第140話 第八章「役を降りる」後編
赤青の半面は衣装箱へ戻る。
空いた顔で続く舞台が、一つ増えた。
それも本番の仕事だった。
舞台上では、乱馬がカナタの不在を埋めていた。
民の剣の役を、合唱隊へ分けた。
「一人が降りても、民は残る!」
十人の役者が同じ台詞を言う。
そのうち一人が、言い終わらなかった。
「一人が降りても、民は――」
若い女優が口を閉じる。
隣の役者が肘で合図する。
彼女は首を振った。
客席からは演技に見える。
乱馬が近づく。
「言葉を失った民よ。隣人が継ぐ!」
隣の役者へ台詞を渡す。
隣人は受け取らなかった。
「俺は台詞を言う。でも二人分は言わない」
舞台用の声ではない。
客席へ届き、ざわめきが起きる。
乱馬は笑う。
「では、一人分を!」
「一人が降りても、俺は残る」
台本と違う。
彼は自分だけを主語にした。
拍手が来る。
残ることへの拍手か、言い直したことへの拍手か、分からない。
女優は舞台袖へ歩いた。
カナタと目が合う。
「何で降りたの」
彼女が訊く。
「次の台詞を言いたくなかった」
「その後は」
「決めてない」
「私も決めてない」
「うん」
「楽屋へ行っていい?」
「僕に訊かないで」
「先に降りたから」
「先に失敗しただけ」
女優は少し怒った。
「役に立たない」
「うん」
「そこは否定して」
「否定したら、僕が決める」
「面倒」
彼女は楽屋へ行かず、袖で座った。
降りても、行き先は一つではない。
合唱隊のうち三人は続けた。
二人は袖へ来た。
一人は舞台上に残り、台詞だけを言わず、倒れた小道具を直した。
音楽係は演奏を止めなかった。だが拍手に合わせてテンポを上げる指示を無視し、最初の速度を守った。
照明係は王冠へ当てていた金光を切り、北西の通路へ一灯を回した。
回転床の係は、次の拍子木で動かさなかった。
乱馬が二度鳴らす。
床は止まる。
「機構係!」
怒声。
舞台下から返事。
「北側の安全確認未了!」
「演出番号七十六だ!」
「安全番号三です!」
「責任者は私だ!」
「事故の責任者は私です!」
客席から笑いが起きた。
台本にある裏方喜劇だと思った者がいる。
乱馬は一瞬で怒りを笑顔へ変える。
「舞台さえ、民の迷いを映す!」
拍手。
だが床は動かない。
言葉は機械の代わりにならない。
乱馬は役者を走らせ、止まった背景の前で場面を組み替える。王宮へ変わるはずの路地を、そのまま戦場にする。洗濯物を旗へ見立て、建物の壁を砦へ変える。
即興は鮮やかだった。
カナタは悔しいほど見入る。
乱馬は本当に上手い。
装置が一つ止まれば、役者を二人動かす。
二人が降りれば、残った一人へ光を集める。
光が減れば、暗闇を敵にする。
何でも作品へ戻す。
だから、自分一人が降りても足りない。
だが、他人へ降りろとは言えない。
カナタは袖の役者たちを見た。
「僕の真似をしないで」
「もうした」
女優。
「戻ってもいい」
「あなたも?」
「僕は戻らない」
「じゃあ、命令?」
「違う」
「全部、違うって言うね」
「同じにすると、楽だから」
「今、楽?」
「最悪」
女優は笑った。
「じゃあ違う」
舞台監督が走ってくる。
「処刑台の柵を外す。搬入口へ回す」
衣装係が顔を上げる。
「最終景は」
「組み替える」
「誰が決めたんです」
「私だ」
舞台監督は乱馬を見ない。
自分で言った。
「群集事故の危険がある。出口を作る」
カナタは立ち上がる。
「運ぶ」
「足首は」
「持てる」
「舞台へ戻るのか」
「裏で」
柵を運ぶ前に、舞台監督は関係者を一度止めた。
「外すと、最終景の高所保護がなくなる。残って演じる人へ説明する」
舞台上では乱馬が、止まった回転床を路地の迷路へ見立てている。
説明に使える時間は四十秒。
長いようで短い。
舞台監督は内線を開く。
「処刑台の柵二本を、北西退出路へ転用します。最終景の高所演技は中止。地上演技へ変更してください」
すぐ反発が返る。
「最後の旗上げは?」
若い役者。
「床上で」
「見えない」
「照明を絞る」
「演出が変わる!」
「変える」
舞台監督の声が震えた。
それでも言い直さない。
「私は、退出路へ柵を使う。高所場面を止める」
乱馬の返事はない。
