第398話 第五章「百舌の同意順」後編

 年少者。

 保護者。

 百舌。

 迅。

 水中では手を握れない。

 連結帯だけが二人の間へある。

 途中、年少者の身体が横へ流れる。

 百舌が肩へ触れようとし、止める。

 年少者が腰帯を選んでいたことを覚えている。

 腰帯へ手を掛ける。

 身体を戻す。

 保護者は、百舌の腕をつかむ。

 止めるのではない。

 礼でもない。

 自分もここにいるという確認。

 百舌は振りほどかない。

 三秒後、保護者が離す。

 中央索へ入る。

 受入れ信号。

 三回。

 間。

 一回長く。

 年少者が円札を胸へ押しつける。

 保護者は、同じ札へ触れない。

 自分の円札を持っている。

 二人で一つの選択ではない。

 最後の西希望者は、約束した七番目になった。

 待ち時間、九分十二秒。

 八分以内の説明を超えた。

 迅は謝る前に、数字を見せる。

 九。

 十二。

 相手は、屋根札で迅の胸を一度叩く。

「分かってる」

 迅が言う。

 相手はもう一度叩く。

「遅れた」

 三度目。

「怒ってる」

 相手は頷く。

 迅は言い訳をしない。

「西へ行く」

 相手は頷く。

「家族には会わない」

 頷く。

「共同宿舎」

 頷く。

「医療は」

 短く首を横。

 次に胸を指す。

 呼吸は安定。

 今は不要。

「悪化したら」

 東を指す。

 相手は考え、中央を指す。

 まず中央で再判断。

 迅は受領する。

 遅れた順番は、守った約束にならない。

 けれど、遅れを隠さず、その後の選択をもう一度返すことはできる。

 西希望者は自力で水へ入る。

 百舌が先導する。

 迅は最後尾。

 途中の分岐で、東索が最も太く見える。

 百舌は西へ曲がる。

 効率だけなら東。

 本人が選んだ西。

 百舌は最初に決めた東固定案より、今確認した三つの行先を優先した。

 迅はその背中を、善人の証明にはしない。

 ただ、次に百舌が全員東を主張した時、今できたことを忘れないために覚える。

 旧寮から保守回廊へ移る。

 途中の水門が閉じている。

 手動輪。

 直径八十センチ。

 錆。

 向こう側との水位差、一・四メートル。

 百舌が表示する。

《迂回》

《九分》

 迅は輪へ手を掛ける。

「開ける」

《圧差》

「少しずつ」

《外部者は機構を知らない》

「知ってる人が回す」

 施設潜水員が首を横へ振る。

《固着》

 迅は輪の根元を見る。

 七本の支柱。

 暴力の源。

 錆か。

 圧力か。

 施設が閉じた命令か。

 自分が急ぐ焦りか。

 源が一つに定まらない。

 それでも、身体は七歩を探す。

 水中に歩幅はない。

 床へ足を置く。

 一歩。

 手すりへ身体を引く。

 二歩。

 壁を蹴る。

 三歩。

 百舌が迅の肩をつかむ。

 首を横へ振る。

「邪魔するな」

 声は水中で泡になる。

 百舌は聞かない。

 口元を読む。

 表示板。

《開ければ急流》

《保守回廊へ入る》

「向こうに九人」

《だから開けない》

「迂回九分」

《生存可能》

「空気」

《十一分》

「余裕二分」

《ある》

「事故で消える」

《開ければ全員分消える》

 迅は手動輪へもう一度力を入れる。

 輪が一センチ動く。

 錆が剥がれる。

 やれる。

 百舌が止める。

 迅は彼女の腕を外す。

 輪を回す。

 二センチ。

 圧力計の針が跳ねた。

 向こう側から、壁を叩く振動。

 一回。

 二回。

 連続。

 警告。

 輪の隙間から細い水が噴く。

 迅の面体へ当たる。

 次の瞬間、水門全体が内側へ撓んだ。

 百舌が迅の腰帯を引く。

 施設潜水員が輪へ逆方向の梃子を入れる。

 迅も押し戻す。

 開けた二センチを閉じる。

 噴流が止まるまで四秒。

 四秒で、保守回廊の水位が十七センチ上がった。

 空気溜まりが減る。

