第145話 第十一章「幕を下ろす手」前編
十一月二十七日 午後九時十二分
幕は、物語を隠すために下りるのではない。
物語より先に、人間へ暗闇を返すために下りる。
紅葉カナタは、白梁へ最後の支柱が入るのを見届けた。
舞台技師が荷重計を読む。
「仮支持、安定。照明橋の電源遮断。再上昇は禁止。舞台中央、立入人数六名まで」
舞台監督が場内放送を繰り返す。
客席に残るのは、二百七十三人。
退出列はまだ続いている。
北西搬入口の外へ冷たい風が抜け、赤い椅子の間を通る。舞台上の偽煙はほとんど消えた。王宮の白壁、零番街の路地、金の祭壇、裂けた梁。作り物の継ぎ目が全部見える。
これほど舞台が裸になるのを、カナタは初めて見た。
乱馬は中央へ立つ。
金箔の半面は汗で端が浮いている。左肩を下げ、拍子木を右手へ持ち替えている。それでも姿勢は崩さない。
「皆様」
役ではない声。
柔らかい。
カナタが子どもの頃から聞いてきた、稽古後の声だった。
「機構事故により、予定された終幕は上演できません」
客席がざわつく。
怒声もある。
「だが、物語は終えられる。王は冠を捨て、狼は梁を支え、民の剣は名を取り戻した。今夜、あなた方が与えた拍手は、すでにこの都市の意思として記録された」
真琴が中央通路へ出る。
「異議があります」
声は大きくない。
乱馬は歓迎するように手を向ける。
「どうぞ」
「退出四百九十八名以降の集計は現在進行中。沈黙札、保留札、演目支持のみを示した札を、統治案への賛同へ算入できません」
「退出前の拍手は残る」
「何への拍手か、分離する意思表示が後から提出されています」
「後から意味を変えるのか」
「意味を一つに固定したのは券面です」
「券面を読んで入場した」
巴が真琴の横へ立つ。
白い手袋。折り畳み黒板。右人差し指を曲げず、左手で書く。
《読んだ》
《説明できる》
《同意した》
《同じではない》
乱馬が笑う。
「通訳者は、観客が理解しなかったと決めるのか」
巴は首を振る。
《決めない》
次の板。
《一人ずつ確認する》
「いつ終わる」
《急がせない》
「今夜の集計へ間に合わぬ」
《なら、集計しない》
客席から拍手が起きた。
少数。
巴は振り返り、黒板へ追加する。
《今の拍手の意味も、私が決めない》
笑いが起きる。
乱馬の口元も緩む。
「良い。実に良い。反論さえ舞台を豊かにする」
「だから舞台を終わらせます」
真琴。
「君に権限はない」
「ありません」
「では終わらない」
乱馬は右手を上げた。
舞台裏で、音響装置が動く。
拍手が流れた。
千人分。
第一幕で録音された音を重ね、音量を上げ、二階席の反響を足している。空席から音が来る。誰も座っていない椅子の下で、床が震える。
カナタの身体が反応した。
笑顔を作りそうになる。
胸を開き、客席へ礼をし、次の台詞を待つ。
長年の稽古が、録音と生身を区別しない。
足首の誓痕は光らない。
《予告拍手》は、観客の期待がなければ動かない。
音だけでは力にならない。
それでも身体は縛られる。
カナタは、その音源を知っていた。
第一幕の二景目。
壁走りの着地へ来た拍手。
左奥の咳。
木靴を三度鳴らす癖。
前列で少女が父親の手より半拍遅れて叩いた音。
生身だった時には、全部がばらばらで美しかった。
重ねられると、泥のように均一になる。
乱馬は録音拍手が嫌いだった。
地方興行で客席が三割しか埋まらなかった夜、主催者が天井裏から歓声を流したことがある。
乱馬は上演中に音源箱を引きずり出し、舞台上で踏み割った。
《空席にまで客のふりをさせるな。空席は、来なかった人間の席だ。》
その台詞は、紅牙座の若い役者たちが何度も真似した。
カナタも好きだった。
今、同じ乱馬が空席へ拍手を座らせている。
「兄ちゃん」
呼びかけが、口から出た。
