第141話 第九章「客席が立つ」前編
十一月二十七日 午後八時二十七分
列は、先頭より最後尾の方が難しい。
先頭は出口を見ている。
最後尾は、まだ出口へ行くと決めていない。
環玉樹は、刷り上がった退出札を鉄箱へ詰めた。
白い紙。掌の半分ほど。表に三つの欄だけがある。
《退出》
《沈黙》
《保留》
名前を書く欄はない。
理由もない。
裏に座席番号と時刻を記す細い枠。券番号の下四桁。戻る予定がある人は右上を折る。戻らない人は折らない。
「色を変えた方が早い」
印刷係が言った。
「色が見えない人は」
タマキ。
「形」
「暗い」
「切欠き」
「指が動かない人は」
「係員が確認」
「何を訊く」
「どれを選ぶか」
「一度に一つ」
「分かってる」
「今、三つ言った」
「……『帰りますか』」
「帰らないけど席を離れたい人は」
「君がやって」
「僕一人じゃ千人に訊けない」
「一分十五人だ」
「全員出るって決まってない」
タマキは札を三束に分けた。
退出を選ぶ札。
沈黙を残す札。
まだ決めない札。
最初から色分けはしない。
選んだ後、係員が角へ違う形の折りを入れる。視覚だけでなく指でも分かる。
「理由は書かせないのか」
印刷係。
「書きたい人は別の紙」
「どうして」
「『子どもが眠い』って書いた人と、『政治に使うな』って書いた人を、同じ列で比べる人が出る」
「比べたらだめか」
「どっちも帰る」
「理由が弱いって言われる?」
「帰るのに強い理由はいらない」
タマキは鉄箱を閉じた。
旗芯は入っていない。
今夜の仕事は空白の旗の命令ではない。劇場の退出補助。責任者は舞台監督。構造確認は轟。記録は七瀬。契約説明は真琴と巴。タマキは札と列。
仕事名が違えば、同じ人間でも勝手に全体の代表にはならない。
凱が北西通路から来た。
「搬入口、開いた。手すり仮設。走らせない」
「車椅子」
「南平場口は、次に床が完全停止した時だけ開ける。今は二人。本人へ待ち時間を説明中」
「何分」
「最短六分。乱馬が床を再起動すれば延びる」
「最長」
「分からない」
「そう言った?」
「言った」
「怒った?」
「一人は。もう一人は、待たずに介助者と搬入口を使う可能性を検討している」
「坂、急いで下れない」
「本人が見て決める」
「見に行く道は」
「作った」
凱は簡潔に答えた。
王衣装がないと、声が少し普通に聞こえる。
「タマキ」
「何」
「一斉に立たせるな」
「最初から」
「命令ではない」
「分かってる。頼まれなくても、そうする」
「そうか」
「凱は何する」
「南口の床停止を確認する」
「王役は」
「降りた」
「名前、何」
凱が眉を寄せる。
「獅堂凱だ」
「確認」
「今する必要があるか」
「役を降りた人は、名前を言うんでしょ」
「誰が決めた」
「カナタ」
「本人は決めていないと言うだろう」
「面倒」
「同感だ」
凱は南口へ向かった。
タマキは北西通路の防火扉を開ける。
冬の空気が客席へ細く流れる。
舞台の偽煙と、人の汗と、油の匂いが薄まる。
帰れる空気だった。
午後八時三十分
最初の列は、十三人だった。
父親と少女。
白髪の女。
足首を痛めた青年。
売店の茶をこぼされた男。
舞台が怖くなった子ども二人。
芝居へ怒っている女。
芝居を十分楽しんだと言う夫婦。
理由を言わない二人。
それから、出口を見たいだけの男。
「最後の人は退出ですか」
係員が訊く。
「まだ決めてない」
男。
「では保留札」
「札を取ったら、帰る側に数えられないか」
「保留に数える」
「保留も反対票になる?」
タマキが答える。
「拍手の賛成へ入れさせない。反対にも入れない」
「誰が保証する」
「七瀬の記録と券番号。巴が券面を説明する」
「おまえは」
「札を数える」
「十四歳に?」
「数えるのに年齢いる?」
