第133話 第五章「一幕目」前編

十一月二十七日 午後五時四十七分

 客席が暗くなると、人は同じ方向を見る。

 同じものを考えているように見えるのは、そのせいだ。

 火群七瀬は、八旗祝祭劇場の最後列中央へ三脚を立てた。

 高さ、九十二センチ。

 舞台正面まで、三十七・四メートル。

 画角の左端に一番通路。

 右端に八番通路。

 上端に照明橋。

 下端には、最後列の背もたれが入る。

 千席全部は映らない。

 映るのは、舞台と客席の境目。そして、左右の主扉が開いている状態。

「午後五時四十八分二十秒。固定記録位置を確認」

 七瀬は声に出した。

 手回し撮影機の横で、青いガラスの旗芯〈コア・ピン〉が淡く光る。

 始めたあと、故意に切らない。

 映像を盛らない。

 撮影中に嘘を言わない。

 それだけで、カメラが世界全部になるわけではない。

 今日の七瀬は、そのことを最初から記録する。

「撮影開始」

 クランクを回した。

 一定の重さ。

 右手。

 左肩は、布の支持帯で下げる。三脚へ荷重を預け、身体を機械の後ろへ置く。

 開演まで十二分。

 観客はすでに八百七十三人入っている。

 紙の王冠を被った子ども。

 工場帰りの作業員。

 南環市場の商人。

 白冠時代を知る老人。

 凱を嫌っている者。

 凱に救われた者。

 カナタの面を真似た化粧の若者。

 政治に関心がないと言いながら、どの旗の席へ座るかには迷う者。

 全員を《観客》という一語へ入れると、椅子だけが残る。

 七瀬は人数を数える。

 九百二十一。

 九百四十六。

 開演三分前、九百八十四。

 空席は十六。

 空席には理由がある。

 病気。

 仕事。

 返金。

 途中で怖くなった。

 券をなくした。

 まだ決めない。

 空席は沈黙ではない。

 人がいない場所へ、答えを勝手に置かない。

「七瀬」

 横から声がした。

 タマキだ。

 緑の帽子。胸より大きな鉄箱。今日は劇場係の赤い腕章を着けず、いつもの服のままいる。

「撮影中です」

「知ってる。届け物」

「送り主」

「巴」

「受取人」

「七瀬」

「目的」

「見える所へ置く」

 タマキは白い小板を見せた。

《撮影されています》

《退出を希望する人の顔は、本人の許可なく拡大公開しません》

 巴の短い文。

「私は拡大しないと決めていません」

「じゃあ受けない?」

「公開範囲は、退出者の安全確認後に決めます」

「札は嘘?」

「現時点では」

「直す」

 タマキは鉛筆を出す。

 《拡大公開しません》へ線を引き、《公開前に本人へ確認します》と書いた。

「これなら」

「はい」

「受領」

「料金」

「巴から」

「珍しい」

「先払い」

「もっと珍しい」

 タマキは小板を三脚の横へ結ぶ。

「札、まだ配れない」

「実行局が拒否?」

「入口で駄目って。客席では、欲しい人へなら渡していい。係が言った」

「誰が欲しいと判断する」

「欲しいって言った人」

「言う方法は」

「ない」

 七瀬はクランクを止めない。

「矛盾しています」

「だから箱にある」

「搬入口は」

「許可なし」

「轟さんは」

「壊してない」

「褒めるべき?」

「工賃が決まってないから」

 客席灯が一段落ちた。

 タマキが鉄箱の留め具を鳴らす。

「行く」

「どこへ」

「欲しいって言う方法を作る人へ」

「誰です」

「まだ分からない」

 彼は走らない。

 暗い客席で走れば、他人が立つからだ。小さな身体を座席の列へ沿わせ、舞台袖へ消える。

 午後五時五十三分

 最後列の一つ前で、席を間違えた男が立っていた。

 油の染みた作業着。胸の名札は裏返し。片手に紙袋、もう片方に二枚の券。

「七列の八番、どっちです」

 七瀬はクランクを回したまま、床の番号を見る。

「あなたの右から八席目です。ただし、そこは十五列です」