役名でも座長でもない。
乱馬の眉がわずかに動く。
「その音、嫌いだったでしょ」
「今夜の客の音だ」
「今夜の空席に入れた」
「去った者が、いた証だ」
「去った人を戻したことにしてる」
「音は残った」
「人は出た」
「拍手を置いて」
「持って出た人もいる」
北西の坂から聞こえた小さな拍手。
壁走りがすごかったと、外へ出ながら手を打った少女。
その音は録音されていない。
録音されなかった拍手の方が、本人の手元へ残っている。
「おまえは、録音へ力を掛けられない」
カナタ。
「能力の話か」
「違う。兄ちゃんが信じてない」
「信じている」
「じゃあ左肩、押さえないで」
乱馬の右手は、無意識に左肩へ触れていた。
拍手が聞こえるたび、古傷を確かめる癖。
録音でも身体は同じ動作をした。
だが、目は客席を探している。
誰も叩いていない列を見るたび、金茶の瞳が一拍遅れる。
「客がいないと、声が小さくなるね」
カナタが言う。
乱馬はすぐ声量を上げた。
「二百七十三人いる!」
「数を言う前は、一人も見てなかった」
「見ている」
「どの人」
乱馬は答えない。
名前を知らない。
座席番号なら音響台帳にある。
だが、何へ拍手し、何に怒り、なぜ残ったかまでは知らない。
「僕も知らない」
カナタは言った。
「だから、一つにしない」
「役者は客を一つにする」
「一つの場面を見るだけ。帰り道まで同じにしない」
「それでは都市は動かぬ」
「僕は都市を演出しない」
「舞台だけなら無責任でいられる?」
「いられない。だから止める」
録音拍手の中で、乱馬の時計が見えた。
腰の鎖から下がる銀時計。
午後九時九分。
劇場の時計は九時十四分。
乱馬の時計は、いつも五分遅い。
終わる時刻を、少し先へ逃がすため。
今夜も同じだった。
彼はまだ、終幕の前にいるつもりだった。
乱馬は大音響の中で叫ぶ。
「これが今夜の拍手だ! 記録は残り、記録された意思は消えぬ!」
舞台上の拍手量計が赤域へ跳ねる。
機械は音を人間と区別しない。
回転床の補助灯が点滅する。
主電源は切られているが、集計装置は別系統だ。
七瀬の声が場内放送へ入った。
「午後九時十四分二秒。現在流れている拍手は、午後七時二十一分三十六秒から三十九秒の録音を、二・八秒単位で反復した音源です」
大拍手の上から、平坦な声が届く。
「根拠。左奥の咳、二階席の靴音、前列の三拍が、同一間隔で十一回反復。現在の固定映像に、拍手動作をする生身の観客は二十二名。その他の音は音響装置」
録音の中で、同じ咳がまた鳴る。
客席が気づく。
一度聞こえると、繰り返しが不自然になる。
巴が券面を掲げる。
《観客が行った拍手》
次。
《音響装置が再生した拍手ではない》
真琴が補足する。
「券面は『所定の場面における観客の肯定的反応』と定めています。録音再生は観客の現在の行為ではありません」
乱馬は拍手音を止めない。
「記録された過去の観客だ」
「過去の拍手は、過去の場面への反応です」
巴は舞台脇の長机へ、半券の束を広げた。
退出した者の時刻札。
沈黙を選んだ者の札。
保留。
演目だけを支持すると書いた札。
名前のないものが多い。だから人数は確認できても、音の一つ一つへ持ち主を戻すことはできない。
巴は黒板を二つ立てた。
《七時二十一分の拍手》
《九時十四分の再生》
一本の矢印で結ばない。
真琴が券面の時刻規定を読む。
「肯定的反応は、所定の場面における観客の行為として集計するとあります。場面と時刻を変えた再生は、同一の行為ではありません」
客席から男が立った。
「俺は七時二十一分に叩いた。今も、あの壁走りは良かったと思ってる」
巴が頷く。
《消さない》
「なら今の音にも入れていいだろ」
《あなたの今の意思として?》
「そうだ」
《今、手を叩く?》
