第143話 第十章「無観客の殺陣」前編
十一月二十七日 午後八時五十九分
客席が半分空くと、舞台は小さくならない。
空席の分だけ、嘘の端が見える。
竜胆迅は、第三列と第四列の間から舞台を見た。
赤い椅子が折り畳まれ、白い退出線が三本走っている。人の残る列と、空いた列が縞になる。北西搬入口へ向かう列は、今も動いている。
退出四百九十八。
沈黙札を持って残る者、百二十一。
保留、百三十余り。
数はタマキが管理している。
迅が見るのは、足だ。
帰る足。
席へ戻る足。
迷って通路へ出る足。
殺陣を避けて椅子の間へ入る足。
全員、違う速さだった。
舞台中央に乱馬が立つ。
回転床は再び動いているが、予定された背景は来ない。処刑台の柵は退出路へ使われ、王宮の階段は途中で止まり、路地の洗濯物が金の祭壇へ半分かぶさっている。
失敗した舞台だった。
それでも美しい。
乱馬は失敗を隠さず、重ねて一つの都市に見せていた。
「王は去った!」
声が空席へ届く。
「民の剣も、名を捨てた! されど狼よ。おまえだけは、まだ勝敗を選んでいない!」
迅は返事をしない。
乱馬が拍子木を鳴らす。
残った照明が一斉に迅を向く。
客席から歓声。
「舞台へ上がれ!」
「嫌だ」
迅は普通の声で答えた。
前列には聞こえる。
二階席までは届かない。
乱馬が笑う。
「狼は恐れた!」
「そうだ」
前列がざわめく。
「何を」
「おまえが、どんな事故も見せ場にすることを」
「ならば、事故を起こさなければよい」
「帰りたい客を閉じた」
「出口は今、開いている」
「俺たちが開けた」
「舞台が、君たちを開けさせた」
「盗るな」
「意味は所有物ではない」
「責任は?」
乱馬の笑みが止まる。
迅は続けた。
「出口を閉じた責任。拍手を票にした責任。役者が降りられなかった責任。それも舞台の意味か」
「私の責任だ」
即答だった。
「なら、終わらせろ」
「だから終幕を作る」
「途中で止めろ」
「止めた作品へ、責任は取れない」
「取れ。途中のまま」
乱馬は左の拍子木を握り直す。
「君は退くことを選択と呼ぶ。私は、終えることを責任と呼ぶ。どちらも自分に都合の良い名ではないか」
「そうだな」
「認めるか」
「名前は便利だ。使うやつが困る」
「君の言葉ではない」
「もう皆のだ」
客席が笑う。
乱馬も笑った。
「では皆へ返そう。最後の一戦を!」
迅は舞台へ上がる前に、袖の凱を見た。
白い王衣装はもうない。
黒いシャツ。
膝装具。
腰へ下げた三本の予備灯。
胸には壊れた鈴だけが残っている。
凱は客席へ背を向け、舞台の柱へ番号札を貼っていた。
「何してる」
迅。
「照明橋が止まった時の退避位置を増やす」
「橋、落ちるのか」
「落ちないようにする。そのために、落ちた時の場所を決める」
「縁起が悪い」
「構造は縁起を読まない」
轟の言い方だった。
凱は一番柱へ《前列三列》、二番へ《子役・衣装》、三番へ《負傷者》と書く。
「人を分類するのか」
「移動先を分ける。人の価値ではない」
「言い訳が早い」
「真琴に三度直された」
「効いてるな」
「不愉快なほど」
凱は曲がった補助椅子を直す。
その椅子には、王冠を外した時から休んでいる老役者が座っていた。
「俺は三番か」
老役者が訊く。
「自分で歩けるなら一番。眩暈が続くなら三番」
「役者だぞ」
「今は眩暈のある人だ」
「舞台へ戻れば役者だ」
「戻るか」
「乱馬が呼べば」
「あなたは」
「呼ばれたい」
凱は止めない。
「では、立った時に再確認する。今は座れ」
「命令か」
「医療担当の指示を復唱した」
「便利だな」
「使う人が困る」
老役者が笑う。
凱は笑わない。
視線は舞台上のカナタへ行く。
カナタはまだ呼ばれていない。
右足首へ包帯。片方だけ違う靴紐。
舞台袖の床へ、白い粉で三本の線を引いている。
「凱」
迅が言う。
「何だ」
「王、やめた顔じゃない」
「どんな顔だ」
「裏方を全部決める顔」
凱の右手が、貼りかけた札で止まる。
「では、おまえが決めろ」
「嫌だ」
「即答するな」
「俺は照明を知らない」
「俺も知らない」
「なら技師に訊け」
「訊いた。番号札は俺の案だ」
「許可は」
「舞台監督、照明技師、救護員。三者」
「客は」
「移動時に選べる。三番を拒んで一番へ行く者もいる」
「じゃあ決めてない」
「移動先を用意した」
「それでいい」
「おまえに認められると腹が立つ」
「王様だから」
