第137話 第七章「七瀬のカット」前編
十一月二十七日 午後八時一分
カメラを止めれば、映らなかったことは残せる。
映らなかった理由は、残せない。
七瀬の右手は、二時間近く同じ速度でクランクを回していた。
肩ではなく、手首が熱い。
腰高三脚の脚は床へ固定してある。撮影機の正面には、王冠を置いたまま回り続ける舞台。凱はすでに画面から消え、迅とカナタと乱馬が第二幕を繋いでいる。
画面の右上に、暗い出口表示。
その下で、帰りたい観客が増えていた。
十四人。
七瀬は数えた。
係員と話している者が八人。席から立ったまま様子を見る者が六人。父親に手を引かれた少女は、紙の仮面を胸へ抱えている。
舞台では迅が狼の弁明を始めた。
「俺が退いたのは、逃げたかったからだ」
台本にはない。
「逃げたかった。それでも、後ろにいたやつを先へ出した。二つは同時にある」
客席が聞く。
七瀬も聞く。
良い台詞だった。
だから危険だった。
この映像が残れば、後から誰かが言う。
竜胆迅の弁明を聞いた観客は、理解した上で拍手した。
実際には、聞こえなかった者もいる。出口係と話していた者。子どもをなだめていた者。舞台より暗い通路を見ていた者。
固定全景は、全部を同じ画面へ入れる。
同じ画面へ入った物は、同じ出来事の参加者に見える。
「七瀬」
真琴が低く呼ぶ。
「券面説明の掲示を客席へ出します。記録できますか」
「どこへ」
「中央通路の左右」
「舞台を遮ります」
「遮る必要があります」
「乱馬が止める」
「止められた事実も必要です」
「掲示を持つ人の顔は」
「希望を確認します」
真琴は紙束を持っている。
《拍手は演目支持と統治案支持を別々に選べます》
《拍手しないこと、途中退出、保留も記録できます》
《退出を望む人は、券の右下を折って係員へ示してください》
文章は短い。
一文字巴が一問ずつ削った跡がある。
「退出札は」
「券の半券を使います。専用紙を今刷っています」
「記名」
「不要。座席番号と時刻だけ」
「理由」
「書かせません」
「公開範囲」
「人数と時刻。本人が希望した場合だけ発言」
「了解」
七瀬は撮影機の横にある小さな札へ、記録条件を書いた。
《固定全景。舞台・客席・出口。個人顔の拡大なし。》
この条件で始めた。
変えるなら記録へ残す。
「午後八時三分十一秒。撮影対象を変更します」
クランクを止めないまま言う。
「主対象、舞台中央から南側退出口および中央通路へ。理由、政治的意思表示の分離と退出希望の発生。変更者、火群七瀬。依頼者なし」
撮影台の固定ねじへ左手を伸ばす。
肩に痛みが走る。
上腕を上げる角度ではない。だが二時間同じ位置にいた筋肉が、急な横移動を拒む。
右手はクランクを回している。
片手が足りない。
「手伝います」
真琴が言う。
「レンズへ触れないで。三脚の支柱を、右へ十五度」
「どちらから見て右」
「客席から」
「私は舞台側にいます」
「私の右」
「最初からそう言ってください」
真琴が支柱を押す。
三脚の脚が床の固定溝を滑る。
画面が動いた。
王冠が中央から外れる。
迅の顔が左へ消える。
代わりに、暗い南口と、立っている十四人が中央へ入った。
客席からざわめき。
舞台上の乱馬が気づく。
「記録屋」
役の声で呼ぶ。
「英雄を外すのか」
七瀬は答えない。
答えれば舞台の台詞になる。
乱馬が客席へ向く。
「御覧じろ。真実の眼さえ、王と狼から目を逸らした! だが物語は、見られずとも続く!」
拍手が起きる。
七瀬は画角を戻さない。
南口の係員が、真琴の掲示を受け取る。客へ向けて広げる。
最初の一枚は逆さだった。
観客が笑う。
係員が慌てて直す。
その失敗も映る。
公認の歴史は、たいてい文字が正しい向きから始まる。
本当の行動は、逆さの時間を持っている。
午後八時七分
乱馬側の映像は、すでに別の物語を作っていた。
客席上部の二つの投影幕へ、舞台の接写が流れる。凱が王冠を外した瞬間。迅が鎖を外した瞬間。カナタが反証で崩れながら笑った瞬間。
どれも美しい。
出口は映らない。
七瀬の固定全景がなければ、客席は一つの暗い海になる。
だが、彼女の記録があるせいで、乱馬側の接写は「全景へ戻れば確認できる」と主張できる。
また使われている。
止めれば、接写だけが残る。
続ければ、接写の保証になる。
「どちらを選んでも負ける顔です」
真琴が言った。
「撮っています」
「私を?」
「声だけ」
