第139話 第八章「役を降りる」前編

十一月二十七日 午後八時十五分

 役を捨てるには、仮面を外すだけでは足りない。

 仮面を外した顔が、次の役になるからだ。

 カナタは舞台中央で、右の靴紐が緩んでいるのを感じていた。

 見なくても分かる。

 結び目の輪が、蹴るたび足の甲へ触れる。

 一回。

 二回。

 三回。

 ほどけてはいない。

 左より半分だけ長い。

 直したい。

 台詞の途中でしゃがめば、客は即興だと思う。片面王子が戦いの最中にも身支度を整える、小粋な場面にできる。右を結び、左も同じ回数結び直し、立ち上がった瞬間に笑えばいい。

 失敗を成功に見せる方法なら、いくらでも知っていた。

 乱馬が高座から呼ぶ。

「民の剣よ!」

 カナタは右手を胸へ当てる。

 赤青の半面が照明を割る。

「ここに」

 声は最後列へ届いた。

「王は冠を捨てた。狼は裁きを拒んだ。ならば、おまえが民へ誓え。物語を終幕まで守ると!」

 次の台詞。

《我が名に懸けて。退く者を許さず、席を立つ者を見捨てず、すべての者へ結末を与える。》

 稽古では七回言った。

 一回目は噛んだ。

 二回目は長すぎた。

 三回目は乱馬が「席を立つ者」の前へ間を置いた。

 四回目から客の拍手位置が決まった。

 七回目には、考えなくても口が動いた。

 役者の身体は、考えないために稽古する。

 今夜、その技術が怖かった。

 客席南口に、立っている人がいる。

 記録台のカメラは、もうカナタを中心にしていない。暗い出口を映している。自分の見せ場から視線を外されたことへ、胸のどこかが傷ついた。

 同時に、ほっとした。

 見られていなければ、失敗できる。

「カナタ」

 乱馬の私語が、台詞の間へ滑る。

 客には聞こえない。

「繋げ」

 短い命令。

 カナタは息を吸った。

 前列の少女が紙仮面を外している。

 二階席の白髪の男は、まだ楽しそうに待っている。

 中央通路では若者たちが手拍子を始めた。

 誰も同じ理由ではない。

 それでも、自分が台詞を言えば一つの音になる。

「我が――」

 喉が動く。

 昔、声帯を痛めた時と同じ場所が細くなる。

 声を失った公演でも、乱馬は場面を止めなかった。カナタの台詞を合唱へ渡し、本人には剣だけを振らせた。終演後、客は「声を失っても舞台へ立った勇気」に拍手した。

 あの時は救われた。

 自分の失敗が、作品の成功へ変わった。

 成功したせいで、失敗を返してもらえなかった。

 カナタは仮面へ手を掛けた。

 客席が沸く。

 変身だと思ったのだ。

 赤青の半面を外す。

 金髪が汗で額へ張り付いている。舞台化粧の片側だけが仮面の縁で擦れ、左右の顔が違う。

「役名を言え」

 乱馬が囁く。

「民の剣だ」

 カナタは客席を見た。

 千近い顔。

 舞台では、顔は一つの壁に見える。

 稽古では壁へ声を投げる。

 今日は、その壁を一人ずつに戻したかった。

「紅葉カナタです」

 劇場が止まった。

 役名ではない。

 拍子木も鳴らない。

 カナタは続ける。

「次の台詞は言いません」

 声が震えた。

 隠さなかった。

 笑顔も作らない。

 理由を説明しない。

 乱馬の契約条項を批判しない。

 観客へ拍手をやめろと言わない。

 ただ、自分が言わないことだけを言った。

 最初に飛んだのは罵声だった。

「金返せ!」

 次に拍手。

 勇気ある反抗だと思った者の音。

「続けろ!」

 別の声。

「カナタ!」

 名を呼ぶ声。

「役をやれ!」

 役名を求める声。

 拍手と足踏みと口笛が混ざる。

 乱馬は両手を広げた。

 怒っていない。

 むしろ、最高の即興を迎えた演出家の顔だった。

「御覧じろ!」

 拍子木が鳴る。

「民の剣は、自らを民より上へ置いた! 皆が求める結末を、一人の恐怖で拒むという!」

 客席の音が大きくなる。

 カナタの拒否が、裏切りの場面へ変わる。

「裁くか、許すか。選ぶのはあなた方だ!」

 拍手量計の針が跳ねる。

 カナタの足首へ誓痕が浮かんだ。

 観客は次の動きを期待する。

 仮面を拾う。

 乱馬へ挑む。

 改心して台詞を言う。

 三つの予想が競い、足首の線が乱れる。

