第138話 第七章「七瀬のカット」後編
同僚なら分かる。
「では、撮影を止めます」
七瀬は小型記録器へ先に告げる。
「午後八時十五分二十秒。退出路試験参加者一名の希望により、歩行映像を中断。試験結果は本人確認後、匿名の文字記録のみ」
「試験は続けていい?」
係が訊く。
「あなたが決めてください」
「続けます」
七瀬はレンズを壁へ伏せた。
足音だけを数えない。
撮っていない時間に、三人目は坂を下り、途中で戻った。
「理由」
舞台監督。
「客席の音が急に大きくなる場所があります。後ろから呼ばれたと思って振り向きました」
音の反射だった。
技師が坂中ほどへ布を一枚吊るし、拍手の低い響きを散らす。
映像には残らなかった問題が、出口を一つ安全にした。
七瀬は記録を再開し、文字板だけを撮る。
《段差一。照度変更。音反射一。途中で戻れる。撮影拒否一。》
最後の項目も、安全確認の結果だった。
舞台監督の足音が近づく。
その後ろから轟。
右手に短い照明架台。左腕は胴へ添え、肩を上げない。背の高い彼が狭い通路へ入ると、天井が一段低くなったように見えた。
「灯り、どこ」
轟。
「坂上と坂下。段差の影が消える角度」
技師。
「二灯しかない」
「一灯で十分です」
七瀬が言う。
二人が同時に彼女を見る。
「一灯は記録へ使う。出口が開いたことと、何人がどの速さで通ったかを残す」
「安全が先」
轟。
「記録も安全です。後から『千人流せた』と書き換えられたら、次に同じ坂で転びます」
「目で数えろ」
「目は署名しません」
「映像も持ち主が切る」
「だから原版条件を変えた」
轟は架台を床へ置き、壁を二度叩いた。
「一灯、坂。記録は反射板」
「暗すぎます」
「白衣装を吊れ」
通路脇の衣装箱に、白王の替え外套がある。
「衣装を照明器具に?」
舞台監督。
「燃えない布か」
「防炎です」
「なら使える」
「汚れます」
「洗える」
「衣装部の許可が」
「聞け」
轟は決めない。
舞台監督が内線を取る。
衣装係は三秒考え、条件を出した。
《裾を床へ触れさせない。留め金を外さない。返却時に染みを記録。》
「了解」
白い外套が壁へ張られる。
補助灯の光を受け、坂へ柔らかく返す。
王の衣装が、王を大きく見せるためではなく、足元の段差を見せる。
七瀬は小型記録器の画角を確認した。
顔は映らない。
靴と札と、白い反射光。
「これなら一灯で足ります」
「さっき十分と言った」
技師。
「今、根拠ができました」
「先に言う人ですね」
「記録者は、結果が出るまで黙ると間に合いません」
「技師は、結果が出る前に断言すると壊れます」
「職業が違う」
「だから一緒にやるんでしょう」
黒布の奥で、技師が笑った。
天井の小型カメラが、ゆっくり二人へ向きを変えた。
乱馬側の操作だ。
匿名を望んだ技師の顔を、別の記録が拾おうとしている。
七瀬は脚立を使わない。
届かないからではない。
左肩で登り、転ぶ危険がある。
代わりに、白い撮影条件板を長い柄へ結びつけた。
小型カメラの前へ掲げる。
《退出路安全確認中。個人の識別撮影を拒否。》
カメラが右へ逃げる。
七瀬も板を右へ。
左へ。
板も左へ。
追いかけるのではない。
画角に入り続ける。
「壊した方が早い」
轟。
「壊すと、何を撮ろうとしたか残らない」
「向こうの映像が残る」
「所有者は向こうです」
「こっちも撮る?」
「撮っています」
胸の小型記録器は、天井カメラと条件板を下から映している。
撮る者を撮る。
それで正義になるわけではない。
少なくとも、相手だけが透明ではなくなる。
小型カメラが停止した。
レンズが壁を向く。
七瀬は条件板を下ろす。
左肩へ鈍い痛み。
柄を持ったのは右手だが、身体を支えた左が固まっている。
「一分休め」
轟。
「命令ですか」
「構造判断」
「私の身体は建物?」
「今は三脚より細い柱」
「失礼です」
「折れるよりいい」
七瀬は壁へ背をつけた。
座らない。
左腕を支持帯へ預け、十回だけ呼吸する。
舞台の拍手が、壁の向こうで続く。
止まっている間も、記録器は回る。
痛みを我慢した英雄の顔は映らない。
床と、靴と、白い外套の反射だけ。
「七瀬さん」
技師が言う。
「はい」
「私が鍵を開けた場面は、英雄にしないでください」
「理由は」
「遅かったからです。最初の人が出口を求めた時に開けられた」
「手すりがなかった」
「作る提案も遅かった」
「では、遅れを含めて残す」
「名前なしで?」
「専門、時刻、判断。名前は本人が後で望んだ場合だけ」
「後で名乗ったら、立派になりますか」
「なりません。名乗らなくても卑怯にはしません」
「難しい注文ですね」
「映像より、文章が長くなる」
技師は封印鍵へ親指を掛けた。
舞台監督が確認する。
「群集事故の切迫を認定。仮設手すり設置後、一分十五人を上限。走行禁止。開放判断者は私。機構操作はあなた」
「記録は」
「火群七瀬。顔は映さない」
「観客へ説明する者」
「客席係。説明文は一文字巴と朽葉真琴」
「出口を使う者」
「本人が決める」
最後の一項だけ、役職名ではなかった。
七瀬は撮影を続ける。
客席から大きな歓声が来る。
カナタの場面が最高潮へ入った音だ。
七瀬は振り返らない。
封印鍵の蝋が、技師の親指の下で小さく割れた。