「許可は」
「舞台記録契約の補助者」
「今、契約を疑っているのに契約を使うのですか」
「便利です」
「使う人が困る」
「誰の言葉ですか」
「皆が使いすぎて、もう分かりません」
七瀬は口元だけで笑った。
肩の痛みは消えない。
記録の問題も消えない。
だから、正しい一つを選ばない。
「原版の閲覧条件を変えます」
「今ここで?」
「今日の分だけ。申請なし。終了後、劇場外の公開室で、券を持っていた人は閲覧できる。顔の拡大複製は禁止」
「保管者の許可が要ります」
「保管者は私です」
「劇場が異議を」
「異議も記録します」
七瀬は補助紙へ条件を書く。右手を止められないため、左で書く。字が傾く。
真琴が手を出しかけ、止めた。
他人の署名を整えてはいけない。
「記録を保証印に使うなら、戻る道を開ける」
七瀬は言った。
「映像も出口ですか」
「入口にもなる。だから面倒」
南口前で、係員が退出希望者へ説明を始める。
しかし扉は開かない。
赤い札に《転換中》。
床下の振動が続いている。
舞台は第三景へ移る途中だった。
帰りたい人は、説明を聞いても帰れない。
権利は紙に書いただけでは通路にならない。
七瀬は画面の奥で、黒い作業着の人物が一度だけ手を上げるのを見た。
舞台裏へ続く細い扉。
先ほど轟と話していた技師だ。
彼は客席へ出ず、扉の隙間から白い板を見せた。
《北西搬入口 床停止と無関係》
次の板。
《手すり未設置》
次。
《灯りあれば使用可能》
顔は暗がりにある。
七瀬は撮影機をさらに右へ振ろうとした。
止める。
顔を映せば、乱馬に逆らった技師として残る。
映さなければ、誰の提案か証明できない。
技師は最後の板を出した。
《名前不要》
七瀬はレンズを下げた。
顔ではなく、板と手だけを入れる。
「午後八時九分四十秒。舞台技術者から、北西搬入口を退出路へ転用する案。提案者は記録上匿名を希望。手元と提示内容のみ撮影」
技師の手が一度、震えた。
それから親指を立てる。
画面に顔はない。
行動は残る。
七瀬は舞台を見なかった。
舞台ではカナタの次の台詞が始まっていた。
その台詞は、七瀬の画角には入らなかった。
「王が退いた今こそ、民の剣が道を継ぐ!」
歓声が背中から来る。
七瀬は聞くだけにした。
見ないことは無関心ではない。
今までの彼女は、見なければ残せないと思っていた。
今は、見たことで奪うものがあると知っている。
匿名の技師は細い扉を閉じた。
七瀬は真琴へ手を向ける。
「撮影台を外します」
「固定記録をやめるのですか」
「固定する場所を変える」
「クランクは」
「止めない」
「一人では運べません」
「だから手を借ります」
「私の?」
「あなたは掲示」
「では誰に」
七瀬は画面内の父親へ目を向けた。
頼まない。
観客を裏方へ変えてはいけない。
係員も扉の前で説明を続けている。
撮影記録を守るために退出対応を止めれば、何を中心へ移したのか分からなくなる。
「轟を呼ぶ」
「搬入口へ行っています」
「タマキ」
「退出札の印刷」
「迅」
「舞台」
「凱」
「北西通路の確認」
「皆、仕事がある」
「七瀬にもあります」
「私の仕事を、私一人でできる形にしすぎた」
七瀬は三脚の固定栓を見る。
迅なら蝶番の数を数える。
轟なら荷重を聞く。
タマキなら誰が受け取るかを訊く。
七瀬は、映るかどうかしか見ていなかった。
撮影機を守る支柱は三本。
そのうち一本の先に、小さな車輪が付いている。移動用ではなく、高さを調整するための補助輪だ。
「真琴。掲示板の予備、二枚ありますか」
「あります」
「一枚を床へ。三脚の左脚の下」
「板を台車にする?」
「画面に入らない物も、使えます」
真琴は掲示板を置いた。
七瀬は左脚だけを板へ載せる。右の二本は床を滑らせる。三点が同時には動かない。撮影機が傾く。
左肩が悲鳴を上げた。
七瀬は歯を食いしばる。
右手のクランクは止めない。
「肩」
「分かっています」
「止めては」
「止めるのは、痛みが決めません」
「あなたが決める」
「今、言おうとしました」
七瀬は息を吐く。
「訂正。十秒止めます」
「無編集は」
「撮影を止める。記録は切れる。切れた理由を音声で先に残す」
彼女はクランクへ向かって言った。
「午後八時十一分二秒。機材移動と左肩疼痛のため、固定映像を十秒中断します。舞台側映像の連続性を保証しません。退出口の記録を優先します」
止める。
劇場の音だけが続く。
