第144話 第十章「無観客の殺陣」後編
照明橋が下降を始める。
最終決闘用の光を、舞台の二メートル上まで下ろす装置。
だが照明係の半数は退出路へ回り、左側の巻上げが二拍遅れた。
橋が傾く。
「停止!」
舞台裏から凱の声。
王の声ではない。
安全確認の合図。
右側の巻上げだけが止まる。
左は動く。
傾きが増す。
客席から悲鳴。
乱馬が上を見る。
「照明!」
誰への命令か分からない。
照明橋の端が、王宮の梁へ当たった。
梁は舞台美術だが、内部に本物の補強材がある。処刑台の柵を外した際、荷重の逃げ方が変わっていた。
轟の声が内線から飛ぶ。
「中央支柱が抜ける! 舞台上、退け!」
迅は客席を見る。
まだ四百人以上。
照明橋が落ちれば、舞台だけでは済まない。前列へ金具が飛ぶ。
乱馬へ届く距離は三歩。
支柱へは七歩以上。
迅は乱馬を殴らない。
落ち始めた照明橋の下へ走った。
午後九時三分
落下は、下へだけ来るとは限らない。
傾いた照明橋は、右の鎖を軸にして舞台奥から手前へ振れた。
横幅十八メートル。
鉄骨と灯具で約一・六トン。
左端が王宮の梁を削り、木片と火花を撒く。
迅は中央へ入る。
「左へ行け!」
轟の声。
どちらから見て左か考える前に、床の影を見る。
照明橋の影が迅を追う。
一歩目。
熱い空気が顔へ来た。
迅は後ろへ退く。
自分で譲る。
橋の下へ残れば潰れる。退けば、落下の力と距離が身体へ刻まれる。
二歩目。
吊り鎖の切れた端が鞭のように床を打つ。
左へ避け、さらに後ろへ。
三歩目。
足元の回転床が動いた。
拍手連動の残圧が抜けていない。床の赤い印が横へ逃げる。迅は追わず、逆へ下がる。
右小指が痺れる。
赤い七結びを押さえられない。
数えるのは指ではない。
足裏だ。
四歩目。
橋から灯具が一つ外れた。
カナタが迅の右から飛び込み、長い袖を灯具の鉤へ巻く。落下方向を変え、舞台脇へ滑らせる。
「前、見て!」
「足は」
「今訊く?」
「あとで逃げるな」
「今、逃げてるのは迅!」
その通りだった。
五歩目。
迅の踵が王宮階段の一段目へ当たる。
上がらない。
階段は落下物の下へ近づく。
左へ回り、距離を譲る。
照明橋の下で、一本の長い梁が斜めに外れていた。
舞台美術の白い柱を支える横梁。
外側は木。
内側に鋼芯。
端が受け金具から三十センチ抜け、床へ垂れている。
「迅!」
轟が舞台袖から叫ぶ。
「白梁を受けへ戻せ! 橋の腹を支えられる!」
「何センチ!」
「二十六! 奥へ!」
「角度!」
「右上三度!」
六歩目。
迅は梁へ近づこうとして、照明橋の風圧に押し戻される。
胸が痛む。
さきほどカナタの蹴りを受けた場所。
息を吐く。
痛みを残したまま、床を見る。
暴力の源は乱馬ではない。
拍手でもない。
落ちる橋でもない。
橋を落とし続けているのは、左巻上げの歯車だ。だがそこへ力を返せば、歯が砕け、橋は完全に自由落下する。
止めるべき源と、支えるべき場所は同じではない。
七歩目。
迅は白梁の前から、もう一度退いた。
照明橋の端が舞台を叩く。
衝撃が床を通り、両脚へ入る。
誓痕の七つの結び目が、右手首の赤紐の下で熱を持つ。
七退一還〈セブン・リターン〉。
七度譲った距離と力を、一度だけ源へ返す。
だが迅は、落下を起こした歯車を選ばない。
人を選ばない。
白梁を選ぶ。
返す力の向きを、壊すためではなく、支える位置へ合わせる。
「轟! 三度でいいな!」