「七列って書いてある」

「七は区画番号。列は十五」

「同じ紙で数字を二種類使うなよ」

「券へ言ってください」

「券、喋るのか」

「喋らないから困っています」

 男は笑った。

 隣にいた老女が、彼の券を眼鏡の先で覗く。

「そっちは一階七区画。私は二階の七列。字が小さいねえ」

「婆さん、読める?」

「読めるけど分からない。年を取ると、その違いだけは上手になる」

 七瀬は二人を画面の端へ入れた。

 老女の券の裏には、真琴たちが問題にした条項がある。文字は小さくない。小さくない字で、日常の語から遠い文章が並んでいる。

 男は券を折り畳み、胸ポケットへ押し込む。

「拍手したら旗に数えるって話、本当か」

「券面にはそう書いてあります」

「芝居に拍手したいだけなんだが」

「その区別を記録する準備をしています」

「準備中か」

「はい」

「開演まで七分」

「時計は合っています」

「安心させる気がないな」

「ありません。正確にする気はあります」

 男は少し考えた。

「じゃあ、拍手する前に、何へ拍手するか口で言う」

「周囲には聞こえません」

「自分には聞こえる」

 老女が笑う。

「それなら私は、役者が転ばなかったら拍手する。王様にはしない」

「俺は転んだ方にする。上手く転ぶのも仕事だろ」

 二人は席を探しに行く。

 同じ劇を見る前から、拍手の理由は違っていた。

 七瀬の固定画角には、その会話は残らない。

 音声は拾う。顔は小さい。誰が何を言ったか、後で完全には結びつかない。

 無編集であっても、記録は失う。

 その事実を認めるのは、カメラを止めるより難しかった。

 舞台脇では、紅牙座の売り子が紙仮面を配っている。

 赤と青。

 右へ付ければカナタの笑顔。

 左へ付ければ、泣いているように見える。

 少女が父親へ尋ねた。

「どっちが本当?」

「両方、舞台の顔だろ」

「家の顔は?」

「家では外す」

「じゃあ家が本当?」

 父親は答えに詰まった。

 少女は仮面を裏返す。

 裏は白い紙だった。

「こっちが家」

 父親が笑う。

 七瀬は、その笑いを撮る。

 撮られていると知っている父親は、すぐ口元を手で隠した。

 七瀬はレンズを舞台へ戻さない。

 固定だから、もともと動かない。

 だが、見られた人間は自分で画面から降りる。

 退出は扉だけにあるのではない。

 午後五時五十九分。

 主扉が閉じた。

 七瀬は画面の両端で確認する。

 閉まる前、赤い非常灯は見えている。

 午後六時。

 拍子木が一度。

 暗闇に、朱の線が走った。

 二度目。

 群青の線が逆側から走る。

 二色が舞台中央でぶつかり、紅葉カナタの面になる。

 本人は、いつ現れたのか分からない。

 客席の誰もいない方から声がした。

「八つの道を抱く街よ、今宵だけは一つの夢を見よ」

 舞台上に彼はいない。

「ただし、夢は朝まで持ち帰るな。枕が重くなる」

 笑いが起きる。

 声が上から降る。

 照明橋。

 カナタは群青の袖を梁へ絡め、逆さにぶら下がっていた。

「次は三つ。落ちる。笑う。道を開く」

 観客が手を叩く。

 一つ目。

 カナタが手を放す。

 十メートルの落下。

 途中で細い帯が腰を取り、速度を殺す。客席には見えない。身体は回転し、右足から舞台へ降りる。

 二つ目。

 面の朱側を見せ、笑う。

 華やかなテノール。

 三つ目。

 群青の袖を床へ投げる。回転舞台が半周し、洪水後の街が現れた。

 傾いた家。

 割れた水路。

 濡れた市場。

 透明な雨が黒い照明を通り、本物より黒く見える。

 客席がどよめいた。

 七瀬も、息を止めかけた。

 映像で見れば仕掛けは分かる。

 現場で見ると、身体が先に信じる。

 乱馬の演出は、嘘を本物にするのではない。

 本物より早く、身体へ入れる。