七瀬は右手も三脚へ置いた。
二人で押す。
十秒では足りない。
十二秒。
十三秒。
焦りが肩へ力を入れる。
「急がないで」
真琴。
「十秒と言った」
「予測です。契約ではない」
「記録へ残る」
「十三秒であることも残してください」
「失敗になる」
「事実です」
七瀬は笑いそうになった。
真琴に言われると腹が立つ。
正しいから、なおさら。
「十三秒。移動完了」
撮影を再開する。
画角の中央には南口。
舞台は左端に、半分だけ入る。迅の足と、カナタの赤い袖。顔はない。
それでいい。
物語の中心は、顔のある人間だけではない。
舞台袖から、小道具係の少女が走ってきた。
「今、カナタさんがすごいこと言いました」
「何を」
「《僕は役を――》えっと、捨てるじゃなくて」
後ろから別の係が言う。
「《役を返す》だ」
「違う。《役を降りる》」
三人目は、《名前を返す》と聞いたと言った。
七瀬は主記録の画角を確認する。舞台は左端に足だけ。カナタの顔も声も入っていない。
「もう一度言ってもらいますか」
真琴が訊く。
「言わせれば、撮れます」
「記録としては」
「再演です」
「本人が同じ意思なら」
「同じ言葉でも、最初の決断ではない」
七瀬は補助紙へ書いた。
《午後八時十二分から十五分の間、紅葉カナタが舞台上で役に関する宣言を行ったとの複数証言。主記録には未収録。文言は証言不一致。本人への確認は、現在の安全作業を妨げない時点で行う。》
「空白で残す?」
小道具係の少女が訊く。
「はい」
「大事なのに」
「大事だから、埋めません」
撮れなかった一文を、似た一文で救わない。
欠けた記録は、記録者の失敗でもある。
失敗を隠さなければ、誰かの決断まで偽物にはしない。
午後八時十二分
北西搬入口への道は、画面の外にある。
七瀬は撮影機を固定したまま、携帯用の小型記録器を腰から外した。主記録ほど長くは回せない。音と狭い画角だけ。左肩へ掛けず、胸へ留める。
「ここを離れます」
「主記録は」
「真琴、クランクだけ」
「私は撮影者ではありません」
「回転速度を変えない。画角を変えない。質問へ答えない」
「私の判断は」
「止める判断はしていい。理由を言う」
「条件が多い」
「嫌なら断って」
真琴はクランクを見た。
右手で署名する人間が、右手で他人の記録を回す。
「引き受けます。ただし五分。掲示説明へ戻る」
「了解」
「料金は」
「タマキに請求して」
「法務が記録を回した労務費を十四歳へ?」
「彼は会計」
「役割が便利すぎます」
「本人へ言って」
七瀬は記録台を離れた。
自分の機械を他人へ預けるのは、左肩を手術するより怖いと思った。
手術は医師の仕事だ。
クランクは、ずっと自分の仕事だった。
中央通路を横切る。
観客の視線が七瀬へ向く。
「記録屋、どこへ行く」
二階席から声。
「出口の確認です」
「舞台を撮れ!」
「舞台は撮っています」
「今、狼が王を倒すぞ!」
「見たい人が見てください」
「おまえの映像で後から見る!」
「後から見る権利は、今ここにいる人を残す理由になりません」
言い返したせいで、足が止まる。
また台詞になった。
乱馬が舞台から拾う。
「記録屋は未来の観客を選んだ! 今夜の我らより、まだ来ぬ者を!」
七瀬は振り返らない。
「違います」と言えば、続きを与える。
走らない。
凱のように歩く。
ただし、見られていない姿勢で。
南口の前を通る時、父親が声を掛けた。
「娘が帰りたいと言っています」
「聞きました」
「劇場は待てと」
「別の出口を確認中です」
「いつ」
「分かりません」
「何分なら待てばいい」
タマキの質問に似ている。
七瀬は答えを作らない。
「三分後に、分からないままなら戻って説明します」
「開くとは言わない?」
「私が決められません」
「正直ですね」
「不親切でもあります」
「娘は、嘘より不親切の方がいいそうです」
少女が紙仮面を上げた。
「壁走り、見た」
「どうでした」
「すごかった」
「拍手した?」
「した」
「帰る?」
「うん」
七瀬は小型記録器へ目を落とす。
「今の言葉を残してよいですか」
少女は父親を見る。
父親は答えない。
「顔は撮らない?」
「撮らない」
「名前は」
「言わなくていい」
「じゃあ、声だけ」
「了解」
七瀬はレンズを床へ向けた。
紙仮面の影だけが入る。
「壁走りはすごかった。拍手した。帰りたい」
三つは矛盾しない。
券面は一つの音へ押し込めようとした。