 九人の残り時間が、二分以上消えた。

 迅は輪から手を離す。

 右手の痺れ。

 自分の力で増やした水。

 百舌の表示。

《暴力の源》

 それだけ。

 迅を指している。

 迅は否定できない。

 水が耳を覆う。

 一秒。

 十二歳。

 兄の背中。

 閉まる水門。

 押す水。

 逃げろという声。

 呼吸が止まる。

 百舌が迅の面体を二度叩く。

 進行ではない。

 呼吸。

 迅は息を吸う。

 泡。

 百舌は両手を背中へ戻す。

 迅は表示板を取る。

《俺が増やした》

《地上へ報告》

《迂回》

 百舌が読む。

 一度頷く。

 責任を認めたから許す、ではない。

 九人の時間は戻らない。

 迂回路へ入る。

 狭い配管。

 一人ずつ。

 迅は最後尾。

 百舌が先。

 水門を力で開ければ、英雄らしかった。

 失敗して迂回する背中は、誰も撮っていない。

 だからこそ、迅は地上へ戻った時、自分で言う必要がある。

 午後一時十一分。

 保守回廊へ到着。

 九人のうち一人が、水面へ顔を出せなくなっていた。

 百舌が最初に抱える。

 東札。

 意識なし。

 医療代行。

 迅が予備呼吸器を付ける。

 残り時間、八分。

 百舌は次の二人を指す。

 呼吸の浅い順。

 迅は従う。

 正しい順番へ従うことは、彼女の一本化へ同意することではない。

 反対するためにも、相手が正しい仕事をしている時は手を貸す。

 それが一番、腹立たしい。

 地上へ戻ったのは午後一時二十七分。

 保守回廊から東へ三。

 西へ二。

 中央へ一。

 残る三人は、次便。

 累計。

 東十二。

 西八。

 中央六。

 二十六人。

 残り十七。

 迅は面体を外し、床へ膝をついた。

 右手が震える。

 七瀬が撮影機なしで紙へ書く。

「水門」

 迅。

「俺が開けた。二センチ。保守回廊の水位、十七センチ上昇。残り時間を減らした」

「百舌の妨害は」

「止めた」

「書きます」

「俺が止められた」

「それも」

「能力」

「使っていない」

「使えなかった」

「違いは」

「源が定まらない。水も錆も命令も、俺も源だった」

 七瀬は一語ずつ書く。

「怖かった?」

 タマキが訊いた。

 迅は濡れた右手首へ赤い紐を戻す。

「怖かった」

「いつ」

「耳まで沈んだ時」

「水門を開けた時」

「焦った」

「百舌忍に止められた時」

「腹が立った」

「全部違う?」

「違う」

「記録」

 タマキが七瀬を見る。

「しています」

「迅が怖いって言った」

「聞きました」

「撮ってない」

「声記録も止めています」

「残る?」

「あなたも聞いた」

 タマキは頷く。

「受領」

 迅がタマキを見る。

「荷物みたいに言うな」

「言葉は運ぶ」

「中身を勝手に見るな」

「目的を訊いた」

「何の」

「怖いって言ったことを、克服した話にしない」

 迅は一秒黙る。

「それなら運べ」

 タマキは鉄箱の留め具を鳴らす。

 受領。

 百舌が透明室へ戻る。

 表示板へ、保守回廊の数値を書く。

《迅の誤操作》

《水位上昇十七センチ》

《百舌の停止》

《迂回》

《六人搬送》

 自分の功績だけではない。

 迅の失敗だけでもない。

 その下へ、別の一行。

《拒否者二人を西へ搬送》

《順番変更》

《生存》

 百舌は、拒否を認めた結果も記録した。

 迅は窓越しに読む。

 百舌が善人になったわけではない。

 迅が理解者になったわけでもない。

 ただ、互いの正しさだけでは、水門は開かなかった。

 地上へ戻ってから、迅は温かい飲み物を受け取らなかった。

 小麦が紙杯を差し出している。

「飲め」

「下に三人」

「だから飲め」

「俺だけ」

「潜る人が冷えたら、下の三人へ余計な酸素を使う」

「百舌は」

「透明室へ入れた」

「同じ物」

「同じ温度。砂糖は別」

「何で」

「本人確認」

 百舌の杯は砂糖なし。

