第134話 第五章「一幕目」後編

 橋は回転床から斜めにせり上がり、下へ黒い布の水が流れる。照明だけで深さが生まれる。

 台本では、獣が自分の命を守るため退き、王が民を背に進む。

 迅は橋の上で凱を見た。

「退いた者よ」

 凱が言う。

「おまえは、何を守った」

 予定された問い。

 獣の答えは、《恐れだけだ》

 迅は客席の奥を見た。

 七瀬のレンズとは目が合わない。

 その下の最後列。

 紙の王冠の少女。

 旋盤工。

 拍手を政治に使われたくないと言った男かどうかは分からない。

 千人の顔は、一つに見える距離だった。

「退かなかった奴の数も数えろ」

 迅は言った。

 台本にない。

 凱の目が動く。

「何だと」

「帰れなかった奴を、勇気にするな」

 客席の空気が変わる。

 拍手はすぐに来ない。

 誰かが息を吸う。

 誰かが咳をする。

 誰かが、小さく「そうだ」と言う。

 乱馬は、沈黙を待った。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 そして拍子木を打つ。

「獣は死者を数え、王は生者を数える! どちらが正しいか、客席よ、次の幕で決めよ!」

 音楽が入る。

 橋が回る。

 迅の反抗は、見事に次幕の煽りへ変わった。

 拍手が起きる。

 大きい。

 今の一言へ賛成した拍手。

 乱馬の返しが巧かった拍手。

 凱と迅の対立をもっと見たい拍手。

 全部、同じ音になる。

 七瀬は撮る。

 音だけでは理由が分からないことも含めて。

 舞台の両脇で、赤い灯が順に点いた。

 拍手の音量を拾う機械式受音板が動き、次幕の装置へ圧を送る。回転床が予定より速く回り、照明橋の滑車が連続して鳴る。

 主扉の前へ、白王の宮殿壁が滑り込んだ。

 出口表示が一つ、隠れる。

 右側。

 七瀬は画角の端で確認する。

 二番通路の表示も、群青の幕が下りて消える。

 左側では、雨室の壁が閉じる。

 三番。

 四番。

 装置は演出どおりに動いている。

 非常時には壁が上がる設計だ。

 だが、途中で帰りたい人のためには上がらない。

 客席は拍手している。

 出口を見ている者は少ない。

 七瀬の固定画角には、舞台も、消える扉も入っている。

 どちらへ寄ることもできる。

 固定しているのは三脚であって、責任ではない。

 五番表示が消えた。

 六番。

 最後に、主扉上の赤い文字が装飾幕の陰へ入る。

 画面の左右から、出口の光がなくなった。

 舞台中央だけが明るい。

 拍手は、まだ続いていた。

 午後六時五十八分。

 第一幕の幕が下りた。

 客席灯は半分だけ戻る。完全に明るくすると、宮殿壁の裏側や吊り線が見えるからだ。劇場は休憩まで物語を守ろうとする。

 人々が立った。

 拍手するためではない。

 便所。

 飲み物。

 外気。

 友人へ感想を言うため。

 帰るかどうか決めるため。

 立つ理由が増えると、千席は急に千人へ戻った。

 七瀬は三脚の固定を確認し、画角を広げた。舞台中央には下りた幕。左右には、人の流れ。出口表示のうち四つは装飾壁の陰に残り、主扉だけが開いている。

 先ほど二階通路で立った女が、階段を下りてきた。

 紺色の仕事着。右手に鞄。左手で手すりを強く握っている。

「帰れますか」

 係員へ訊く。

「幕間中は主扉をご利用いただけます。再入場はできません」

「次の夜勤があるので」

「公演、面白くなかったですか」

 係員は、責めるつもりではない声で訊いた。

 女は困った。

「面白かったです。壁を走った人、すごかった」

「では、第二幕も――」

「面白いと、帰っちゃいけない?」

 係員が黙る。

 質問ではなく、許可を求める形に聞こえたからだ。

 七瀬はレンズを女の足元へ向けた。撮影してよいか、まず訊く。

「顔なし、声なしなら」

「退出時刻と、理由の要約は」

「夜勤。あと、見たいけど帰る」

「了解」

 女は扉を出た。

 外から冷たい風が入り、舞台の赤い幕をわずかに膨らませる。

 それを見ていた紙王冠の少女が、母親の手を引いた。

「道、見に行く」

「戻れないって」

「見るだけなら?」

 母親が係員へ訊く。

「扉を越えなければ戻れます。ただし通路を塞がないでください」

 二人は出口まで歩き、敷居の手前で止まった。外の屋台の湯気。帰りの車。広場の灯り。戻る道があるうちに、出る道を見る。

「第二幕、見たい」

 少女が言う。

「途中で怖くなったら」

「その時、また道を訊く」

 母親は頷いた。

 二人は席へ戻った。

 退出しなかった。

 だから同意した、とは限らない。

 通路の反対側では、白髪の男が団扇を胸へ挟み、主扉へ向かっていた。階段を一段下りるたび、膝を休める。

「お手伝いします」

 係員が腕へ触れようとする。

「触る前に訊きな」

 男は言った。

「失礼しました。腕を支えてよいですか」

「右だけ」

 支えられながら、男は舞台を振り返った。

「王様は声がいい。狼は口が悪い。半分の面の子は、落ち方がきれいだ」

「最後まで御覧にならなくてよろしいですか」

「腹が減った」

「売店がございます」

「家の煮物の方がうまい」

 係員が笑った。

 男も笑う。

 主扉を越える直前、舞台へ一度だけ手を叩いた。

 ぱん。

 拍手したまま帰る。

 券面の十九行は、その動作を一つの矢印へしようとする。

 本人の足は、反対へ向いていた。

 午後七時十二分。

 休憩終了の五分前を知らせる鐘が鳴る。

 売店前の列が崩れ、客が席へ戻り始めた。串菓子を買えなかった子どもが泣く。紙王冠を二つ重ねた若者が、第一幕の迅の退きを真似して後ろ歩きし、椅子へぶつかる。

「本物より危ない」

 迅が舞台袖から言った。

「本物は七歩で止まるから」

 若者が返す。

「六だ」

「舞台では七だった!」

「だから真似するな」

 若者は笑い、普通に歩いて席へ戻った。

 七瀬も少し笑った。

 面白さは、警告だけでは消えない。

 消す必要もない。

 午後七時二十一分。

 予告の拍手練習が始まった。

 客席係が、第二幕の合図を説明する。

「白王が右手を上げましたら、三拍。案内人が《次は三つ》と告げましたら、動作ごとに一拍。終幕の判断は、座長の合図に従ってください」

 観客が試す。

 ぱん、ぱん、ぱん。

 揃わない。

 もう一度。

 今度は近い。

 劇場の音響係が、その三秒を別の記録器へ収めるのを、七瀬は見た。

「用途」

 最後列から訊く。

「音量調整です」

「再生しますか」

「必要な場合、転換確認用に」

「客席へ流す?」

 係は答える前に、舞台袖を見た。

 乱馬の姿はない。

「確認します」

「時刻と担当を記録します」

 七瀬はそう言い、音源箱を画角の右端へ入れた。

 何かが起きた証拠ではない。

 起こせる道具が、そこにあるという記録だった。

 午後七時三十八分。

 二度目の鐘。

 主扉が閉じる。

 紙王冠の少女は席にいる。

 夜勤の女と白髪の男は、もういない。

 空いた二席へ、誰も代わりに座らない。

 暗闇が戻る前、七瀬はその空席を三秒だけ撮った。

 舞台が人を一つにするなら、空席は、一つにならなかった人を消さない。