「二・五! 金具が沈んだ!」
「細かい!」
「梁は細かくねえ!」
迅は前へ戻る。
一歩で七歩分。
赤い線が足元から右肩へ走る。
右拳は使わない。
骨は繋がっても、握力と感覚が戻り切っていない。
左の掌底を白梁の端へ当てる。
拳なら表面を割る。
掌なら面で押せる。
「戻れ」
声は大きくない。
白梁が鳴った。
どん、と低い音。
鋼芯が受け金具へ滑り込む。
二十六センチ。
右上二・五度。
梁の中央が照明橋の腹へ当たり、落下を受ける。
鉄骨が跳ねる。
支えたのは一瞬だけ。
梁の木皮が裂ける。
「今だ!」
轟が走り込む。
左肩は上げない。右手で梁の下へ楔を入れ、腰で押す。
凱が舞台袖から二本目の楔を持って来る。左膝を深く曲げず、床へ片膝をつかない。足で楔を送る。
「誰か、槌!」
命令ではない。
舞台技師が自分で選び、槌を取る。
一本目。
二本目。
三本目。
カナタは落ちた灯具を袖布で引き、作業範囲から外す。
残った役者の一人が、客席へ背を向けて照明橋を支えるロープを引く。
観客は拍手しない。
音を立てれば指示が聞こえないと分かった者が、隣へ手で伝える。
沈黙が客席を渡る。
乱馬は中央に立ったまま、拍子木を下ろしていた。
彼も指示しない。
舞台の専門は舞台技師へ戻る。
「左巻上げ、主電源切断!」
匿名の技師の声。
「切ると右も落ちます!」
別の声。
「右ブレーキを手動固定してから!」
「固定、あと六回転!」
凱が客席側を確認する。
「前列、三列後ろへ移動できる者だけ。走るな。係員の手を見ろ」
王命ではない。
守る対象も、目的も、範囲も言う。
観客は自分で立つ。
立てない者の前へ、他の客が盾にならず、椅子を畳んで空間を作る。
迅は白梁から手を離した。
左掌の皮が裂けている。
右手首の赤い紐は熱で汗を吸い、七つの結び目が黒く見える。
完全発動の反動が背中へ来た。
膝が落ちる。
カナタが肩を貸そうとする。
迅は一度避ける。
「今は借りて」
「足、痛いだろ」
「左肩なら」
「左右の問題じゃない」
「倒れたら照明より邪魔」
迅は借りた。
カナタの左肩へ腕を回す。
右足首を庇う歩幅と、迅の背中を庇う歩幅が噛み合わない。
二人はひどく不格好に舞台端へ退いた。
客席から、誰かが笑った。
迅も少し笑う。
「見せ場になった」
カナタ。
「最低だ」
「受け身は上手かった」
「今、落ちてない」
「倒れ方」
「褒めるな」
「褒めないと、君は次も黙って倒れる」
カナタは迅を舞台端へ座らせた。
救護員が来る。
「意識」
「ある」
「名前」
「竜胆迅」
「場所」
「舞台」
「今日の日付」
「二十七」
「月」
「十一」
「倒れた理由」
「七歩ぶん返した」
救護員がカナタを見る。
「能力反動です。背中の筋痙攣、右手の既往傷、左掌裂傷」
「本人より説明が早い」
迅。
「君は三語で済ませる」
「十分」
「医療では足りない」
救護員は瞳孔を見て、首の動きを確かめ、背中へ指を当てた。
「痛み、十段階」
「三」
「嘘」
カナタ。
「おまえに訊いてない」
「床へ膝が落ちた。息が二回止まった。少なくとも五」
「役者は盛る」
「安全稽古では盛らない」
迅は黙った。
「五」
救護員が頷く。
「座位維持。水は少量。右手の感覚を確認」
小指。
鈍い。
薬指。
半分。
中指。
正常。
以前からの範囲と同じだが、熱で強く出ている。
「今夜は完全発動をもう使わない」
「条件がない」
「条件があっても」