男は一度だけ叩いた。
ぱん。
録音の千人分に飲まれるほど小さい。
七瀬の固定映像には、男の両手が入った。
巴は新しい札を渡す。
《午後九時十五分。壁走りへの評価。統治案とは分離。本人の希望により記録》
男が読む。
「細かいな」
《細かくしたい?》
「したい。今の一発は、俺のだから」
別の女が言う。
「私は、さっきは拍手した。でも今はしない」
巴はその言葉も別に書く。
過去を否定しない。
過去へ現在を縛らせない。
時間を分けることは、気持ちを薄めることではなかった。
乱馬が半券の束を見る。
「無名の紙で、客をばらばらにするのか」
巴は答える。
《最初から、別々に来た》
「作品は一つだ」
「場面は違う」
「意味は続く」
「同意は続けるかを本人が選べる」
乱馬の目が真琴から七瀬のカメラへ移る。
「記録屋。君の映像も過去を今へ流す」
七瀬は場内放送で答える。
「流す。命令しない」
「映像を見た者の判断を変える」
「変える。だから閲覧条件と撮影範囲を残す」
「私の音源と何が違う」
「録音だと隠さない」
「私は隠したか」
「今、最初に言わなかった」
拍手音の中で、短い沈黙が生まれた。
乱馬は右手の拍子木を見た。
「では言おう。これは録音だ。それでも、あの時の拍手は本物だった」
「はい」
七瀬。
「消しません」
「なら成立する」
「演目への反応として残します。統治案への同意としては、分離確認が必要です」
「君たちは物語を細かく切りすぎる」
「あなたが一つに束ねすぎる」
拍手音が二十回目の咳を流す。
カナタはその咳を数えていた。
乱馬なら、いつ止めるか。
次の台詞へ合わせるなら二十三回目。
観客の耳が反復へ慣れ、再び大きな音として受け入れる直前。
カナタはそれを予告できる。
長年、乱馬の間を読んできた。
だが予告して、上手く終わらせれば、また乱馬の演出になる。
上手くなくてよい。
途中でよい。
カナタは舞台袖の非常停止レバーを見た。
カナタは、すぐレバーへ走らなかった。
非常停止は、目立つ赤を引けば終わるほど簡単ではない。
三本ある。
上は音響停止。
中央は回転床と舞台灯。
下が防火幕と主幕。
全部を同時に引けば、客席が暗転し、退出列が足元を失う。防火幕だけ先に下ろせば、照明橋の仮支持と接触する可能性がある。
舞台監督から教わった順番は、音響、床、幕。
ただし今、床はすでに主電源を切られ、退出路の灯りは舞台灯の別回路へ仮接続されている。
稽古の順番ではない。
カナタは舞台監督を探す。
客席中央。
退出者へ説明中。
名前を呼べば、二百人が同時に振り返る。
乱馬の舞台へ、また全体を戻してしまう。
カナタは袖の技師へ手を上げた。
「今、幕を下ろせる?」
技師は照明橋の荷重計を見る。
「主幕は。防火幕は梁の振れが止まるまで待つ」
「何秒」
「四十から七十」
「幅がある」
「梁が決める」
「音響を先に切ったら」
「集計装置は落ちる。客席誘導灯は残る。北西の仮設灯も別」
「回転床」
「非常ブレーキ固定済み。電源を切っていい」
「主幕は」
「人が下にいないことを確認してから」
カナタは舞台下を見る。
凱。
女優。
衣装係。
乱馬。
自分。
白梁の近くに迅と轟、技師二人。
「六人を越えてる」
「梁の立入区域は六。幕軌道は別」
「分かりにくい」
「舞台は区域が重なる」
「客に説明できない」
「だから止める人間が要る」
技師は赤いレバーを見る。
「引くなら、あなた一人の判断にしないでください」
「僕が決めないと」
「決めるのはいい。確認を入れて」
「誰へ」
「幕下安全、私。客席誘導、舞台監督。医療、救護。記録、七瀬。返金は後」
「多い」
「全体を決めるって、人数が多いんです」
カナタは笑えなかった。
これまで乱馬は、全部を一人の拍子木で始めていた。
その速さに甘えていた。
