第135話 第六章「拍手の強制」前編
十一月二十七日 午後七時四十二分
命令は、従われた瞬間より、従わせられると分かった瞬間の方が甘い。
第二幕は、裁判の形をしていた。
円形舞台の中央に凱。
右側に迅。狼面を外され、両手首を銀の鎖で繋がれている。鎖は舞台用で、強く引けば途中の磁石が外れる。ただし客席からは鉄に見える。
左側にカナタ。赤青の半面を着け、《民の剣》という役を演じる。
客席を背に、乱馬が裁判長の高座へ上がる。
「王よ」
低い声が、石造りに見せた舞台壁へ響く。
「この狼は、退いた。民を置き、道を捨て、王の命へ背いた。されど狼は言う。退くことは選ぶことだ、と」
客席から笑いは起こらない。
誰もが先を待っている。
乱馬は右手を上げた。
照明が凱の王冠だけを拾う。
「ならば、民へ問え。王に従う者は、その手を鳴らせと」
凱の次の台詞は、三日前から変わっていない。
《我が道を望む者よ、拍手をもって誓え。》
十二文字と、句読点。
言えばよい。
芝居の台詞として。
台本に署名はしていない。出演契約も、内容に異議を付したまま仮受領だ。だが舞台へ上がった。衣装を着た。九百八十六人が見ている。
凱は客席を見た。
前列の少女が赤青の紙仮面を膝へ置いている。その父親は、暗い出口表示を二度見た。
二階席では白髪の男が、乱馬の回転舞台を楽しそうに見下ろしている。
中央通路の若者たちは、凱が息を吸っただけで手を構えた。
言えば鳴る。
その確信が、喉の奥へ温かい物を流した。
過去に何度もあった。
凱が「開け」と言えば門が開く。
「下がるな」と言えば人が踏みとどまる。
「俺が負う」と言えば、迷っていた者が動く。
命令が人を助けた記憶は、命令が人を奪った記憶より使いやすい。
胸元の壊れた鈴が、音もなく震える。
「我が――」
客席の手が上がる。
凱は続きを言えなかった。
舞台の静寂が長くなる。
一秒。
二秒。
三秒。
凱の誓痕が、喉から胸へ熱を持つ。
守る対象を言え。
目的を言え。
道を示せ。
昔の身体が、昔の王を呼び戻す。
だが、今言えば、拍手は芝居への喝采ではなくなる。
彼の声が、それを命令へ変える。
客席の誰もが同じ意味で手を鳴らすわけではない。それでも凱が主語を一つにすれば、違う理由の手が一つの群衆に見える。
凱は口を閉じた。
乱馬の拍子木が鳴る。
「御覧じろ!」
高座から降り、凱の沈黙の横へ立つ。
「王は求めぬ。命じぬ。民の自由を信じ、ただ待つ! これぞ慈悲だ!」
客席から最初の拍手が来た。
小さい。
次に、別の列。
凱が命じなかったことへの拍手。
乱馬の即興が美しかったことへの拍手。
息詰まる沈黙から解放されたことへの拍手。
それらが重なり、第一幕より大きな音になる。
凱は何も言っていない。
それでも彼の沈黙が、王の慈悲という台詞へ変えられた。
乱馬は片膝をつく。
「王よ。民は自ら選んだ」
凱は高座の後ろにある拍手量計を見た。
針が赤域へ入る。
床下の歯車が回り出す。
出口表示は点かない。
その時、前列で紙の王冠が落ちた。
金色の輪は椅子の下を抜け、ゆっくり回る外周床の継ぎ目へ滑る。
少女が手を伸ばした。
父親は舞台を見ている。
王冠はただの紙だ。
だが子どもにとっては、今夜買った物で、今落とした物だった。
少女が席を立つ。
回転床との間は、幅十五センチ。
そこへ指を入れれば、紙より先に手が巻き込まれる。
凱は考えなかった。
「前列右、子どもを止めろ。床へ触れさせるな」
主語。
対象。
目的。
声が劇場を貫いた。
王と呼ぶ観客の視線が一斉に凱へ集まる。
胸の割れた鈴が、今度は本当に鳴った。
低い一音。
足元から白い線が伸びる。
王路不退〈キングス・ロード〉。
凱が退かずに進んだ距離を、彼を王と見る者たちの前で力へ変える誓痕。
今夜、凱はまだ一歩も舞台の外へ退いていない。