 《予告拍手》は、期待が一つなら強い。

 今は観客が割れている。

 どの順番も、自分を別の役へ連れ戻す。

 カナタは何もしなかった。

 仮面は床へ置いたまま。

 乱馬を見ない。

 客席へ礼もしない。

 右の靴紐だけが長いまま、舞台袖へ歩く。

「逃げるのか!」

 誰かが叫ぶ。

 カナタは答えない。

 逃げる。

 それでいい。

 役者が逃げる場面を演じれば、また見せ場になる。

 だから演じない。

 背中を丸め、足を引きずり、舞台人なら隠す疲れをそのまま出す。右足首が痛い。呼吸が浅い。手が震える。

 袖まで十二歩。

 どの歩数も揃えない。

 七歩でもない。

 拍手は止まらない。

 罵声も止まらない。

 カナタは、自分のためにどの音が鳴ったか確かめなかった。

 十二歩目で、照明の外へ出た。

 午後八時十八分

 舞台袖は暗かった。

 暗いのに、鏡がある。

 衣装係が仮面を追って拾い、カナタへ差し出す。

「戻りますよね」

「戻らない」

「今夜だけ?」

「今の場面には」

「次の場面は」

「決めてない」

「乱馬さんが決めます」

「うん」

「なら」

「違う」

 カナタは床へ座った。

 右の靴紐をほどく。

 一回。

 二回。

 三回。

 左もほどく。

 同じ回数。

 結び直そうとして、手を止めた。

「どうしたんです」

 衣装係。

「同じにしない」

「危ないですよ」

「右だけ結ぶ」

「左も緩んでいます」

「左は緩いまま」

「転びます」

「歩かない」

 カナタは右だけ結んだ。

 左の紐は床へ垂れる。

 左右が違う。

 胸がむかつく。

 手を伸ばせば直せる。

 直さない。

 衣装係が困った顔で立っている。

「僕が降りたからって、あなたが降りる必要はない」

「え」

「衣装を続けるか、自分で決めて」

「私は契約が」

「契約を守るって決めるなら、それで」

「あなたが言うんですか」

「言わない方がよかった?」

「分かりません」

「僕も」

 舞台から乱馬の声。

「裏切り者の仮面は、空席へ掲げよう!」

 客席が沸く。

 仮面を取りに、若い役者が袖へ走ってきた。

 衣装係が渡さない。

「小道具です!」

「汗を拭いてから」

「今要る!」

「金箔が剥げる」

「演出命令だ!」

「衣装判断です」

 衣装係は布で仮面を拭く。

 ゆっくり。

 役者が奪おうとすると、彼女は一歩下がった。

「待って」

「何秒」

「乾くまで」

「何秒だ!」

「分からない」

 カナタは見ていた。

 その遅さが、初めて彼女自身の物に見えた。

 舞台の継続は、大きな命令ではなく、小さな待ち時間から崩れた。

 仮面が十二秒遅れた。

 その十二秒を埋めるため、乱馬は台詞を伸ばす。

 照明係は次の灯りを待つ。

 回転床の係は拍子木を待つ。

 音楽係は乱馬の母音が終わるのを待つ。

 待つ人が増えるほど、誰か一人の判断で動いていたことが見える。

 若い役者は、やっと仮面を受け取ると舞台へ戻った。

 衣装係は布を畳んだ。

「行かないの」

 カナタが訊く。

「私の場面は袖です」

「続ける?」

「衣装は続けます」

「乱馬の命令で?」

「衣装が濡れたままだと次の役者が風邪を引くから」

 理由が違う。

 同じ作業をしても、同じ同意ではない。

 カナタは左の靴紐を見た。

 まだ緩い。

 結び直したくなるたび、衣装係の手元を見る。彼女は仮面を磨き、舞台へ戻す。公演へ賛成したからではない。物を守る仕事を続けている。

 袖の奥から、凱が来た。

 白い衣装を脱ぎ、黒い膝装具がそのまま見える。片手に舞台図面、もう片手に補助灯。

「搬入口へ照明を回す」

「誰に言ってる」

 カナタ。

「聞こえた全員へ。命令ではない。運べる者がいれば頼む」

「王様らしくない」

「役は降りた」

「僕も」

「見た」

「笑った?」

「笑う余裕はない」

「後で?」

「後でもない」

「優しい」

「褒めるな」

 二人の間へ短い沈黙。

 さきほど舞台上でぶつけた言葉が、まだ残っている。

 凱は謝らない。

 カナタも求めない。

「続けろと言ったな」

 凱。

「言った」

「理由は安全だけか」

「違う」

「何だ」