カナタは内線へ手を伸ばす。
右足首が痛み、途中で壁へ手をつく。
「舞台監督。主幕を下ろしたい」
『誰の判断です』
「紅葉カナタ」
『役者として?』
「違う。今夜の停止演出を決める人として」
言い切ると、喉が乾いた。
『客席誘導は継続できます。北西と南平場、灯りあり。幕が下りると残留者が立つ可能性があります。放送を先に』
「了解」
「救護。幕軌道に負傷者いる?」
『いません。迅は梁側。乱馬さんの左肩は診察が必要ですが、歩行可』
「了解」
「七瀬。止めるところを撮る?」
『退出口を主画角にしています。幕は左端。音声と時刻は残る』
「中心へ戻さない?」
『戻しません』
「了解」
最後に技師を見る。
「主幕」
「下ろせます。防火幕はまだ」
「公演を止めるには、主幕だけでいい」
「火は止まりません」
「火事じゃない」
「比喩なら燃えています」
「舞台の人、すぐ比喩にする」
「あなたもです」
カナタは赤いレバーへ向き直る。
決める前に、確認した。
確認した人々が、代わりに責任を負うわけではない。
責任を一人で抱えることと、一人で勝手に決めることは同じではなかった。
赤い把手。
防火幕と主幕を手動で下ろし、音響、回転床、舞台照明を一系統ずつ切る。
通常は舞台監督が操作する。
今、舞台監督は退出路の責任者として客席側にいる。
「カナタ」
乱馬が呼ぶ。
大拍手の中でも聞こえた。
「戻れ」
「どこへ」
「舞台へ」
「今いる」
カナタは舞台の端に立っている。
「役へ戻れ」
「次の台詞は言わない」
「台詞は変える」
「誰が」
「私が」
「それを、やめる」
カナタは非常停止レバーへ歩き出した。
左の靴紐が床を擦る。
乱馬は拍子木を一度鳴らす。
録音の拍手は、能力を動かさない。
それでも合図として、二人の間に線を引いた。
午後九時十六分
非常停止レバーまで、九メートル。
乱馬との距離は、六。
カナタの右足首は、最初の一歩から痛んだ。
痛みを隠す必要はない。
客席の半分以上は空で、残った者も出口、券面、照明橋を見ている。自分だけが中心ではない。
それでも乱馬は、カナタの歩幅を知っている。
「右へ逃がす」
低い声。
拍子木が横から来る。
カナタは左へ避ける。
乱馬の言葉と逆。
右へ逃げると予想させたのではない。長い稽古で染みついた癖を口に出し、自分で意識させた。
意識した動作は遅れる。
拍子木の角がカナタの鎖骨へ当たる。
硬い。
木の小道具ではない。芯に鉄が入っている。
「痛っ」
声を作らない。
カナタは肩を落とし、衝撃を流す。右拳を乱馬の腹へ出す。
当てない殺陣の距離で止まる。
癖だった。
乱馬は止まった拳を掴む。
「舞台で本気を止めるな」
「客に当てないため」
「私は客ではない」
「演出家」
「今は相手だ」
乱馬が腕を捻る。
カナタは回転へ逆らわず、片膝を着く。右足首を守るため左膝。乱馬の懐へ入り、肩で胸を押す。
二人が離れる。
録音拍手が続く。
同じ咳。
二十三回目。
音が止まらない。
カナタの予想が外れた。
乱馬は、いつもの間を捨てた。
「予告できなかった顔だ」
「録音は期待しない」
「私が期待している」
「一人じゃ足りない」
「子どもの頃は、私一人で足りた」
カナタの足が止まる。
初めて舞台へ上がった日。
客席には乱馬しかいなかった。
壁を走れと言われ、三歩で落ちた。右足首を痛め、泣いた。乱馬は拍手を一度だけした。
《もう一度。》
その一人の期待で、カナタは立った。
今も同じ声が、身体の奥にいる。
「昔の話、今する?」
「今しか効かぬ」
「ずるい」
「演出家だからな」
「それ、責任じゃない」
「君を舞台へ置いた責任だ」
「降ろさない責任?」
「終わるまで支える」
「支えるって、持ったままにすることじゃない」
カナタは右へ踏む。
今度は言われる前。