「俺が決める」
「医療上の制限として、救護責任者が決める」
迅の眉が寄る。
凱が横から言った。
「争うなら、橋を固定した後にしろ」
「おまえも命令するな」
「優先順位の提示だ」
「長い」
「正確だ」
カナタが笑う。
救護員は笑わず、左掌へ洗浄水を掛けた。
迅が顔をしかめる。
「痛み三?」
カナタ。
「今は六」
「正直は治療に向いてる」
「舞台には?」
「たいてい遅れて届く」
白梁の向こうで、追加楔を打つ音がした。
救護は戦闘の後ではない。
まだ揺れている最中に、次の無理を止める仕事だった。
「次、忘れる」
照明橋の振動が止まる。
「右ブレーキ固定!」
「左、切断!」
電動機の唸りが消えた。
橋は白梁と二本の楔、四本の補助ロープで支えられている。
まだ安全ではない。
技師が一本ずつ荷重を測る。
轟が梁を二度叩く。
「三分持つ。人を出せ」
「三分後は」
凱。
「追加支柱を入れる」
「それまで舞台を空ける」
凱は客席へ向く。
乱馬より先に話さない。
舞台監督が場内放送の送話器を取る。
「舞台機構事故が発生しました。現在、照明橋を仮支持しています。退出を希望する方は、係員の案内に従ってください。残る方は、前方三列を空けてください。走らないでください」
公演の台詞ではない。
乱馬の許可も取らない。
客席が動き始める。
迅の一撃は、梁を戻しただけだった。
橋を止めたのは技師。
楔を入れたのは轟と凱。
ロープを引いたのは役者。
前列を空けたのは観客。
誰か一人の勝利ではない。
乱馬が白梁へ近づいた。
裂けた木肌を指で撫でる。
「美しい」
迅はカナタの肩から離れた。
「事故を褒めるな」
「支え方をだ」
「それを次の場面に使うな」
「使わなければ、今夜が消える」
「七瀬が残す」
「記録は作品ではない」
「作品じゃなくていい」
「君には」
「客にも選ばせろ」
乱馬は客席を見る。
半分以上が空いている。
残った者の多くは、手を叩かずに作業を見ている。
沈黙は退屈ではない。
照明橋が落ちないことを待つ、具体的な意思だった。
七瀬の固定カメラが、舞台ではなく退出口を向いている。
その画角の端に、乱馬の横顔だけが入る。
「沈黙も票にするのか」
迅が訊く。
「票にしない」
真琴が客席下から答えた。
「意思表示として記録します。賛成とも反対とも決めず、拍手を行わなかった事実と、残留・退出の選択を別に」
「客は知ってる?」
「今から一列ずつ確認します」
「遅い」
「遅いから、乱馬の集計へ間に合わないかもしれません」
「なら急げ」
「急がせると、また一つになります」
迅は反論しない。
正しい速度は、戦闘より遅いことがある。
舞台監督が追加支柱を運び込む。
乱馬はその道を空けた。
拍子木を持つ左手が、わずかに震えている。
《再演要求》の反証と、照明事故の衝撃。古傷の左肩が上がり切らない。
「医者を」
カナタが言う。
「終幕の後だ」
「公演は止まってる」
「事故処理だ」
「それを終幕にする?」
「まだだ」
乱馬は拍子木を右手へ持ち替えた。
左手は下げたまま。
「公演は、止まっただけだ。終わってはいない」
迅は白梁を見る。
七歩分の熱が、もう消え始めている。
戻した梁は、技師が支えなければまた抜ける。
能力で作った一瞬は、仕事へ渡さなければ残らない。
舞台も同じだった。
乱馬はまだ、最後の一瞬を自分の物にしようとしている。
客席の沈黙の中、追加支柱を締める槌の音だけが続いた。