「終わらせたかった」

「乱馬と同じか」

「少し」

「認めるのか」

「今は」

「なぜ降りた」

「続けたかったから」

 凱の眉が寄る。

「説明しろ」

「最後まで乱馬に任せて成功したら、次も僕は決めない。失敗しても乱馬が直す。だから一回、直らない失敗を自分の名前で置いた」

「それが役を降りることか」

「たぶん」

「たぶんが多い」

「決める人は、たぶんを隠すでしょ」

「俺は隠した」

「王の時」

「今も」

 凱は補助灯を持ち替えた。

 左膝に負担を掛けないよう、腰で支える。

「搬入口の手すりが足りない。舞台の柵を使えるか」

「どの場面」

「第三幕の処刑台」

「今、舞台に出てる」

「次の転換で裏へ来る」

「外すと最終場面が作れない」

「客が帰る道に使う」

「乱馬は怒る」

「おまえは」

 カナタは舞台の音を聞いた。

 若い役者が仮面を掲げている。

 客席は、自分が裏切ったかどうかを拍手で裁かされている。

 処刑台の柵は、カナタが最終場面で上る予定だった。王も狼もいない後、民の剣が新しい旗を掲げる。その高さを作る道具だ。

「使って」

「演出判断か」

「違う」

「なら何だ」

「道具の使用許可。僕の登場場面だから」

「契約上、所有は劇場だ」

「じゃあ、僕の許可は足りない」

「足りない許可も必要だ」

 凱は舞台監督へ向かう。

 カナタは立ち上がった。

 左の靴紐を踏みそうになる。

 結ばない。

 足を高く上げ、紐を跨ぐ。

 午後八時二十一分

 鏡の前に、十二歳の子役が立っていた。

 今夜は《飢えた民の子》《王冠を拾う子》の二役。第一幕では凱からパンを二つ渡され、第二幕では群衆の後ろで旗を振る予定だった。

 顔の半分へ煤の化粧が残っている。

「カナタさん、辞めるの」

「今の役は」

「役者を」

「決めてない」

「乱馬さんは、舞台を降りた役者はもう客だって」

「客席にいない」

「じゃあ何」

「今、床に座ってる人」

「そういうの、ずるい」

「うん」

 子役は怒った顔をする。

「僕、次の場面に出る。カナタさんが降りたからって、出たら悪い?」

「悪くない」

「降りたら」

「悪くない」

「どっちでもいいってこと?」

「違う。どっちも、君が決めること」

「子どもに決めさせるの?」

 その問いに、カナタは詰まった。

 大人が決めると言えば、子どもの出演意思を奪う。

 自分で決めろと言えば、契約や生活の重さまで子どもへ渡す。

「一人で決めさせない」

「誰と」

「保護者と、舞台監督と、君。三人で別々に言う」

「乱馬さんは」

「演出の希望を言う」

「四人」

「そう」

「多い」

「舞台は人が多い」

「カナタさんは?」

「決めない」

「またずるい」

 子役は楽屋の端へ行き、母親を呼んだ。

 母親は出演を続けてほしいと言った。今夜の賃金が必要だから。

 舞台監督は、北西通路が開くまで子役を客席近くへ出さない条件を付けた。

 子役は、旗を振る場面だけ出ると言った。客席へ降りる殺陣はしない。

 乱馬の演出希望は、舞台上から聞こえた。

「子どももまた、最後まで物語を守る!」

 本人の条件とは違う。

 舞台監督が内線で訂正を求めた。

 乱馬は台詞を変えなかった。

 子役は煤の顔で、カナタを見る。

「言ってること違う」

「うん」

「出ない」

「賃金は」

 母親。

「僕の分、要らない」

「家の分よ」

 子役の顔が曇る。

 カナタは財布へ手を伸ばしかけた。

 止める。

 自分が払えば、子どもの拒否を買ったことになる。

「公演側へ、出演準備分の支払いを請求する」

 舞台監督が言った。

「本番へ出ないのに?」

 母親。

「待機と稽古は済んでいます。私が承認する」

「乱馬さんが」

「私の署名で出します。拒否されたら、私の取り分から先に払う」

「あなたが決める?」

「舞台監督の支払承認として。親子の出演判断は決めない」

 言葉が細かい。

 細かいから、役割が混ざらない。

 子役は旗を床へ置いた。

 舞台監督は支払票へ時刻を書く。

 母親はすぐ納得しなかった。

「この子、カナタさんみたいになりたくて、半年稽古したんです」

 カナタの胸へ、別の痛みが来た。