「間違えたら」
「もう一人が数える」
タマキは印刷係を指す。
印刷係は驚いた。
「私?」
「同じ数字になるまで」
「違ったら」
「札を一枚ずつ読む」
「遅い」
「早く間違える?」
男は保留札を取った。
「出口だけ見る」
「戻る時、右上を折って」
「まだ出ない」
「じゃあ列の外」
「冷たいな」
「列は、進む人の場所」
男は笑い、壁際へ下がった。
タマキは床へ白線を貼る。
一列ではない。
帰る人。
見てから決める人。
係員へ質問する人。
三本に分ける。
質問列が一番長くなった。
「公演は止まるの?」
「分からない」
「返金は?」
「決まってない」
「じゃあ、今出たら全額を捨てるのか」
質問列の後ろから、油染みの帽子を被った男が言った。
「捨てると決まってない」
タマキ。
「返るとも決まってない」
「そう」
「それで出ろって?」
「出ろとは言ってない」
「残れってことか」
「それも言ってない」
「十四歳に政治をさせると、全部逃げるな」
「大人は答えがない時、どっちか言ったふりする」
男が詰まる。
タマキは鉄箱から荷札を一枚出した。
《退出時刻によって返金請求権を失わないことを要求》
そう書く。
「これは返金券?」
「違う。要求を受けた証拠」
「金は」
「出ない」
「役に立たない」
「なくすよりは」
「誰へ渡す」
「劇場会計。受領しなければ、受領拒否の時刻を書く」
「おまえが払うのか」
「払わない」
「なら、何でそこまで」
タマキは男の券を見ない。受け取れば、退出判断まで預かったようになる。
「帰る道と、お金の話を同じ扉にすると、払えない人だけ残るから」
男は帽子を脱ぎ、頭を掻いた。
「芝居、途中までは良かったんだ」
「何が」
「案内人が落ちたところ」
「拍手した?」
「した」
「書く?」
「書かなくていい。俺が覚えてる」
男は退出札を取った。
返金が決まっていないまま、列へ入る。
タマキは要求札を別の鉄箱へ入れた。
出口は、損をなくす場所ではない。
損を理由に閉じ込めない場所だった。
質問列の途中で、老女が座り込んだ。
退出を選んだのではない。
膝が痛み、暗い通路で立ち続けられなくなっただけだった。
「列から外れたら、最後尾?」
「戻る場所を札に書く」
タマキは木札へ《質問列・十二番の後》と記した。
「帰る札じゃないのかい」
「休む札」
「増やしすぎだよ」
「人の方が多い」
壁際へ折り畳み椅子を出す。水差しは売店のものだった。
売店係が言う。
「一杯二十円です」
「列にいる人から取る?」
「商品です」
「無料の水は」
「楽屋用」
「誰の金で買った」
「実行局」
「観客の券代も入ってる?」
「会計上は混ざっています」
「じゃあ一杯はもう払ってるかもしれない」
「かもしれないでは渡せません」
タマキは鉄箱から硬貨を出しかけ、止めた。
自分が払えば、次の人はどうする。
「救護用の水として舞台監督へ請求する。今は一差し分を借りる。受領票を書く」
「十四歳が?」
「会計担当」
「空白の旗の?」
「退出補助の」
役職を広げない。
売店係は迷い、水差しを渡した。
「紙コップは商品です」
「器は」
「湯呑みなら洗って返す条件で」
老女が笑う。
「街を救うより、水一杯の方が契約が多いね」
「水は毎日使うから」
タマキは湯呑みに半分だけ注いだ。満杯だと、震える手でこぼす。
「触っていい?」
「湯呑みを持つ手だけ」
老女の希望どおり、底へ指を添える。
飲み終えるまで、列は先へ進む。
戻る席は木札で残る。
休むことは、退出でも保留でもない。
選択の途中で身体を休ませる権利まで、三色の札には入っていなかった。
タマキは四つ目の箱を作らない。
代わりに、椅子の背へ小さく書いた。
《ここでは決めなくてよい》
「拍手した分は消せる?」
