる。

 夜間強盗の早期通報。

 迷子の現在位置確認。

 火災の発見。

 暴力事件の証拠保全。

 その横に、違法運用。

 配給拒否者の行動追跡。

 集会参加者の抽出。

 恋愛・医療・宗教の目的外閲覧。

 通報順位の変更。

 拒否申請の後回し。

 一つの数字で差し引かない。

「犯罪を減らした数が多ければ、違法が許される?」

 広場から声。

「許されません」

 七瀬。

「違法があれば、救ったことも嘘か?」

「嘘にはしません」

「じゃあ、薄墨は善人か悪人か!」

「その二択へ編集しません」

「逃げるな!」

「判断を渡しています」

「面倒を押しつけるな!」

「簡単にした人だけが責任者になるより、面倒を分けます」

 薄墨が書く。

《綺麗な言い方》

「あなたが言うと、正確です」

《状態か》

「皮肉です」

《珍しい》

「流行らせないで」

 薄墨は、左耳の覆いへ触れた。

 無意識に強く押し、医療者に止められる。

 七瀬は声量を上げない。

 筆談板へ切り替える。

《優先順位を変えた件数を、あなた自身の判断と命令受領に分けてください》

 薄墨は長く書かなかった。

《俺が決めた》

 三行。

《命令された》

 五行。

《命令を拡大した》

 二行。

 命令書の番号。

 口頭受領の時刻。

 自分が勝手に対象を増やした理由。

《成果を出したかった》

《犯罪を減らした数字が必要だった》

《七瀬の映像が広告へ使われ、制度が正しいと証明できると思った》

 七瀬は、その紙を読む。

「私の映像を使った理由は」

 声で訊かず、紙へ。

《信用されていた》

「私が?」

《映像が》

「本人ではなく」

《本人は扱いにくい》

「同意します」

《怒らないのか》

「状態です」

 薄墨はまた、声を出さず笑った。

《合法契約だった》

「はい」

《なら、俺だけの責任ではない》

「はい」

《誰》

「映像使用を許可した記録所。目的欄を広く書いた私。文脈を切った広告編集者。配信を承認した組合。閲覧した市民」

《市民まで》

「見ること自体ではありません。通報、再配布、抗議、何もしなかったこと。それぞれ範囲が違います」

《誰も逃げられない記録か》

「逃げられないことを目的にしません」

《では》

「戻れるようにします」

《戻れない者は》

 七瀬は答えを書くまで、長くかかった。

「戻れないことを残します」

《それだけ》

「それ以上を、映像だけで約束しません」

 薄墨の鉛筆が止まる。

《灯里なら、約束した》

「母は、約束して撮りました」

《破った》

「はい」

《おまえは》

「約束を小さくします」

《臆病だ》

「あなたほどではありません」

《勝った顔》

「顔へ責任を」

《ある》

「今日は、ありますか」

《ある》

 二人とも、迅の悪い言葉を使った。

 午前七時二十二分。

 薄墨が、監視網の技術図を描き始めた。

 九十六節点。

 公設五十九。

 商店共同二十一。

 住宅・施設私設十六。

 線の色。

 常時閲覧。

 事件時限定。

 本人指定。

 運用室から方向を隠したもの。

 保存先が複数あるもの。

 削除権限が一人へ集中したもの。

「十八台は、撤去できる」

 轟が図を読む。

「まだ数を決めないでください」

 真琴。

「構造で、不要」

「制度判断は別です」

「物理的に、同じ場所を三台で見てる」

「防犯利用者が異なります」

「一本へ統合できる」

「誰が所有します」

「共同」

「共同は、持ち主が増えると同時に消える言葉です」

 綺理。

 轟が頭を掻く。

「じゃあ、三台残す?」

「それも一案」

 イオ。

「仕事も三つ残る」

「見る仕事が」

「保守仕事へ変えられるか」

「先に設備だけ決めるな」

「先に雇用だけで設備残すな」

 轟とイオが同時に言い、互いを見る。

「また」

 タマキ。

「何が」

「似た喧嘩」

「似てない」

 二人が同時に否定する。

 薄墨は筆談板へ書く。

《十九番節点》

 地図の一点。

《方向表示機を付けると、隣の住宅窓が見える》

「今も見えてる」

 轟。

《市民は知らない》

「知れば、向きを変えられる」

《犯罪者も知る》

「住宅の人が決める」

《一人は残したい。一人は外したい》

「窓ごとに遮蔽」

《費用》

 轟が黙る。

 イオが言う。

「監視を残したい側だけに払わせる?」

「見られたくない側が遮蔽費を払うのは違う」

 真琴。

「公費」

「足りません」

「じゃあ、十九は限定」

 轟。

「夜間、商店側だけ」

「住宅窓を機械的に外す」

「方向止め」

「誰が点検」

「元監視員」

 イオ。

「見る代わりに、向きを見る」

「ユウ」

 ユウは三十八番席から近づく。

「やる?」

「それなら」

「給料」

「今の監視手当と同額」

「決まってない」

「要求する」

「通らなかったら」

「断る」

「生活は」