第136話 第六章「拍手の強制」後編
「何が」
「おまえは安全を守っているんじゃない。止めなかった過去を守っている」
カナタの目が鋭くなる。
「あなたは?」
「何だ」
「王の命令で助かった人を守ってるのか、王だった自分を守ってるのか」
回転床が停止した。
二人の間の隙間が袖への橋と揃う。
進める。
どちらも、すぐには動かなかった。
正しい道が開いても、身体は前の役を続けようとする。
凱は最初に一歩出した。
舞台中央ではなく、袖へ。
その一歩を、乱馬の拍子木が追った。
外周床が再び動く。
揃ったばかりの橋が外れ、袖までの隙間が開いた。
カナタは客席へ笑顔を向ける。
「――王よ! 民の剣は、なお裁きを求めます!」
台詞へ戻った。
拍手が起きる。
凱には、それが逃げた音に聞こえた。
午後七時五十一分
舞台は裁判から処刑場へ変わった。
迅の鎖が天井へ引かれ、両腕が上がる。
右手首を頭上へ持ち上げないよう、事前に高さは胸までと決めてあった。だが拍手連動で巻上げ機が強まり、鎖が予定より十センチ高い。
迅が顔をしかめる。
凱は王の階段を降りた。
「止めろ」
舞台袖の装置係へ言う。
係は首を振る。
「制御は中央です」
「中央は」
「乱馬さん」
乱馬は高座で客席を煽っている。
「狼へ、もう一度選ばせよう! 退くか、王へ膝をつくか!」
選択肢が二つしかない。
迅は鎖を見た。
磁石の継ぎ目。
本来なら左へ捻れば外れる。だが巻上げの張力で噛んでいる。
カナタが処刑人役の剣を持って近づく。
「右、下げる」
口だけで言う。
「早く」
迅。
「拍手が止まらない」
「止めろ」
「僕に言うな」
「今、剣を持ってる」
「鎖の係じゃない」
「舞台は全部、誰かの係じゃないって顔してるな」
カナタは剣を振り上げる。
観客は、鎖を断つ動きを期待する。
足首の誓痕が光る。
一歩。
振り下ろし。
鎖が切れる。
三動作が決まる。
カナタは一歩目を踏んだ。
迅が急に膝を折る。
鎖の角度が変わる。
予定した二歩目の位置では剣が右手首へ近すぎる。
カナタは順番を変えた。
振り下ろさず、剣を横へ投げる。
予告が外れ、反証が右足首へ返る。
身体が崩れる。
それでも彼は迅の腰へ肩を入れ、持ち上げた。
鎖の張力が一瞬抜ける。
迅が左手で磁石を外した。
二人が床へ倒れる。
観客は予定外の救助を、派手な殺陣だと思った。
拍手する。
カナタは床へ顔を伏せたまま笑った。
「成功した」
「足」
「痛い」
「笑うな」
「客がいる」
「俺は客じゃない」
「じゃあ、痛い」
笑顔が消える。
迅はカナタの右足首を見た。古傷の上に赤い反証痕が浮いている。
「続けるのか」
「幕まで」
「幕がない」
「最後にある」
「誰が下ろす」
カナタは答えない。
乱馬の拍子木が次の場面を呼ぶ。
床がまた回る。
凱は王冠を外した。
今度はカナタも止めなかった。
客席からざわめきが起きる。
乱馬が即座に声を張る。
「王は冠を捨てた! 民と同じ高さへ降りるために!」
拍手。
凱は王冠を床へ置く。
踏まない。
蹴らない。
ただ、そこから離れる。
王の外套を脱ぐ。
白い布が足元へ落ちる。
「凱!」
乱馬が初めて役名ではなく呼んだ。
「どこへ行く」
「袖だ」
「場面が終わっていない」
「俺の出演は終わる」
「客へ挨拶もなく?」
「まだ出られない客へ、先に挨拶はしない」
舞台の外周が止まる。
袖までの橋が揃う。
凱は歩き出した。
左膝は深く曲げない。階段ではなく平らな橋を選ぶ。一歩ごとに、王の姿勢が身体から落ちていく。
客席の一部が拍手した。
退場の演出だと思っている。
別の一部は静かだった。
怒っている者も、戸惑う者もいる。
凱は振り返らない。
振り返れば、その顔まで場面になる。
午後七時五十七分
舞台袖へ入った瞬間、凱は壁へ手をついた。
左膝ではない。
呼吸が浅い。
王冠を外しても、拍手の感触が頭皮に残っている。
衣装係が白い外套を拾って追ってきた。
「次の場面があります」
「出ない」
「衣装は」
「預ける」
「汗が付いています」
「洗浄費を払う」
「そういう意味では」
「では何だ」
衣装係は答えられない。