乱馬の拍子木が左肩から斜めに落ちる。
一度目。
カナタは袖で受ける。
布が裂ける。
乱馬は同じ角度から二度目を振る。
成功した動きの反復。
観客の「もう一度」は弱い。録音は誓痕を動かさない。それでも乱馬自身が同じ技を選ぶ。
二度目は強い。
カナタは半歩遅れ、拍子木が左上腕へ入る。
痺れ。
乱馬の古い左肩も、振り上げのたび軋んでいる。
三度目。
同じ角度。
乱馬は癖ではなく、意地で繰り返す。
カナタには分かる。
《再演要求》を他者へ掛ける者は、自分も再演へ縛られる。
三度目の拍子木が上がる。
左肩が途中で止まった。
筋が跳ねる。
乱馬の顔から血の気が引く。
それでも振り下ろす。
カナタは受けなかった。
前へ入る。
拍子木の内側へ額を寄せ、乱馬の右胸へ掌を当てる。押さない。
二人の身体が一瞬、近すぎて戦えなくなる。
「三回目、壊れる」
カナタが言う。
「終幕は三度鳴らす」
「今日は二度でいい」
「未完になる」
「する」
「君が?」
「僕が」
乱馬の目が揺れる。
カナタは離れた。
非常停止レバーまで四メートル。
乱馬は左肩を下げ、右手だけで拍子木を持つ。
「そこへ触れれば、主幕が下りる」
「知ってる」
「照明橋の下へ引っ掛かる可能性がある」
「防火幕は別軌道。舞台監督に確認した」
「音響も切れる」
「切る」
「返金が必要になる」
「払う」
「君の金では足りない」
「僕の分だけ」
「役者の賃金は」
「払わせる」
「誰に」
「主催者」
「拒んだら」
「仕事にする」
「演出家の言葉だ」
「今、初めて言った」
カナタはレバーへ走る。
右足首が沈む。
乱馬が横から入る。
拍子木を投げた。
カナタの手より先に、赤い把手へ当たる。
レバーが半分下がる。
警報が鳴った。
主幕の上部が動く。
「止めたの、乱馬?」
「邪魔した」
「結果は」
「半分だ」
カナタは笑いそうになった。
半分。
それでいい。
乱馬が投げた拍子木を拾おうとする。
カナタは蹴らない。
拍子木の上へ自分の仮面を投げた。
赤青の半面が床を滑り、金の木片へ重なる。
乱馬の視線が一瞬止まる。
道具を踏めない。
カナタも同じだった。
二人が育てた仮面。
衣装部の高価な物。
今は、勝敗より一秒を作る障害物。
カナタはレバーへ手を掛けた。
右手。
重い。
非常用のばねが戻そうとする。
左手も添える。
上腕の痺れで力が入らない。
「手伝って!」
叫んだ。
誰へか決めない。
最初に来たのは、袖で座っていた女優だった。
次に衣装係。
舞台技師。
三人がレバーへ手を重ねる。
乱馬は止めようとする。
凱が間へ入った。
殴らない。
「通すな」とも言わない。
乱馬の前へ立つ。
「止めるなら、俺を退かせろ」
「王に戻ったか」
「役はない。俺一人だ」
「一人で私を止める?」
「止めない。選ぶ時間を置く」
乱馬は凱の肩越しに、カナタを見る。
レバーが下がる。
警報が二度目を鳴らす。
録音拍手が途切れた。
一瞬で。
咳も、足踏みも、歓声も消える。
生身の客席に残った音だけが戻る。
息。
椅子の軋み。
遠い泣き声。
退出札を数える紙音。
音響台の扉が開いた。
灰色の作業服を着た男が、二本の録音輪を両腕で抱えて出てくる。顔は汗で濡れ、耳当てを首へ下げていた。
「音源担当です。再生開始、午後九時十三分五十八秒。指示者、紅城乱馬。操作したのは私です」
七瀬の場内放送が返る。
「氏名の公開範囲」
「今は役職だけ。内部記録には署名します」
「了解」
男は録音輪を床へ置いた。
「非常停止で再生は切れました。予備輪は外しました。再投入は、私と舞台監督の二名確認に変えます」
「座長の許可は」
真琴が訊く。
「上演判断には必要でしょう。音響安全の解除には、技術側の確認が必要です」
乱馬が男を見る。
「私の命令で流した」
「はい」