 迅は一匙。

「公平じゃない」

「同じ量を入れるのが公平なら、糖尿病の人へも同じにする?」

「俺は糖尿病じゃない」

「だから一匙」

 迅は受け取る。

 紙杯の縁が右手へ熱い。

 小指と薬指の感覚が薄い。

 熱さを感じるのが遅れる。

 左手へ持ち替える。

 小麦はそれを見ても、痛いかと訊かない。

「一口」

 迅は飲む。

「二口」

「数えるな」

「飲まない人は数える」

「何口で終わり」

「半分」

「中途半端」

「全部飲むと、すぐ潜れない」

 迅は半分で止める。

 残りへ蓋を付ける。

《戻ったら飲む》

 小麦が札を書く。

「戻らなかったら」

「捨てる」

「記念にしない」

「冷めた紙杯を英雄の遺品にするほど、厨房は暇じゃない」

 迅は少し笑う。

 下の三人から、低音振動が来た。

 短い二回。

 長い一回。

 短い一回。

 既存表では、温度。

 低い。

 毛布。

「寒い」

 タマキが読む。

 施設職員。

「次便まで七分」

「七分待てば」

 ミソラが首を横へ振る。

「空気溜まりの湿度が高い。体温低下が始まっている。七分で症状が変わる人がいる」

「酸素一本を送る?」

「酸素より加温」

「水中で毛布」

「濡れる」

 小麦が厨房の保温箱を開ける。

 石を温めるための薄い金属板。

「これ」

 轟が触る。

「熱い」

「四十二度。防水袋へ二枚。身体へ直接当てない。空気溜まりへ置く」

「料理道具」

「保温道具」

「厨房から出す許可」

「私」

「持ち主」

「共同食堂」

「返却」

「洗浄して戻す。曲がったら設備費」

 タマキが札を作る。

《送り主 共同食堂》

《受取人 保守回廊残留三人》

《目的 待機中の加温》

《使用後 水上へ返却》

「僕が運ぶ」

「潜らない」

 ミソラ。

「地上の索で」

 保温板を防水袋へ入れ、細い索へ結ぶ。

 轟が滑車を確認する。

「途中に二か所、角」

「引っかかったら」

「戻す。無理に引かない」

 タマキは低音信号を送る。

《荷物》

《熱》

《直接触れない》

 水底から受領。

 索を引く。

 一メートル。

 二。

 角で止まる。

 タマキは力を増やさない。

 一度戻す。

 袋の向きを変える。

 再び。

 通る。

 地上から、水底へ物だけを送る。

 人の行先を決めない配達。

 下へ届く。

 三回の振動。

 帰還ではない。

 受領。

 タマキが表へ書く。

《加温開始》

「能力なしでも、届いた」

 イオが言う。

「いつも」

「いつもより遅い」

「遅くても届いた」

「下の三人は、能力があれば早いと思うかもしれない」

「僕も思う」

「欲しい?」

「欲しい」

「怖い?」

「分からない」

「同じ答え」

「便利」

「保留は、結論から逃げる欄にもなる」

「締切」

「救助後」

「能力が出なかったら」

「締切は消えない」

 タマキは潜水参加欄を見る。

《後半 未定》

 未定には、残り時間がある。

 永遠の空白ではない。

 百舌は透明室から、保温板の到着時刻を見ていた。

 表示板。

《全員東なら不要》

 小麦が返す。

「個別搬送だから必要」

《資源増》

「使った」

《失敗率増》

「届いた」

《次は失敗する》

「次も準備する」

《全員にはできない》

「全員へ同じ物を届ける必要はない」

《選別》

「必要が違う」

 百舌。

《誰が決める》

「医療はミソラ。保温方法は厨房と設備。本人は、触れるか選ぶ」

《本人が判断不能》

「代行と書く」

《紙》

「あなた、紙が嫌い?」

 百舌が少し考える。

《濡れる》

 小麦は笑った。

「それは分かる」

 防水紙でも、水底では角が丸くなる。

 手順は、現場へ出せば濡れる。

 濡れない手順は、現場へ持っていかなかった手順だ。

 午後一時三十三分。

 保守回廊の奥から、三回の振動。

 帰還。

 残る三人が、次の便を待っていた。