「消さない。何への拍手だったか分ける」
「カナタは戻る?」
「本人に訊いて」
「どこにいる」
「舞台裏」
「会える?」
「今は退出路の仕事中」
「役者なのに」
「今は荷物を持ってる」
質問は、出口を遅くする。
答えなければ、怒りが列を止める。
タマキは一人へ一問ずつ答えた。
巴のやり方を借りる。
全部に詳しく答えない。分からないことは分からない。担当が別なら場所を示す。
「『みんな帰るんですか』」
若い女が訊く。
「みんなって誰」
「客」
「九百八十六人?」
「そう」
「そうじゃなくて……多くの人」
「何人」
「半分くらい」
「今、列は十三」
「少ないなら、帰りにくい」
「十三人の一人になるのは嫌?」
「そう聞かれると、嫌みたい」
「じゃあ保留」
「決めさせてよ」
「決めてる間、列の横」
「追い出すの?」
「道を空ける」
女は列の横へ出た。
三十秒後、自分で退出札を取った。
タマキは理由を訊かない。
列へ一人増える。
少ない時の一人は、数字より大きい。
午後八時三十四分
舞台上の役者が、客席へ降りた。
敵ではない。
少なくとも、最初は。
赤い棒を持つ三人が、中央通路で殺陣を始める。乱馬の即興だ。物語から逃げる民を《群衆の声》が呼び戻す場面。
「まだ結末は来ていない!」
「王なき道に、夜が来る!」
「席を立つ者よ、恐れを置いていけ!」
棒は観客へ当てない。
役者たちは上手い。
狭い通路で身体を捻り、椅子の背を蹴り、頭上へ棒を回す。観客は悲鳴を上げながら笑う。突然近くへ来た役者を喜ぶ者もいる。
だが列は止まった。
退出路の白線を、殺陣が横切る。
「通路、空けて」
タマキが言う。
役者は台詞で返す。
「少年よ! 物語から逃げる道はない!」
「ある。北西」
客席が笑う。
「恐れるな!」
「怖いって言ってない」
「ならば席へ戻れ!」
「僕は客じゃない」
「舞台にいる者は、皆、物語の――」
「今は通路」
タマキは白線を指した。
役者の棒がその前へ落ちる。
叩きつけたのではない。進行を止める見せ方。
タマキは跨がない。
跨げば、挑戦の場面になる。
棒の手前で列を止める。
「回り道」
「衣装庫側は狭い」
係員。
「何人」
「一列なら」
「じゃあ四人ずつ」
「分けると見失う」
「札に番号」
タマキは最初の四人へ一から四の木札を渡す。
父親と少女は一つの組。
「離れないで」
「言われなくても」
父親が答える。
「言わないと、別の人が離す」
四人を衣装庫側へ回す。
役者が横へ動き、また進路を塞ごうとする。
その前へ迅が入った。
狼面は外している。
鎖もない。
紺の上着の袖をまくり、右手首を赤い紐で軽く固定している。
「殺陣、続けるか」
迅が訊く。
「物語を守る!」
「仕事名は」
「役者だ!」
「なら客へ当てるな」
「当てない!」
「道へも当てるな」
役者が棒を振る。
迅は後退しない。
客席の椅子が近すぎる。退けば座っている女の膝へぶつかる。
左掌で棒の横を押し、軌道を天井へ逃がす。右手は添えない。脇へ入ると、肩で相手の胸を押し、椅子と椅子の間へ立たせる。
倒さない。
役者は棒を返す。
迅は椅子の背へ手を掛けた。
盾にすると思った観客が息を呑む。
彼は椅子を折り畳んだ。
座面が上がり、通路が二十センチ広がる。
次の椅子も。
客へ訊く。
「立てる?」
「今?」
「椅子を畳む。帰るなら列。残るなら隣へ一席」
「芝居が見えない」
「見たい?」
「見たい」
「じゃあ座ってろ。椅子は使わない」
迅は別の列を畳む。
盾にすれば一人を守れる。
畳めば道が増える。
役者の棒が背後から来る。
カナタが長い袖を投げた。
棒へ巻きつき、速度を殺す。
「演技を嘘って言った人」
舞台裏から出てきたカナタが言う。
「今、椅子を畳む演技、下手」
「本物だ」
「客は殺陣だと思ってる」