「役は降りた」
「腹は残った」
凱の口元がわずかに動く。
その時、客席下から巴が上がってきた。
右人差し指を布で固定し、左手に短い筆記板。人工耳の外側を一度押し、凱の顔が見える位置へ立つ。
真琴が続く。
「残留者の確認文が決まりました」
「読み上げるか」
凱。
「一斉にはしません」
真琴は眼鏡を左前腕で押し上げる。
「残っていることを公演支持へ数えるか、演目支持だけか、統治案支持も含むか、まだ決めないか。一席ずつです」
「終演に間に合う?」
「乱馬が決めた終演には」
「なら無効化できない」
「間に合うことを条件にしたら、説明を急がせた側が勝ちます」
巴が左手で書く。
《確認できた分だけ確定。未確認は未確認。》
「残ったから賛成、は」
迅。
真琴が答える。
「できません。入口が制限され、途中退出に実務的障害があった時点で、滞在は自由な選択だけではない」
「拍手は」
「演目への反応と統治案への同意を分離できない形式でした」
「でも券に書いてある」
「書いたことと、選べたことは同じではありません」
巴が筆記板を返す。
《理解、拒否、変更。三つがなければ同意ではない。》
「能力は」
迅が訊く。
巴は右人差し指を見せた。
曲げ切れない。
《使わない。千人の選択を一つの訳へしない。》
「遅いな」
「遅くします」
真琴。
「今夜の問題は、速く一つへしたことです」
乱馬の声が舞台から飛ぶ。
「狼よ! いつまで裏方の言葉へ隠れる!」
照明が迅を探す。
凱が一歩、光の前へ出ようとする。
迅は肩で止めた。
「俺を呼んでる」
「出るのか」
「床が来る」
回転板が客席通路へ近づいている。
「出たくない」
「それでも出る?」
「下に客がいる」
「理由が舞台じゃない」
「だから出る」
迅は光の中へ戻った。
凱は追わない。
代わりに、四番目の番号札を貼る。
《舞台へ戻らない者》
誰の名前も書かなかった。
左右の幕が開く。
舞台袖からカナタが出された。
自分で歩いている。
仮面はない。右足首に薄い包帯。左右の靴紐は結び方が違う。片方だけ短い。
「戻ったのか」
迅。
「通路を横切るだけ」
「舞台中央を?」
「近道」
「出口、反対だ」
「乱馬に呼ばれた」
「断っただろ」
「話をするって」
「話す場所が悪い」
「うん」
カナタは中央へ立つ。
乱馬が二人を指す。
「狼と、剣を捨てた役者。勝者が、今夜の結末を語る!」
迅は舞台へ上がらない。
乱馬の右手が動く。
床の外周が回り、迅の立つ通路脇の板が舞台へ繋がる。客席の足元がせり上がり、彼を中央へ運ぶ。
「床を使うな」
「舞台は床だ」
迅は飛び降りることもできる。
下に観客がいる。
動く板の上で姿勢を低くし、止まるまで待つ。
舞台へ運ばれた。
乱馬は満足そうに言う。
「さあ」
カナタと迅が向かい合う。
距離、四メートル。
赤い足印が二つ。
最終場面用の位置。
客席に残る者が息を呑む。
予告された勝負が始まる。
カナタの足首へ誓痕の線。
観客の期待が三動作を作る。
迅が一歩退く。
カナタが踏み込む。
右蹴り。
カナタは動かない。
期待を拒む反証が足首へ返る。
身体が揺れる。
迅は一歩も退かない。
「やらない」
カナタ。
「同感」
迅。
「勝敗を選ばぬのか!」
乱馬の声。
「選んだ。やらない」
「それは逃避だ!」
「逃げた」
「勝者なき舞台に、誰が金を払う!」
二階席から男が叫んだ。
「もう払ったぞ!」
別の声。
「面白ければ返せとは言わん!」
「最後を見せろ!」
「帰りたい人を先に出せ!」
「カナタ、戦え!」
「足を休ませろ!」
客席の声が割れる。
カナタの《予告拍手》は、どの期待にも乗れず消えた。
「乱馬」
カナタが言う。
「終わらせるなら、僕らを勝たせないで」
「敗北を選ぶか」
「違う。僕らを使わない」
「君は役者だ」
「今は名前だけ」
「名も役だ」
「じゃあ、黙る」
カナタは口を閉じる。
迅も横を向いた。
二人は向かい合ったまま、戦わない。
見せ場の形だけが残る。
客席は最初、次の動きを待つ。
十秒。
二十秒。
待つことが拍手より重くなる。
乱馬は拍子木を鳴らした。
再演要求の金線が左肩へ走る。
「もう一度だ。稽古で成功した殺陣を!」
残った観客の一部が応じる。
「もう一度!」
迅の身体へ、稽古の動きが戻る。
一歩退く。
カナタが右から入る。
左袖。
右蹴り。
三つの順番。
二人は動かされる。
迅は退いた一歩を、自分の《七退一還》へ数えない。