前列の父親が即座に娘の腰を抱く。
隣の女が王冠を靴で止める。
係員が非常停止紐へ手を掛ける。
三つの動きが、命令より早く繋がったように見えた。
少女の指は床へ届かない。
王冠だけが継ぎ目へ噛み、金色の紙を半分に折られて止まる。
怪我はない。
凱の胸へ、安堵が入る。
その直後に、歓喜が来た。
自分の声が届いた。
千人の空気が、一度で変わった。
この感覚を、彼は知っている。
嫌っていたのではない。
恐れているだけでもない。
好きだった。
必要な声を一度で通すことが。
迷いを一つの動きへ変えることが。
誰かが助かった結果を、自分の決断と結びつけることが。
客席から拍手が起こる。
今度は明確だった。
子どもを守った命令への拍手。
乱馬は、その明確ささえ逃さない。
「王の声は、舞台の外にも道を作る!」
照明が凱へ集まる。
少女の父親は娘を抱いたまま、強く手を叩いた。
助かった人間が拍手する。
それを政治へ数えるなと、誰が言える。
言うべきだった。
凱は喉を開く。
「今の指示は安全のためだ。統治案への――」
言葉が途中で消えた。
客席の左側で、老人が立てなくなっている。
凱の命令が届いた瞬間、前へ出ようとしていた全員が一度止まった。その中に、杖で身体を支えていた老人もいた。急停止で重心を崩し、椅子へ尻餅をついたのだ。
怪我ではない。
だが、彼は凱を見ていない。
自分の膝を押さえている。
一つの指示で守られた子ども。
同じ指示に身体を乱された老人。
命令は、届いた人数だけ成功するのではない。
届き方の違う身体を、成功の外へ押し出す。
凱は舞台上から頭を下げた。
「前列左の方。急停止させた。痛みがあるなら救護を呼ぶ」
老人は杖を上げた。
「芝居を続けろ!」
笑いが起きる。
老人も笑っている。
だから問題が消えたわけではない。
許した本人の笑顔を、命令の正しさへ利用してはいけない。
乱馬が静かに言った。
「御覧のとおり、民は王の道を望んでいる」
「今のは道ではない」
「では何だ」
「事故を止めただけだ」
「統治とは、事故を止め続けることではないのか」
「続ける者を選べることだ」
「今、皆が君を選んだ」
「紙の王冠を取る間だけだ」
「時間を短く言えば、責任も小さくなる?」
凱は返せなかった。
子どもの王冠は、半分に折れて父親の手へ戻っている。
助けた結果は本物だ。
その本物を、乱馬が大きくする。
大きくされた意味の中に、凱自身の快感も隠せない。
「違う」
凱は言った。
乱馬は顔を上げる。
「何が」
「俺は待ったのではない。言えなかった」
「観客には同じだ」
「同じではない」
「なら、違いを演じろ」
「演じれば、おまえが場面へ入れる」
「舞台にある物へ、演出家は入る」
乱馬が微笑む。
「沈黙も台詞だよ、凱」
「俺の沈黙だ」
「客の前へ置いた」
「奪うな」
「奪ってはいない。増やした」
客席には二人の会話が聞こえている。
それもまた芝居に見える。
迅が鎖を引いた。
磁石は外れない。
「凱」
「分かっている」
「分かってない顔だ」
「おまえよりは」
「王の悪口として弱い」
客席から笑いが起きた。
迅は舌打ちする。
「笑わせるな」
「おまえが言った」
「拾うな」
乱馬は両手を広げる。
「即興は、誰の所有物でもない!」
また拍手。
凱は理解した。
正しい台詞を言えば勝てるのではない。
間違った台詞を拒んでも、拒んだ姿が別の正しさへ回収される。
舞台上で意味を取り戻すには、より強い台詞が必要になる。
その競争を始めた時点で、乱馬の演目が続く。
勝利条件は台詞ではない。
舞台から降りることだ。
だが、客席の出口は暗い。
出演者だけが先に降りれば、閉じた劇場へ観客を置く。
凱は左膝へ力を入れた。
王冠を外そうとする。
その手を、カナタが掴んだ。
「まだ」
舞台用の明るい声ではない。