 舞台奥から、赤黒い長羽織が現れる。

 紅城乱馬。

 金箔の顔を灯りへ向け、拍子木を開く。

「雨の後、人は旗を探した。旗の下、人は名を預けた。名を預けた者たちが最後に求めたのは――王だ」

 白い光。

 獅堂凱が立っていた。

 客席の音が、一度、消える。

 白い長衣。

 肩の八本線。

 胸の完全な鐘。

 本人より細く見える衣装なのに、舞台では本人より大きい。

 凱は玉座へ座らない。

 その前へ立つ。

「俺は、王を求めた声を聞いた」

 台本の台詞。

「だが、声のなかった者を数えていない」

 書き換えた一文。

 客席の一部がざわつく。

 七瀬はクランクを一定に保つ。

 凱は続ける。

「だから俺は、名を捨てろとは言わない。名を持ったまま、列へ入れ」

 喝采。

 白冠時代を知る者ほど強く叩く。

 嫌っていた者も、演技の力へ反応する。

 凱が一歩進む。

 左膝を庇う動きは、長衣の裾へ隠れている。だが七瀬には分かる。右足の着地が半拍長い。

 本人の傷を消す衣装。

 台詞は責任を足し、布は身体を引く。

 どちらも美化だった。

 同時に、凱自身が選んだ台詞でもある。

 舞台は、嘘と本人の境目を照明で消す。

 黒い獣は、床下から出た。

 奈落の蓋が開く。

 竜胆迅の片手が縁へかかる。

 左手。

 身体を引き上げる。

 右袖は長く、骨折した手首を隠している。黒衣の背には七本の裂け目。靴は古い底へ替えられている。

 観客の一人が叫んだ。

「逃げ足!」

 地下試合での呼び名。

 別の誰かが笑う。

 迅は客席を見ない。

 床。

 凱の肩。

 左右の出口。

 舞台上でも、いつもの順で見る。

「獣よ」

 乱馬が呼ぶ。

「おまえは雨の夜、兄を捨て、街を捨て、名を捨てた」

 台本の文。

 迅の右親指が、袖の中で赤い紐を押さえる。

「名はある」

 短い返事。

「なら名乗れ」

「竜胆迅」

 予定より早い。

 本来は最後まで《獣》のまま進む。

 客席がざわめく。

 カナタが舞台袖から現れた。

「名を持つ獣、名を捨てた王。二人の喧嘩に、案内人は道を売ろう」

「高い?」

 タマキの声が、どこかの通路から飛んだ。

 台詞ではない。

 観客が笑う。

 カナタは一瞬だけ面をそちらへ向ける。

「子どもには三割増し」

「逆」

「人生の残りが長い」

「使う期間で割ると安い」

「交渉成立」

 即興が客席を温める。

 乱馬が拍子木を打つ。

 殺陣へ入る合図。

 凱が先に出る。

 右の掌底。

 迅は一歩退く。

 白い丸は、照明で見えないほど薄い。だが靴底には位置が分かる。

 二撃目。

 凱の前蹴り。

 迅は外へ回る。

 裾が雨を切る。

 三撃目。

 凱の肘。

 迅は身体を沈め、玉座の背を使って軌道を変える。

 全部、稽古した。

 同じなのに、千人の視線が入ると速度が違う。

 凱の掌は、当たらない位置でも重く見える。

 迅の退きは、照明が一つずつ赤へ変わるため、追い詰められて見える。

 観客が数える。

「一!」

「二!」

 七瀬の映像には、数える口が入らない。

 音だけ。

「三!」

 凱の左膝が、回転床の継ぎ目へ乗った。

 予定より一センチ内側。

 長衣の裾が、装具の留め具へかかる。

 七瀬は見た。

 迅も見た。

 次の攻撃は凱の回し蹴り。

 左足を軸にすれば、膝へ負担が来る。

 迅は台本より半歩深く入った。

 凱の肩へ触れ、回転方向を逆へずらす。

 蹴りは低くなる。

 迅は避けず、右袖で受けた。

 衝撃を布と前腕へ流す。

 右手に痺れ。

 だが凱の膝は捻れない。

 客席からは、獣が王の蹴りを受けて吹き飛んだように見える。

「四!」

 拍手。

 凱の目が一瞬だけ迅を見る。

 礼は言わない。

 舞台では、礼まで台詞になる。

 迅は起き上がる。

 五つ目の攻撃。

 今度は自分から凱へ向かう場面。