役を降りた人間を、どう扱うかの台詞がない。
凱は舞台裏の見取図を取った。
轟が引いた搬入口までの線。
転換時刻。
外周床の停止位置。
南口の階段幅。
華やかな中心から一枚隔てた裏側では、装置係が走り、照明係が数字を叫び、衣装係が針を拾っている。誰も凱へ拍手しない。
それが落ち着いた。
「非常口の状態を確認する」
舞台監督が立ちはだかる。
「出演者は楽屋へ」
「今は出演者ではない」
「では関係者通路から出てください」
「客を置いて?」
「誘導は劇場の仕事です」
「仕事をしていない」
「転換中です」
「転換を止める時刻は」
「乱馬さんが決めます」
「客が帰りたい時刻は」
「終演後です」
「同じ答えを何度言えば、正しくなる」
「安全規程です」
「規程を見せろ」
声が王の命令へ近づく。
凱は言い直す。
「俺には命令権がない。確認させてくれ。客席を一斉に動かさず、出たい者だけを通す方法を探す」
「公演妨害になります」
「公演を続けるための安全確認でもある」
「乱馬さんの許可が」
「おまえの判断は」
舞台監督が黙る。
凱は待った。
命令で埋めない。
「……搬入口なら、転換床と交差しません」
「鍵は」
「非常封印です」
「開ける条件」
舞台監督は答える前に、客席の音を聞いた。
乱馬が第三景を始めている。
迅の鎖が外れ、カナタが倒れた場面を、民の剣の犠牲へ組み替えていた。
拍手が来る。
舞台監督の口が、その拍手の大きさを測るように動く。
「封印鍵は、北西の舞台機構室です」
「鍵を持つ者は」
「機構技師」
「本人が開ける条件は」
「火災、構造事故、群集事故の切迫」
「途中退出できない状態は、切迫に入るか」
「前例がありません」
「今が最初だ」
「それを私が決める?」
「あなたは舞台監督だ」
「肩書きで押すな」
舞台監督の声が硬くなる。
凱は息を吸った。
また同じことをした。
役を降りても、相手へ役を着せて決断させる。
「訂正する。あなたが決めなければならないとは言わない。判断材料を集めたい。案内してくれるか」
「乱馬さんの許可は」
「取らない」
「私が処分されます」
「俺が責任を」
「あなたが取ると、私の判断が消える」
凱は口を閉じた。
責任を引き取る言葉も、相手の行為を自分の物にする。
「では、あなたはどうしたい」
「公演を続けたい」
「理由は」
「今夜で紅牙座を辞める照明助手がいます。最後の公演です」
「その人は続行を望んでいる?」
「聞いていません」
「聞けるか」
「持ち場を離せない」
「内線は」
「あります」
「なら聞く。それから決める」
「客は待つ」
「待っていると伝える」
「乱馬さんが台詞にします」
「台詞にされても、聞く」
舞台監督はしばらく凱を見た。
「元王は、質問が増えましたね」
「減らし方を忘れただけだ」
「前は答えを作った」
「今も作りたい」
「正直で困る」
「俺も困っている」
舞台監督は内線を取った。
照明助手を呼ぶ。
三度目で応答。
「最後の公演を続けたいか」
舞台監督が訊く。
受話器の向こうは、すぐ答えなかった。
凱は待つ。
「……最後まで光を当てたい。でも、出口へ一灯回しても最後にはなる」
若い声。
「公演が途中で止まっても?」
「途中へ当てた光も、自分の仕事です」
舞台監督の表情が変わる。
自分が守ろうとした他人の希望が、自分の予想と同じではなかった。
「了解」
受話器を置く。
「北西へ行きます」
「案内を頼む」
「あなたが客席へ出ると、また王の場面にされます。裏通路を」
「分かった」
「膝は」
「階段は避ける」
「裏通路にも四段あります」
「手すりは」
「右側」
「使う」
凱は、壊れた鈴から手を離した。
午後八時
劇場の裏は、舞台より暗く、道が多かった。
衣装庫。
楽器庫。
奈落へ下りる梯子。
回転床の外周。
北西搬入口。
壁へ貼られた見取図は、客席用の案内図と向きが逆である。
凱は図を外さない。
自分が歩く向きへ紙を回す。
舞台監督が言う。
「王様は地図を回さないと思っていました」
「王ではない」
「凱さんは?」
「迷う時は回す」
「迷うんですね」
「今、三回目だ」