代わりに、客席へ向けた台詞が響く。
「城壁を失っても、民は己の背を壁とする!」
役者たちは即興で並ぶ。
高所場面を地上の人壁へ変えた。
美しい。
舞台監督は目を閉じかける。
カナタが言う。
「見ていいよ」
「判断が揺れる」
「揺れたまま運ぶ」
「あなたは降りたのに、簡単に言う」
「簡単じゃないから言ってる」
柵の金具を外す。
右側は固い。
轟が腰を落とし、右手でレンチを回す。左手は添えるだけ。
「肩、使わないで」
カナタ。
「足、使うな」
「持つ場所なくなる」
「口がある」
「運べない」
「人を呼べ」
轟は舞台下へ声を掛けた。
「柵運び、右手で持てる者二人。断っていい。二分だけ」
四人が返事をした。
二人は役者。
一人は音楽係。
一人は大道具の年配女性。
「四人いる」
カナタ。
「持つ場所は二つ」
「交代」
「二分に交代要る?」
「肩がある」
轟は自分の左肩を指した。
身体の弱点を隠さず、人数の理由にする。
年配女性が金具を確認する。
「これ、舞台用だから横荷重に弱いよ。手すりへするなら、下へ筋交い一本」
「材」
「背景の窓枠。今日で廃棄予定」
「演出は」
「路地が窓を失う」
舞台監督が客席を見る。
乱馬は窓枠へ役者を立たせ、街の高さを作っている。
「別の材は」
「新材を切ると五分」
「五分待つか」
誰へともなく訊く。
カナタは答えない。
轟も答えない。
年配女性が決める。
「左の窓は演技に使ってない。あれを外す」
「乱馬さんの許可」
「大道具の安全転用。私の担当」
彼女は舞台袖へ出る。
観客から見える場所。
窓枠を外し始める。
乱馬が気づく。
「街は、その窓さえ失う!」
即興で意味を付ける。
年配女性は手を止めない。
「失うんじゃない。手すりにするんだよ」
客席には聞こえない。
カナタには聞こえた。
物語が何と呼んでも、木材の行き先は変えられる。
窓枠を外す。
金具を一本、床へ落とす。
乾いた音。
客席の拍手に混じらない。
カナタはその金具を拾った。
右の靴紐が、また足の甲へ触れる。
結び直さない。
手に持った金具の数だけを数える。
一個。
二個。
三個。
左右へ同じ回数ではなく、必要な場所へ必要な数。
処刑台の柵が転換床の裏から出てくる。
長さ三メートル、二本。
轟が右肩と腰で一本を受ける。左肩は使わない。
「上を持つな」
「分かってる」
カナタは反対側を持とうとする。
右足首が痛む。
凱が止めない。
「低い方を持て。階段は俺が先に下りる」
「命令?」
「提案。断るなら置け」
「持つ」
四人の技師も加わる。
柵は舞台上では王を囲う道具だった。
今は客が帰る坂の手すりになる。
役割が変わっても、木材は何も言わない。
人間だけが、前の役を気にする。
午後八時二十五分
北西搬入口の封印が切られた。
赤い蝋が床へ落ちる。
扉はすぐには開かない。
外から吹く冬の風で、内外の圧が違う。二人の技師が取手を引き、轟が腰を入れる。
ぎい、と低い音。
細い夜が開く。
雨は降っていない。
外の路地に屋台の灯り。劇場の音を聞いて立ち止まる人々。冷たい空気が舞台裏へ流れ、汗と偽血の匂いを押し戻す。
「灯り!」
凱。
補助灯が傾斜路を照らす。
カナタは手すりの端を押さえる。
釘を打つ音が、客席の拍手に混ざる。
一回。
二回。
三回。
左右同じではない。
必要な場所へ、必要な数だけ。
舞台監督が確認する。
「退出路、仮設。走行禁止。一分十五人。係員四人。車椅子は南平場口が開くまで待機、本人へ説明」
「誰が客席へ伝える」
技師。
「場内放送」
「乱馬さんが切る」
「切られたら、掲示」
「掲示が見えない列は」
「係員が一列ずつ」
「怒るぞ」
「怒らせろ。押させるな」
轟が手すりを二度叩く。
「持つ」
舞台監督は頷いた。
客席へ通じる防火扉を開ける。
その瞬間、乱馬の声が舞台裏まで飛んだ。
「幕を捨てた者たちよ! まだ物語は終わらぬ!」
カナタは振り返る。
舞台は止まった装置を使い、別の形で続いている。
続ける者がいる。
降りる者がいる。
道を作る者がいる。
同じ決断ではない。
だから舞台は、予定どおりには動かない。
次の拍子木が鳴った。
回転床は止まったままだった。
代わりに、北西の扉から冬の風が客席へ入った。