「じゃあ、道が開けば何でもいい」
「嘘を使った」
「使われた」
「違いは?」
「俺が決めてない」
「それ、一番嫌いでしょ」
迅は答えず、棒を持つ役者の足元へ自分の靴を差し入れた。投げない。重心だけを後ろへ戻す。
「続けるなら、列を避けろ」
役者は息を切らしている。
「乱馬さんの場面だ」
「おまえの足だ」
「契約が」
「当てずに演じろ。できるだろ」
挑発ではない。
役者の技術を認める言い方だった。
彼は棒を握り直す。
白線を跨がず、その外側で回す。
殺陣は続く。
列も進む。
どちらか一つにしなくてもよい。
午後八時三十八分
北西搬入口まで、最初の四人は三分二十秒かかった。
予定より遅い。
衣装庫の前に、剣が十二本立て掛けてあった。
全部、刃のない小道具だ。だが倒れれば子どもの顔の高さへ来る。係員が一本ずつ壁へ寝かせ、その間、列を止めた。
父親は急かさなかった。
少女は、紙仮面をつけたり外したりしている。
「寒い?」
タマキが訊く。
「外は」
「寒い」
「中は暑い」
「上着、着る?」
「出てから」
「坂で止まる」
「じゃあ今」
父親が娘の上着を着せる。
列の後ろで、誰かが「早くしろ」と言った。
タマキは振り返る。
「走らない」
「子ども一人に何分かける」
「転んだらもっと」
「俺は先に行ける」
「追い越しはしない」
「帰る権利だろ」
「他の人を押す権利じゃない」
「説教か」
「順番」
男は舌打ちした。
それでも押さなかった。
出口があると分かるだけで、人は少し待てる。
出口が閉じている時の一分は、開いている時の五分より長い。
搬入口の扉へ着く。
外の灯りが見える。
舞台の音はまだ続いている。
乱馬が物語を繋ぎ、観客が笑い、拍手する。
父親が退出札を係員へ渡した。
「右上は折っていません。戻りません」
「確認。二階三列十一、十二。二十時三十八分。退出二名」
係員が読み上げる。
七瀬の補助灯が札と時計を照らす。
顔は撮らない。
少女が扉の前で振り返った。
客席は見えない。
舞台も見えない。
ただ音だけが、通路を曲がって届く。
カナタの名前を呼ぶ声。
少女は紙仮面を持ち上げた。
「拍手してもいい?」
父親が困る。
「何に」
タマキが訊く。
「壁走り」
「もう終わった」
「でも、すごかった」
「じゃあ、いい」
「政治には」
「入れない」
「本当?」
「今、声と札を別に残す」
少女は片手で仮面を持ち、もう片方で腿を叩いた。
ぱん。
小さな拍手。
父親も手を打つ。
二人は拍手しながら坂を下りた。
劇場の外へ。
楽しんだことを返す音。
同意を置いていく足音。
タマキは札へ書く。
《壁走りへの拍手。統治案は保留ではなく拒否。退出。》
「理由、書かないんじゃなかった?」
印刷係が訊く。
「本人が言った」
「どこまで書く」
「言った分だけ」
「子どもの言葉を政治記録に?」
「子どもだから消す?」
「そうじゃない」
「じゃあ残す。名前は残さない」
印刷係は別帳へ時刻を写した。
二人の数字が一致する。
最初の退出は、二名。
千人の劇場では小さい。
扉の外では大きい。
午後八時四十一分
最初の二人が出たと伝わると、列が増えた。
十三人から二十九人。
質問列は四十人。
保留札だけ取り、席へ戻る人もいる。
「帰らないのに札を?」
係員が戸惑う。
「今は残る。でも拍手を統治案へ使わせない」
若い男が答える。
「沈黙札では」
「拍手はする」
「何に」
「乱馬の舞台に。あの回転は見たことがない」
「回転床、今止まってる」
タマキ。
「止まってからの即興がもっといい」
「じゃあ、演目支持」
「それだけ」
「札へ書く?」
「書いてくれ」
タマキは専用欄を増やさない。
余白へ本人の言葉をそのまま書く。
用紙は規則より先に足りなくなる。
