第350話 第五章「複製禁止」後編

「家族は」

「許可しなければ読みません」

「許可したかどうかを、家族は知る?」

「公開しない設定にできます」

「設定したことを、誰が知る」

 巴の手が止まる。

 拒否を守るための記録が、拒否した人の輪郭を増やす。

「最小限にします」

「最小は誰の最小」

 榊が前歯へ舌を触れた。

「競売所運用上は、ロット番号、拒否時刻、本人照合済み、の三点です」

「ロット番号で、私が誰か分かる人がいる」

「照合者には」

「照合者が家族かもしれない」

「別の照合者を選べます」

「選んだ記録が残る」

 女性は出口へ一歩近づいた。

「私は、何も残したくない」

「何も残さないと、元の契約が進みます」

 価が言う。

 女性は価を見る。

「それが、あなたの脅し?」

「事実」

「あなたが作った事実」

「私一人じゃない」

「人数が増えると、事実になる?」

 価は答えない。

 巴は、平文紙を伏せた。

「記録しない拒否を、作れるか確認します」

「今、作らない?」

「私一人で決められません」

「では帰る」

「帰ったことは」

「記録しないで」

 七瀬がカメラを下ろす。

「撮影していません」

「あなたが覚える」

「覚えます」

「消せる?」

「消せません」

「なら、完全には無理ね」

「はい」

「無理と言えるなら、少しまし」

 女性は椅子の横を通り、出口へ向かった。

 係員が扉の脇で、退室時刻を書こうとする。

 巴が止めた。

「入室者総数から一人減らすだけ。個別時刻を書かない」

「監査できません」

「退室を追わない選択の監査記録を作る」

「矛盾です」

「はい」

 女性が扉を開ける。

「名前は?」

 係員が反射的に聞いた。

 女性は振り返らない。

 巴が答える。

「聞かないでください」

 扉が閉じた。

 残ったのは、《一名が個別記録を拒否して退室。氏名・時刻・ロット未記録》という一行だけだった。

 完全な無記録ではない。

 完全に記録しないことを、制度は証明できない。

 巴はその限界を、成功のように言わなかった。

「説明を受ければ自由になる、ではないですね」

 榊が言う。

「説明されないと選べないことがあります」

「説明されることで、選びにくくなることも」

「あります」

「なら通訳は」

「必要です」

「自信がある」

「自信ではありません。責任を捨てないだけです」

「名言みたいだ」

「今のは長すぎます」

 巴は、出口の閉まった音を聞けなかった。

 床の振動だけが、女性がもう廊下を歩いていると教えた。

 午後五時二十分、説明室に食事が入った。

 小麦が持ってきたのは、具の違う三種類の小さな握り飯だった。

 白――塩だけ。

 茶――豆味噌。

 黒――海苔と胡麻。

「好きなのを」

 係員が言う。

「違います」

 小麦。

「白は内容説明を受けた人、茶は一部だけ、黒は受けなかった人です」

 巴が顔を上げる。

「分類を食事へ出さないでください」

「違う。そう見える並べ方が危ないって見せた」

 小麦は三種を全部混ぜた。

「今、誰が何を聞いたか、皿で分かったでしょう」

 係員は黙った。

「食事の好みまで、回答の印にしない。全員、三種類から選べる。取った物を記録しない」

「実験ですか」

 巴。

「厨房の嫌味」

「事前に言って」

「言ったら見えない」

「同意を」

「今、全員に謝る」

 小麦は部屋の中央で頭を下げた。

「一度、回答と食事を結びつける並べ方をしました。誰が何を選んだかは記録していません。嫌だった人は、私へ言わなくていい。食べない選択も、別の食事を求める選択もあります」

 後方の男が言う。

「黒が好きだったのに、取れなくなった」

「今から混ぜた。取って」

「見られる」

「私が先に黒を食べる」

 小麦は黒い握り飯を一つ口へ入れた。

「厨房の人が食べると、安全証明?」

 男。

「味見」

「毒なら」

「一緒に倒れる」

「安心できない」

「じゃあ、白を」

 男は黒を取った。

 説明を受けたかどうかと、海苔が好きかどうかは別になった。

 巴は平文紙の端へ書く。

《回答を、席、色、食事、腕章で識別させない》

 小麦が覗く。

「厨房も書いて」

《食事》の下へ太線が引かれた。

 制度の差別は、条文だけで起きない。

 昼食の皿にも、入口の並びにも、誰が何を選んだかを勝手に漏らす形がある。

 巴は握り飯を一つ取った。

 色は見ずに。

 噛んでから、豆味噌だと分かった。

 知る順番が、たまにはそれでいいこともあった。

 午後六時十二分。

 巴は説明会の結果を一枚へまとめた。

 売却継続希望、三。

 返却希望、二。

 共同保管希望、一。

 限定閲覧希望、二。

 破棄希望、ゼロ。

 分からない、四。

 十二ロットと数は一致しない。

 一つのロットに複数の人間がいるからだ。

「集計できませんね」

 価が言った。

「集計しない」

「競売は明日」

「だから?」

「決めない人の分は、規約どおり進める」

「決めないことを、元の契約への同意に変えない」

「契約を止めるなら、全員の同意を取って」

 巴は壁の規約を見る。

 まとめ同意。

 競売所へ入った時点で、全条項を読んだものとみなす。

 説明を拒否した人も。

 分からない人も。

 決めない人も。

 同じ《同意》へ押し込まれる。

 巴の右手が震えた。

 能力を使えば止められる。

 だが、止めた後に誰が所有者かは決められない。

 止めることと決めることを、同じ力へ押し込まない。

 巴は左手で、黒い札を十二枚切った。

 表には何も書かない。

 裏へだけ、三つの選択肢を書く。

《説明を受ける》

《説明を受けず拒否する》

《今は決めない》

 綺理が一枚を取った。

「内容区分は」

「まだ書かない」

「変わりましたね」

「負けたわけではありません」

「はい」

「そこは否定してください」

「必要ですか」

「少し」

「では、負けていません」

 巴は冷却剤の小瓶を返した。

 綺理は受け取らず、机へ置いた。

「まだ腫れています」

「見ないでください」

「見えました」

「では、覚えないで」

「それは約束できません」

 巴は笑った。

 十二枚の黒い札は、何も書かれていない面を上にして並んでいた。

 空白ではない。

 まだ、誰の説明も勝手に入れていない面だった。