自分で譲った距離ではない。
カナタの袖が首へ来る。
迅は稽古どおり掴む。
右手を使えば滑る。
左で取る。
次の右蹴りを腹へ受けるふりをし、背中から落ちる。
床は今、平らではない。
王宮階段の縁が残っている。
迅は顎を引き、右腕を腹へ抱え、背中を広くする。
教わった受け身で角を避けた。
反復が終わる。
反復は一度で終わらなかった。
乱馬が拍子木を左手から右手へ持ち替える。
左肩は下がったまま。
「一度で足りぬ者は、声を上げよ!」
客席の奥から、ばらばらの声が来た。
「もう一度!」
「やめろ!」
「続けろ!」
「カナタを休ませろ!」
期待が割れている。
それでも《再演要求》は、最初に形を得た動きへ食いつく。
迅の右肩が後ろへ引かれる。
カナタの右足が前を向く。
稽古の殺陣。
成功した一連。
身体は、もう同じではない。
迅の右手は痺れている。
カナタの足首には反証の腫れ。
舞台の足印は回転で二十センチずれた。
同じ動作を同じ場所へ戻そうとする力が、違いを痛みに変える。
「三歩目、外す」
迅。
「順番を変えると僕に返る」
「同じだと足が壊れる」
「どっちが安い?」
「足」
「僕のだよ」
「じゃあ選べ」
カナタは一動作目を受け入れた。
左袖を伸ばす。
二動作目。
右足を踏み込む。
三動作目の蹴りだけを、舞台床へ落とした。
迅を蹴らない。
予告した対象が外れ、反証が足首へ戻る。
カナタの膝が崩れた。
だが床を蹴った衝撃で、回転板の非常留め具が一段かかる。
舞台の動きが遅くなる。
「偶然?」
迅。
「演出」
「嘘だ」
「身体は本当」
カナタは立ち上がれない。
迅が左腕を差し出す。
掴ませない。
袖を取らせる。
カナタは布を握り、片足で立つ。
乱馬が拍子木を鳴らす。
「成功を汚すな!」
「同じ成功で身体を壊すな」
カナタが返す。
「観客は完全な形を買った!」
「券は身体まで買ってない」
「役者は身体を売る仕事だ!」
「時間を売る。怪我は契約してない」
客席の一人が叫ぶ。
「俺は怪我まで見たくないぞ!」
別の声。
「本気だから面白いんだ!」
「本気と故障は違う!」
観客同士の言葉がぶつかる。
乱馬は、その衝突さえ合唱へしようと腕を上げた。
迅が前へ出る。
乱馬まで三歩。
一歩目で、赤い長羽織の裾が動く。
乱馬は左利きだ。
右手の拍子木は見せる手。
攻撃は左から来る。
迅は乱馬を見ず、床の影を見る。
左掌が顎へ向かう。
半歩、後ろへ。
自分で退く。
一つ。
だが数えない。
今の源は乱馬の身体ではなく、舞台を終えさせない仕組みだ。
拳へ返しても、客席の契約は消えない。
乱馬の二撃目。
拍子木の角が鎖骨へ来る。
迅は左手首を外から押し、軌道を胸の横へ流す。
右手は添えない。
乱馬の肩が不自然に回る。
古傷が音を立てた。
小さい。
本人にだけ聞こえる音。
乱馬の目が一瞬細くなる。
「医者」
迅。
「終幕の後だ」
「その台詞、皆使うな」
「便利だからだ」
「使う人が困る」
「それも、もう皆の言葉か」
「返品する」
迅は乱馬の左腕を取らない。
取れば脱臼させられる。
代わりに拍子木の間へ指を入れ、閉じさせない。
乱馬は右手で打とうとする。
木片の間に迅の左指。
強く閉じれば折れる。
乱馬は止めた。
「君は、勝てるのに勝たない顔をする」
「勝っても終わらない」
「では負けろ」
「それも終幕になる」
二人は拍子木を挟んだまま動かない。
カナタが片足で近づき、木片の紐を解く。
「小道具部へ返す」
「これは私物だ」
乱馬。
「じゃあ、返さない」
「何をする」
「床へ置く」
カナタは拍子木を一枚ずつ離し、舞台へ置いた。
乱馬の手から奪わない。
迅の指も離れる。
成功した音を出す道具が、二枚の木へ戻る。
客席から拍手が一つ起きた。
すぐ別の人が手を押さえる。
「今のは何への拍手だ」
近くで誰かが訊く。
「分からない」
「じゃあ、やめる?」
「分からないまま一回した」
その会話が、舞台まで聞こえた。
乱馬は木片を拾わなかった。
代わりに右手を上げる。
照明係へ、最終決闘の合図。
カナタは右足を着いた瞬間、膝を折った。
古傷と反証が重なる。
乱馬の左肩も揺れる。
「成功した」
彼は言う。
「成功した動きは、もう一度できる」
「場所が違う」
迅は起き上がる。
「身体も違う。客も減った」
「それでも物語は同じだ」
「同じにしてるのは、あんただ」
乱馬が拍子木を二度鳴らす。