印刷係が追加を刷りに走る。
質問列の横へ、車椅子の青年が来た。
大きな後輪へ、舞台の金粉が付いている。
第一幕では前列中央にいた。凱が王として出た時、一度だけ腕を上げたのをタマキは覚えている。
「北西の坂を見たい」
「帰る?」
「見て決める」
「誰と行く」
「一人」
「坂は急」
「見れば分かる」
「押す人いる?」
「頼んでない」
係員が横から言う。
「車椅子の方は南平場口までお待ちください」
青年は係員を見上げない。
「南はいつ開く」
「床が完全停止したら」
「いつ」
「公演の進行によります」
「じゃあ、待つとは決めてない」
タマキは鉄箱を背負い直す。
「坂を見る道、幅八十センチ。途中で引き返せる所、一か所」
「何メートル」
「十二。傾きは」
轟が書いた白板を見る。
「最初の四メートルが十二分の一。次が九分の一。最後二メートルが平ら」
「手すり」
「片側。もう片側は壁」
「下に人」
「二人」
「押すんじゃなく、前で止められる人」
「頼める」
「見てから決める」
係員が困る。
「安全上、許可できません」
「誰の許可」
タマキ。
「劇場の」
「責任者」
「舞台監督」
「本人に訊いた?」
「規程です」
「規程のどこ」
「車椅子利用者は平場口へ」
「利用者が坂を選ぶ時は」
「想定されていません」
「じゃあ、禁止も書いてない」
「危険です」
青年が後輪を一度回す。
「危険かは見て決める。俺の椅子だ」
係員の手が、無意識に背の押し手へ伸びた。
青年が肘で払う。
「触るな」
「すみません」
「助ける前に訊け」
「はい」
タマキは係員へ質問する。
「坂を見るのを手伝う?」
「……手伝います」
「押す?」
「本人が頼めば」
「青年、名前」
「今いる?」
「呼ぶ時」
「座席番号でいい。二列二番」
「二列二番、坂の見学。押さない。前で止める人二人。戻る道を空ける」
「了解」
青年は白線へ入る。
退出ではない。
見学。
タマキは別の木札へ《見》と書いた。
「札、増えた」
印刷係。
「必要になった」
「分類が終わらない」
「人が先」
「さっき記録も安全だって七瀬さんが」
「だから書く」
「矛盾してる」
「違う仕事を同時にしてる」
青年は坂上へ着く。
後輪のブレーキを自分で確認する。
轟が壁側の手すりを叩く。
「横荷重、九十キロまで」
「俺と椅子で九十六」
「手すりへ全重を掛けるな」
「掛けない」
「前止め二人、坂下。後ろ一人、触らず追う」
「後ろはいらない」
「後輪が滑った時」
「自分で止める」
轟は青年の手を見る。
掌に車輪の摩擦痕。
「分かった。触らん。後ろを歩く」
「それなら」
青年は坂を見下ろす。
屋台の灯り。
冬の風。
道の終わりに、観客ではない夜がある。
「後ろ向きに下りる。前二人は、止めるんじゃなく左右の空間を空けて」
「帰る?」
タマキが訊く。
「帰る」
「拍手は」
「した」
「何に」
「凱が王冠を外した時。あれは、芝居として良かった」
「統治案」
「反対。王役が上手い奴を王にするのは、配役と同じだ」
「残す?」
「声だけ。名前なし」
タマキは七瀬の補助記録へ合図する。
青年は自分で坂へ背を向けた。
ゆっくり後輪を送る。
一回転。
止める。
また半回転。
係員二人は手を出さない。
出さないことが、今の補助だった。
坂の中ほどで、片輪が敷板の継ぎ目へ取られた。
青年の身体が傾く。
轟が一歩出る。
「触る!」
青年が叫ぶ。
許可が来た。
轟は左肩を使わず、右手で背枠の下を支える。持ち上げない。傾きだけを戻す。
前の係員が車輪止めを置く。
「外す?」
タマキ。
「自分で」
青年は呼吸を整える。
車輪止めを外し、また下る。
坂下へ着いた時、客席から拍手が聞こえた。
青年は手を叩けない。
両手は後輪にある。
代わりに右の車輪を二度、床へ鳴らした。