第142話 第九章「客席が立つ」後編

「今のは?」

 タマキが坂上から訊く。

「自分に」

「政治へ入れない」

「勝手に入れたら怒る」

「記録した」

 青年は屋台通りへ出ていった。

 係員が、自分の掌を見ている。

「助けるの、遅れませんでしたか」

「本人が言った」

「言えない時もある」

「その時は危険を言って触る」

「今みたいに」

「今、できた」

 係員は頷いた。

 規程が増えたのではない。

 次の一人へ訊く言葉が増えた。

 乱馬側の役者がさらに二人、客席へ降りた。

 今度は縄を使う。

 物語では、逃げる民を結び直す《誓いの綱》。実際には柔らかい布縄で、触れれば簡単に外れる。

 だが列の前へ横に張れば、道は塞がる。

 迅が縄へ手を掛ける。

 切らない。

「これ、衣装部?」

「小道具部」

 カナタ。

「切るといくら」

「一本四円」

「高い」

「染めてる」

「ほどく」

 結び目は舞台用の早解きではない。

 役者が本気で締めた。

 迅は右手を使わず、左の親指で輪を押す。固い。右小指が痺れている日に細い結びは苦手だ。

 タマキが近づく。

「鉄箱に針」

「刃物は」

「小さい鋏」

「切ると四円」

「ほどく針」

 鉄箱から、荷札用の鈍い針を出す。

 迅へ渡さない。

「僕がやる」

「時間かかる」

「右手より早い」

 迅は反論せず、縄を張る役者の前へ立つ。

「そっちを止める」

「僕を守る?」

「針を守る。食堂の」

「僕の」

「どっちでもいい」

「所有は大事」

「今か」

「今」

 役者が縄の端を引く。

 タマキの指が挟まれそうになる。

 迅は一歩だけ横へ出て、相手の肘を下から上げた。力を抜かせる。殴らない。

 別の役者が棒を振る。

 カナタが袖布で受ける。

「僕、もう役じゃない」

「なら邪魔するな!」

「道具を返してる」

「何を」

「その棒、僕の場面の」

「今は俺のだ!」

「契約上は小道具部」

「細かい!」

「真琴みたいでしょ」

「知らない!」

 カナタは棒を奪わない。

 先端へ袖を巻き、客席側へ向かないよう固定する。

 役者が引けば、カナタも引かれる。

 右足首が痛む。

 顔が歪む。

 それを笑顔へ戻さない。

 客席のすぐ横で、二人は力を比べる。

「乱馬の命令か」

 迅が訊く。

「演出だ!」

「断れない?」

「断る理由がない!」

「じゃあ続けろ」

「止めてるのはおまえだ!」

「客へ当てないなら、続けられる」

「勝たせろってことか」

「道を空けろってこと」

 迅は役者の肩を押す。

 倒す方向ではなく、白線の外へ。

 相手は踏みとどまり、棒を回す。

 大技を使えない。

 背後に座った客がいる。

 右には退出列。

 左には質問列。

 頭上には低い二階席。

 技術のある役者ほど、自分の動きを小さくする。

 拳は掌へ。

 蹴りは足払いへ。

 投げは肩押しへ。

 舞台用の大きな殺陣が、路地のような近い格闘へ変わる。

 迅は相手の呼吸を読む。

 三度目の棒は、同じ角度から来る。

 乱馬の《再演要求》ではない。

 役者自身の癖。

 迅は一歩退ける。

 退かない。

 背後に列がある。

 棒の内側へ入り、額を相手の胸へ当てる。左手で手首を押し、右肘で棒を自分の肩へ固定する。握力を使わない。

「一回、休め」

「命令か」

「息が上がってる」

「役者は続ける!」

「吐くぞ」

「吐かない!」

 言った瞬間、役者の頬が膨らむ。

 迅は顔を横へ向けた。

 吐かなかった。

「勝った」

 役者。

「何に」

「吐かなかった」

「じゃあ休め」

 役者は棒を下ろした。

 椅子へ座る。

 近くの観客が水を渡した。

 殺陣の敵と客が、舞台外の関係へ戻る。

 タマキは縄の結びを外した。

「針、勝った」

「何に」

 迅。

「四円」

 縄を畳み、通路の端へ置く。

 列がまた進む。

 午後八時四十八分

 退出者は百十七人。

 沈黙札は六十三。

 保留札は八十一。

 数字は増えるが、全員の意思が同じになるわけではない。

 劇場へ残った者の中にも、統治案へ反対する者がいる。

 退出した者の中にも、芝居を支持する者がいる。

 中止へ怒る者も、続行を望む者も、ただ終電を気にする者もいる。

 タマキは札を三つの鉄箱へ分けた。

「一箱にしないの?」

 印刷係。

「混ざる」

「記録上は分類できる」

「落としたら」

「拾う」

「雨なら」

「今日は晴れ」

「火なら」

「持って逃げる」

「全部持てない」

「だから三人」

 印刷係と係員へ一箱ずつ渡す。

「私が?」

「嫌なら別の人」

「いや、持つ」

「勝手に開けないで」

「数えるためには」

「二人いる時」

「君は?」

「列へ戻る」

 タマキは鉄箱を胸へ掛け直す。

 舞台から、乱馬の声が来る。

「半ばで去る者よ、結末はあなたを待たない!」

 白髪の男が質問列から叫び返した。

「待たせたのはそっちだ!」

 客席が笑う。

 乱馬も笑った。

「ならば急ごう!」

 拍子木。

 止まっていた回転床が、低い音を立てる。

 凱が南口から駆けてくる。走らず、長い歩幅で。

「床を動かした。南平場口は開けられない」

「車椅子の人」

「一人は搬入口を選んだ。もう一人は残ると決めた」

「待つんじゃなく」

「残る。芝居を見る。ただし沈黙札」

「分かった」

 タマキは記録へ書く。

「残る人も、列?」

「沈黙札の確認列を別にする」

「また増えるな」

「道も増やす」

 客席の椅子が折り畳まれ、白線が一本、二本、三本と伸びる。

 人が立つたび、空席が現れる。

 空席は欠落ではない。

 誰かが自分の足で選んだ場所だった。

 北西の坂の下から、小さな拍手がまた聞こえた。

 今度は一人ではない。

 帰る人々が、楽しんだ場面へ手を鳴らしながら外へ出ていく。

 拍手と足音は、同じ方向へ進まなかった。