 人気を失う恐怖とは違う。

 誰かの目標から降りる痛み。

「僕みたいにならない方がいい」

 口に出しかける。

 それは、自分を目指した半年を否定する。

「今日の僕だけを、全部だと思わないで」

 カナタは言い直した。

「舞台にいた僕も、本当。降りた僕も、本当。どっちかを真似しなくていい」

「じゃあ、何を真似するの」

「受け身」

 子役が笑った。

「地味」

「長く続けるには、地味な方が高い」

「賃金?」

「身体」

 母親が息を吐く。

 怒りは消えていない。

 それでも、子役の煤を布で拭き始めた。

 舞台へ出ない化粧を落とす。

 その決定を見ていた群舞の役者たちが、楽屋の中央へ集まった。

 全員がカナタと同じように降りたわけではない。

 槍役の青年は、次の場面へ出ると言った。

「妹が客席にいる。最後の殺陣を見せる約束をした」

 老女役の俳優は、出演を続けるが唱和はしないと言った。

「台詞は言う。客へ《王を選べ》とは言わない。私は三十年、命令される老婆ばかり演じた。今夜くらい、命令する台詞を捨てる」

 合唱役の二人は、賃金の全額保証がなければ決められないと言った。

「思想じゃなく家賃です」

 一人が言う。

「家賃も思想にされるよ」

 もう一人が返す。

「払う側にとっては」

 笑いは小さく、すぐ消えた。

 舞台監督は紙を四列に分けた。

《出演継続》

《役・台詞を変更して継続》

《待機》

《出演終了》

「この紙は政治的支持ではない。今夜の労務と安全配置だけに使う」

「後で座長に渡る?」

「賃金計算に必要な範囲は渡る。個別理由は渡さない」

「理由を書かないと、卑怯に見える」

「誰に」

「自分に」

 カナタは口を挟まなかった。

 理由を語れば立派になる、という舞台の癖がある。語らない拒否は、見せ場にならない。見せ場にならなくても成立する拒否を、今夜は残したかった。

 槍役の青年が《出演継続》へ名を書く。

 老女役は《台詞変更》

 合唱役の二人は《待機》。賃金回答の時刻を横へ書く。

 子役は《出演終了》へ、自分の名をひらがなで書いた。

「カナタさんは」

 誰かが訊く。

 カナタは四列を見た。

「どこにも入らない」

「また特別扱い?」

「役者は終了。今から退出路の運搬補助。別の労務」

「紙を増やす?」

「増やす」

 舞台監督が五列目を作った。

《舞台外の安全作業》

 カナタは本名を書く。

 役を降りるとは、仕事をなくすことではない。

 今まで見えなかった仕事へ、名前を移すことだった。

 衣装係が、床の赤青の半面を拾った。

「これは、どうします」

 カナタが答える前に、若い代役が手を上げた。

「次の場面で必要です。案内人がいないと、話が繋がらない」

「僕の役をやる?」

「役を繋ぐ。あなたにはならない」

 言い方は正しかった。

 それでもカナタの胸は狭くなる。

 自分が降りたあと、舞台が困ればいいと思っている部分があった。困れば、自分の価値が証明される。証明されたら、戻る理由にできる。

「面を貸して」

 代役が言う。

「それを着けると、客は僕だと思う」

「じゃあ名前を言う」

「物語が止まる」

「もう予定どおりじゃない」

 代役は面を受け取らず、待った。

 カナタは裏側を見る。鼻当てに、自分の汗の跡。右の留め紐は四度結び直した癖で、左より少し柔らかい。

「これは僕の道具だ」

「うん」

「役は劇場のものでも、顔まで劇場のものじゃない」

「うん」

「だから貸さない」

「分かった」

 代役はすぐ引いた。

 怒らないことが、かえってカナタを困らせる。

 衣装係が赤布と群青布を二枚持ってきた。縫わず、左右の肩へ一本ずつ掛ける。

「面なしの案内役。客席へ最初に本名を告げる。どうです」

 代役は鏡を見る。

「顔が見える」

「嫌なら別の役へ」

「見える方でやる」

 カナタは口を挟まない。

 自分の象徴を守ることと、物語を独占することは違う。

 代役が舞台へ向かう前に訊いた。

「殺陣の三つ目、右へ落ちる?」

「今日は予告しないで」

「危ない」

「動作は舞台監督へ伝える。客へは決めさせない」

「難しいね」

「僕も、まだできてない」

 代役は自分の名を言う練習を一度だけして、袖へ立った。