「最後まで責任を取れ」
「だから、もう客の代わりには使いません」
「さっきは使った」
「使いました。記録へ残します」
言い訳をしない声は、大きくない。
それでも、録音の千人分より遠くまで届いた。
男は主電源鍵を舞台監督へ渡す。
乱馬は録音輪を壊さない。
踏みもしない。
今回は、壊すより先に、使わないと決めた人がいた。
主幕が下り始める。
主幕の赤い布が半分まで下りた時、客席の一部から怒声が上がった。
「上げろ!」
「結末を見せろ!」
「金は払った!」
別の声も来る。
「そのまま下ろせ!」
「先に出口を!」
「乱馬を病院へ!」
同じ劇場で、次に望むことが四つに割れる。
カナタの足首に光は集まらない。
予告できない。
それでよかった。
乱馬は怒声の中から、「上げろ」だけを選ぼうとする。
右手が幕の操作紐へ伸びる。
左肩は上がらない。
カナタがその手首を止めた。
「聞こえた?」
「上げろと」
「他も」
「舞台は一つだ」
「客は一つじゃない」
「選べば誰かを裏切る」
「うん」
「それが怖くないのか」
「怖い」
「なら私に任せろ」
「兄ちゃんも怖いから、一つにした」
乱馬の金茶の瞳が、幕の向こうの客席を追う。
赤い布が顔の高さまで下り、見える範囲が狭くなる。
「拍手が止んだら、何が残る」
乱馬の声は小さかった。
観客ゼロの稽古場でしか聞かない声。
「人」
「綺麗事だ」
「怪我した人。怒ってる人。返金する人。片付ける人」
「作品は」
「途中」
「途中は残らない」
「残す」
「七瀬が?」
「僕も」
乱馬がカナタを見る。
「おまえは、終わらせられなかった役者として残る」
「初めて決めた演出家としても」
「欲張りだ」
「兄ちゃんに育てられた」
乱馬は、そこで一度だけ笑った。
見得ではない。
すぐ消えた。
上から赤い布。
通常より遅い。安全装置が、照明橋との距離を確認しながら降ろす。
乱馬が凱の横を抜ける。
カナタへ来る。
拳。
左肩が上がらず、右の直線。
カナタは避ける。
レバーから手を離せない。
拳が頬へ当たる。
舞台用ではない。
口の中が切れる。
女優がカナタの手の位置を引き継ぐ。
「離していい!」
カナタは離す。
乱馬へ向く。
二発目を左前腕で受ける。
「最後まで!」
乱馬。
「ここが最後!」
「幕が床へ着くまでだ!」
「着ける!」
二人は下りる幕の下で動く。
赤い布の端が乱馬の髪へ触れる。
カナタは右足を軸にしない。左から入り、乱馬の右腕を抱える。投げれば勝てる位置。
投げない。
身体を横へ運び、幕の軌道から外す。
乱馬も抵抗する。
「勝て!」
「嫌だ!」
「役者なら見せろ!」
「演出家だから止める!」
初めて口にした。
自分で。
言った瞬間、怖さが増した。
演出家と名乗れば、この幕の早さも、客の怒りも、返金も、役者の賃金も、自分の失敗へ近づく。
乱馬は動きを止めた。
「演出家」
その言葉を、味わうように繰り返す。
「今夜だけ」
「逃げ道を付けるな」
「付ける。必要だから」
「では、今夜の終幕を命じろ」
カナタは客席を見た。
赤い幕が視界を狭める。
残った観客の顔が、下から少しずつ消える。
命じない。
「幕を下ろします」
説明する。
「公演は、ここで止まります。結末はありません。帰る人は、今の案内を使ってください。残る人は、幕が床へ着くまで席で待ってください」
謝罪は後にする。
今は安全。
幕が乱馬の胸まで下りる。
彼は屈めば向こうへ行ける。
行かない。
カナタと同じ側に残る。
赤い布が二人の頭上を越え、床へ近づく。
最後の隙間から、客席の白髪の男が見えた。
男は拍手しなかった。
ただ、帽子を取って膝へ置いた。
幕が床へ着く。
金具が左右の溝へ収まる。
ごとん。
公演は、終わらなかった。
止まった。
暗転の中、誰も次の台詞を言わなかった。