子どもは一息で分けた。
午後八時十四分
舞台裏の細い扉を抜けると、音が変わった。
客席の拍手は壁を通り、海のような低い響きになる。代わりに聞こえるのは、装置の歯、足音、短い指示、滑車の軋み。
匿名の技師が待っていた。
顔へ黒い布を巻いている。
「それ、余計に目立ちます」
七瀬。
「撮られないためです」
「顔は撮らないと言いました」
「あなたは。劇場の記録機は別」
天井角に小型カメラ。
乱馬側のものだ。
七瀬は手を伸ばさない。
壊せば証拠ではなくなる。
「名前は聞きません」
「助かります」
「役職」
「それも人数を絞れます」
「では、専門だけ」
「舞台機構」
「北西搬入口を観客へ使える根拠」
技師は壁の図面を指す。
「回転床の外。奈落と交差しない。防火区画は二枚。搬入坂は幅三・六。床荷重は十分。ただし照明が暗い。仮設手すりなし。今のまま千人を流せば転倒します」
「何人なら」
「一分十五から二十。急がせなければ」
「車椅子」
「南の平場口が必要です。そちらは床停止後」
「出たい人を分ける」
「分けると、差別だと言われます」
「順番の理由を公開する」
「理由を聞かれます」
「説明する」
「怒る人もいます」
「怒る権利は止めません」
技師は黒布の奥で息を吐いた。
「あなた、映像だけの人だと思っていました」
「私はあなたを、手だけの人として撮りました」
「仕返しですか」
「配慮です」
「似ていますね」
「違います。たぶん」
技師は封印鍵を見せた。
赤い蝋で留められている。
「開ければ、私の記録が残ります」
「顔を隠しても」
「鍵番号で分かる」
「開けますか」
「群集事故の危険があると、舞台監督が判断すれば」
「あなたは」
「危険になる前です」
「判断を誰へ預ける」
「……預けたくありません」
七瀬は小型記録器のレンズを床へ向けたままにする。
「今の言葉、残しますか」
「声で分かる」
「文字へします」
「筆跡」
「私が書く」
「あなたの記録になる」
「行動はあなたのままです」
技師は封印鍵を握った。
すぐには破らない。
「手すりが先です」
「轟が来ます」
「照明」
「七瀬、と書けば私に来ると思った?」
「記録の灯りを使えるかと」
「一台分。出口へ向けるなら舞台全景が暗くなる」
「選べますか」
七瀬は答える。
「もう選びました」
主役から外した照明を、出口へ回す。
技師が内線を取る。
「記録台の補助灯、北西へ転用。所有者の許可あり」
受話器の向こうで何か言われる。
「舞台が暗くなる?」
技師は七瀬を見る。
七瀬は頷く。
「舞台は、他の灯りがあります」
技師はそう答えた。
灯りを持っていく前に、坂を試した。
空の台車だけでは足りない、と轟が言った。
「空は従順すぎる」
台車へ衣装箱を二つ載せる。重さは人一人分に近い。だが、人は坂の途中で息を止め、振り返り、忘れ物を思い出す。
舞台監督は客席係を三人呼んだ。
革靴。
柔らかい室内履き。
片方だけ踵の減った仕事靴。
「走らない。前の人が止まったら、自分も止まる。手すりへ全体重を掛けない。怖ければ戻る」
轟が言う。
「戻ったら不合格ですか」
室内履きの係が訊く。
「道が不合格」
「私じゃなく?」
「人を試す道は、道じゃねえ」
最初の係が下る。
白い外套の反射で、敷板の継ぎ目が薄く浮いた。革靴の爪先が一度引っかかる。
「ここ」
係が自分で止まり、床を指す。
轟はすぐ直さない。
「どっちの足」
「右」
「靴底」
「硬い」
「次、左から踏めるか」
「試します」
二度目は通る。
通れたから問題なし、にはしない。硬い靴底で右足から入ると引っかかる、と板へ書く。
二人目は中ほどで立ち止まった。
「暗いです」
「どこが」
「坂下の人の顔。声を掛けられても、誰か分からない」
七瀬は補助灯の向きを床から人の胸元へ少し上げる。
段差の影が薄くなる。
「上げすぎ」
轟。
「顔と床、両方は」
「白布を二つにする」
替え外套を裂くことはできない。衣装係の条件がある。
技師が銀色の小道具盾を持ってきた。裏面は艶がない。灯りを坂下へ柔らかく返す。
「英雄の盾が、誘導板」
舞台監督が言う。
「英雄より働く」
轟。
七瀬は試験を撮る。
歩いた人の顔ではなく、靴、止まった位置、灯りの角度、書き込まれる時刻。
三人目の係は、坂へ入る前に手を上げた。
「撮られたくありません」
「顔は入りません」
「靴で分かる人がいます」
片踵だけが減った靴。