 黒い短棒を拾う。

 舞台用。芯は竹。先端に薄い鉄。

 凱の肩を狙い、止める。

 凱が受ける。

 金属音。

 乱馬の拍子木が同時に鳴る。

 音が一つへ重なり、客席が沸く。

「もう一度!」

 誰かが叫んだ。

 一人。

 別の列からも。

「もう一度!」

 乱馬の金箔が光った。

 左肩から腕へ、赤い筋が浮かぶ。

 観客の再演要求が、成功した動きを拘束へ変える。

 《再演要求〈アンコール〉》

 迅の右腕が、勝手に同じ軌道を探した。

 短棒を振る。

 凱が受ける。

 金属音。

 同じ。

 だが回転舞台は動いている。

 二度目の位置には、雨管の支柱が入ってきた。

 迅の棒が支柱へ当たる。

 鉄の先端が跳ねる。

 右手首へ衝撃。

 痺れが肘まで走る。

 凱の受けが遅れる。

 短棒が胸の鐘へ近づく。

 迅は左手を添え、軌道を上へ逃がした。

 棒は鐘を擦り、白い肩章を切る。

 本物の金属糸が飛んだ。

 客席は、予定外を成功だと思う。

 拍手が増えた。

 乱馬は両手を広げる。

「御覧じろ! 成功は一度では終わらない。望まれた技は、望まれたぶんだけ強くなる!」

 迅の右腕が、三度目を求める。

 今度は抵抗する。

 筋が逆方向へ引かれ、手首の奥が熱い。

 誓痕の力ではない。

 他人の成功を繰り返させる、乱馬の誓い。

 拒めば反証が迅へ返る。

 観客は条件を知らない。

 ただ、もう一度見たい。

 面白かったから。

 その願いは、本物だ。

 迅は短棒を捨てた。

 成功した動きに、道具が要る。

 道具を失えば、完全には繰り返せない。

 右腕は同じ軌道を取ろうとする。空の手が振られる。

 凱は受けない。

 身体を横へずらす。

 迅の掌は、誰もいない空間を切った。

 成功ではない。

 拘束が外れる。

 赤い筋が乱馬の左肩で脈打ち、薄くなる。

 七瀬はクランクを回しながら、乱馬を見る。

 彼は笑っている。

 本当に楽しんでいる。

 同時に、左肩を一度だけ右手で押さえた。

 反復は相手だけでなく、彼自身にも返る。

 舞台の危険は、罰だけでは止まらない。

 面白いから続く。

 午後六時二十六分

 洪水の街は、三分で火事になった。

 透明な雨が止まる。

 舞台奥の窓へ朱色が走り、黒い薄布が天井から降る。布は炎の形に切られ、下から送られた風で、燃えているように踊った。

 観客の顔へ熱は来ない。

 それでも前列が身を引く。

 身体は、温度より先に光を怖がる。

 カナタが二階建ての壁へ駆け上がった。

 一歩目は箱。

 二歩目は壁の隠し足場。

 三歩目だけ、本当に垂直の板を蹴る。

 金髪が炎布を切り、赤青の面が半回転する。

「次は三つ!」

 彼が叫ぶ。

「子どもを取る。屋根を捨てる。最後に僕が落ちる!」

 屋根の上に、布で作られた人形が現れた。

 子どもの形。

 カナタは人形を抱え、下の役者へ投げる。受け手が毛布で包む。

 二つ目。

 屋根を支える偽梁を蹴る。

 梁は予定どおり外れ、炎布と一緒に奈落へ落ちる。

 三つ目。

 カナタが足場を失う。

 観客は落下を知っている。

 稽古を見ていなくても、彼が最初に予告した。

 次を待つ意識が、一つに集まる。

 足首の線が光った。

 落下。

 半回転。

 右手を伸ばす。

 その三つが、客席の期待どおりに並ぶ。

 だが、壁の陰から出た迅が、その右手を取らなかった。

 代わりに左袖を掴む。

 カナタの身体が予定より低く振られた。

 床まで四十センチ。

 彼は背中を丸め、肩ではなく尻と腿へ衝撃を分ける。

 稽古で覚えた受け身。

 落ちる音は大きい。

 怪我の音ではない。

 客席が沸く。

「右手って言った」

 床からカナタが囁く。

「右は痺れてる」

 迅。

「僕の右手」

「そっちを取ると俺の右が要る」

「稽古では左で取った」