小さく、低い。
「放せ」
「転換が終わってない」
「役を降りる」
「今はだめ」
「誰が決めた」
「床」
カナタが足元を指す。
王宮の外周はまだ回っている。凱が袖へ向かえば、二メートルの隙間を跨ぐ必要がある。左膝では危険だ。
「止まるまで十八秒」
「その後は」
「次の台詞」
「言わない」
「言わない場面を、乱馬が拾う」
「なら、おまえも降りろ」
カナタの指が強くなる。
回転床が停止するまでの十八秒は、二人にとって長すぎた。
カナタの指は凱の手首へ食い込んでいる。
握力は強くない。
放したくない意思だけが強い。
「公演を壊す気?」
「客を閉じた公演なら」
「壊した後、誰が怪我を止める」
「今、止める」
「だから十八秒待ってる!」
「十八秒後も、おまえは次の十八秒を言う」
「装置がある。人がいる。急に降りれば全部ぶつかる」
「なら、降りられる場面を作れ」
「それは演出だ」
「やれ」
「命令するな!」
カナタの声が割れた。
舞台用の呼吸から外れ、喉の奥で擦れる。
凱は、自分の手首を掴む彼の指が震えているのを見た。
「おまえは、全体を決めるのが怖いのか」
「怖いよ」
即答だった。
「舞台は一個だ。僕が一つ変えたら、照明も床も役者も客も変わる。正しかったかは最後まで分からない」
「それでも誰かが決める」
「乱馬が決める」
「だからここまで来た」
「ここまで来られた」
カナタは客席を見た。
拍手。
笑い。
夢中で見上げる顔。
「この舞台、面白いだろ」
「ああ」
「僕は、これで生きてる。衣装係も、照明も、役者も。止めたら、券代だけじゃない。今夜まで稽古した時間を、僕が無駄にする」
「無駄かどうかを、おまえ一人が決めるのか」
「終われば、少なくとも作品になる」
「怪我人が出ても?」
「出さない」
「帰りたい客が帰れなくても?」
「終演まで守る」
「終演まで閉じる、の間違いだ」
「言葉で勝った顔をしないで」
「していない」
「してる。王様の顔」
凱の手が、胸の壊れた鈴へ触れた。
否定する前に、カナタが続ける。
「あなた、さっき嬉しかったでしょ」
「何が」
「子どもを止めた時。皆が一度で動いた。自分の声が正しい場所へ届いた」
凱は黙る。
「僕も同じだよ。客が次を待つと、身体が先に分かる。三つの動きが見える。失敗しない。全員の期待が一本の道になる。あれは、気持ちいい」
「だから従うのか」
「だから怖い」
「怖いなら、やめろ」
「簡単に言うな」
「簡単ではない」
「あなたは王冠を置けば、元王になる。僕が舞台を降りたら、何になる?」
「紅葉カナタだ」
「それで客は金を払う?」
「知らない」
「知らないのに言う」
「おまえも、怪我を出さないと言った」
二人は互いに、できない約束を指す。
回転床が九十度を過ぎる。
客席には、王と民の剣が向かい合う緊迫した場面に見えている。
乱馬は入ってこない。
口を挟まない方が、観客の期待が高まると知っている。
カナタは凱の手を放した。
「前に、舞台裏で一人倒れた」
声は低い。
「誰だ」
「名前は言わない。本人が、勇気の話にされたくないって」
「何が起きた」
「転換の十七秒前。倒れた。次の場面の合唱が始まって、舞台監督は救護を入れた。乱馬は場面を止めず、僕にその人の台詞を渡した」
「死んだのか」
「生きてる」
「なら」
「だから成功した」
カナタが笑った。
舞台の笑顔ではない。
口だけが歪む。
「救護も入った。客も気づかなかった。公演も終わった。倒れた本人まで、迷惑を掛けずに済んだって言った。全部、正しかった」
「何が悪い」
「誰も『止めてもよかった』って言わなかった」
凱の喉に、言葉が止まる。
「次の公演で、僕は同じ場所を通った。倒れなかった。だから、止めなかった判断がもっと正しくなった」
「それで今も」
「十八秒を待つ」
「違う」