最初の四段で、左膝が突っ張る。
深く曲げず、一段ごとに右足へ体重を移す。
舞台監督は先へ行かない。
待つ。
凱は、待たれることへ苛立ちそうになる。
「先に行っていい」
「扉が重い」
「俺に持たせる気か」
「二人で開けます」
命令でも介護でもない。
役割分担だった。
北西通路の前に、轟がいた。
壁へ右耳を当てている。
左腕は胴へ近い位置。手術した肩を上げず、右手で白墨を引く。
「床は」
凱。
「ここは回らん。客席側の防火扉から先、幅二・四。搬入坂三・六。手すりなし」
「人は流せるか」
「一度に千は死ぬ。一分十五なら歩ける」
「断言するな」
「歩ける。安全とは言ってねえ」
舞台監督が図を見る。
「外は屋台通りです」
「出口前を空ける係が要る」
轟。
「何人」
「四。内二、外二。坂上に灯り。下に滑り止め。柵二本」
「柵はどこから」
「舞台」
「公演を壊す」
舞台監督が言う。
「道を作る」
轟。
「同じ物だ」
「違う仕事だ」
凱は見取図へ丸を付ける。
「南口は」
「回転床が完全停止した時だけ平場で開く。車椅子はそっちがいい」
「開く時刻を、誰が決める」
「床係。今は乱馬の拍子木で動かしてる」
「床係本人の停止判断は」
「聞け」
轟は壁を二度叩いた。
中から空洞の音。
「ここへ放送線を通せる」
凱は舞台監督を見る。
「床係へ訊く。照明係へ一灯を頼む。技師へ封印条件を確認する。客席へは、一斉退出ではなく希望者の経路を説明する」
「誰が説明を」
「俺が――」
言いかけて止める。
凱が言えば、また全員へ届く。
「一列ずつ。係員ができるか」
「人数が足りません」
「俺は係員ではないが、手伝える」
「あなたが出ると、注目が集まる」
「裏で運ぶ」
「王役の人が?」
「役は降りた」
「それでも顔を見れば、客は王だと思います」
舞台監督が言った。
「なら、顔を見せない仕事をする」
凱は壁際の運搬籠を取った。中に、油灯が六つ入っている。
「北西へ運ぶ」
「膝で階段は」
「階段を使わない。衣装搬入の平路がある」
「誰が教えた」
「さっき、機構班へ訊いた」
命令ではなく、質問で得た道だった。
若い客席係が二人、近くに立っている。一人は籠へ手を伸ばし、もう一人は動かない。
凱は二人へ同時に言わない。
「北西の灯りを運ぶ人が一人必要だ。舞台監督の指示下。希望するか」
手を伸ばした係が頷く。
もう一人は首を横へ振った。
「私は南口へ戻ります。家族席の説明が途中です」
「了解」
凱は引き止めない。
断った係の方が、少し驚いた顔をした。
王の声で訊かれると、拒否まで試されているように聞こえる。その癖を、凱は一夜では消せない。
「今の返事で不利益はない」
「分かっています」
「本当に?」
「二度訊かれる方が、不安になります」
凱は口を閉じた。
正しさを確認しすぎると、相手の返事を疑う形になる。
「南口を頼む」
「それは命令?」
係が笑って訊いた。
「あなたが選んだ仕事の確認だ」
「長い」
「正確だ」
籠を持った係が吹き出す。
笑われたことで、凱の声は少しだけ人間の高さへ下りた。
凱と係員は、灯りを持って平路へ入った。
最初の曲がり角で、一灯が消える。
風ではない。籠の金具が芯へ触れた。
「交換する」
凱が言う。
「待ってください」
係員は灯りを取り出し、芯を二ミリ上げた。火が戻る。
「運ぶ人が直せる物は、予備を減らせます」
「予備は減らさない」
「重い」
「重いなら二度運ぶ」
「二度目まで、出口が暗い」
凱は黙った。
正しい手順を一つに決めるより、どの不都合を先へ置くかを選ぶ場面だった。
「四灯を先に運ぶ。二灯は予備として後便。どう思う」
「賛成。私が先便を持ちます。あなたは膝があるので後便」
「膝は持ち物ではない」
「置いてこられない物は、荷物です」
凱は反論できなかった。
四灯だけを籠へ残す。
減らした重さで、係員の歩幅が自然に速くなった。凱は追わせず、自分が遅れる。
先頭でなくても、道は確認できる。
舞台監督は、ようやく小さく頷いた。
凱は見取図の北西に、鉛筆で一つ丸を付けた。
勝つ場所ではない。
降りる場所だった。