「今日、壁が二センチ近い」

「測った?」

「靴で」

「役者に向いてるよ」

「悪口か」

「勧誘」

 迅はカナタを起こす。

 観客には、獣が案内人を救ったように見える。

 台本では逆だった。

 案内人が獣へ人間の心を教える場面。

 乱馬は一拍で意味を入れ替える。

「見よ! 名を持った獣は、初めて他者へ手を伸ばした!」

 拍手。

 迅が小声で言う。

「右じゃない」

「そこ?」

「事実だ」

「舞台では方向も性格になる」

「面倒だな」

「だから客が金を払う」

 七瀬は二人のやり取りを撮っている。

 声は届かない。

 映像には、迅がカナタの左袖を掴んだ事実だけが残る。

 後から乱馬の説明を重ねれば、人間の心を得た獣になる。

 迅の説明を重ねれば、右手の負傷を避けた安全判断になる。

 カナタの説明を重ねれば、予告を外しても成立した即興になる。

 全部、同じ映像だ。

 七瀬は、レンズの横へ小さな紙を貼った。

《午後六時二十七分。予定動作と異なる左袖保持。理由は撮影位置から確定不能。》

 書いたことで、映像が正しくなるわけではない。

 分からないことを、分からないまま残せるだけだ。

 カナタは床から立つと、客席へ笑顔を向けた。

 その瞬間、二階席の端で一人の女が立った。

 拍手ではない。

 膝へ置いていた鞄を持ち、通路へ出る。

 係員が近づく。

 女は出口を指す。

 係員は首を横へ振り、耳元で何か言った。

 女が舞台を見る。

 カナタの次の見せ場が始まる。

 足を止める。

 もう一度座る。

 七瀬は、その一連を画面の右端で見た。

 女が座った理由は分からない。

 見たかったのか。

 出口が使えなかったのか。

 周囲の視線が嫌だったのか。

 同じ着席でも、意味は違う。

 七瀬は時刻を声にする。

「午後六時二十八分十二秒。二階七番通路、退出を試みた人物一名。係員との会話後、着席。会話内容は記録位置から確認不能」

 撮影機の近くにいた実行局員が振り返る。

「公演中の移動は危険です。係が正しく止めました」

「止めた理由を撮れていません」

「安全です」

「本人の理由は」

「体調不良なら救護へ行くはずです」

「行けなかったかもしれない」

「推測を記録へ入れないでください」

「入れていません。分からないと言いました」

「同じことです」

「反対です」

 実行局員は舞台へ視線を戻した。

 自分も見たいのだ。

 乱馬の舞台は、仕事中の人間まで観客にする。

 その魅力を否定すれば、目を離せない自分まで嘘になる。

 七瀬も見ている。

 撮るためだけではない。

 面白い。

 面白いから、出口が見えなくなる。

 火事の街が回り、次の厨房へ変わる。

 拍手量計の針は、緑から黄へ入り始めていた。

 第一幕の中盤、白王は被災した厨房へ入った。

 回転舞台が変わる。

 鍋。

 配給札。

 空の棚。

 役者二十人が、飢えた住民になる。

 凱は一人ずつへ食料を渡す。

 台本では、王が公平に分ける。

 実際の凱は、配給表を見た。

「この子は二つだ」

 小さな役者へ言う。

「台本では一つ」

 役者が小声で返す。

「心疾患の薬を飲む設定だ。空腹時を避ける」

「設定、そこまでない」

「今、できた」

 乱馬が客席から笑う。

「王は役へも配給表を作る!」

 観客が笑い、拍手する。

 凱は楽しんでいる。

 七瀬には分かる。

 彼の私的な笑いは声量が変わらず、文だけが少し長くなる。

「次の者へ渡す前に、受領した者の名前を確認する。食料は善意ではなく、数量だ」

 台詞ではない。

 観客は、それも立派な王の言葉として受け取る。

 本人が役を変えているのか。

 役が本人の言葉を飲み込んでいるのか。

 固定カメラには、区別が映らない。

 午後六時五十一分。

 第一幕の終盤。

 白王と獣が、洪水の橋で対峙する。