第351話 第六章「七瀬の所有権」前編
母親の遺品には、三種類ある。
捨てられるもの。
捨てられないもの。
捨てていいか、もう本人へ聞けないもの。
七瀬の部屋には、三番目しかなかった。
八月十三日、午前七時三分。
彼女は競売所裏手の編集確認室で、《編集卓十五分》の映像を見ていた。
正確には、見てよいと確認された十四秒だけを見ていた。
画面には、二つの手が映っている。
一つは、母・火群灯里の手。
爪を短く切り、右親指の付け根に火傷の跡。編集レバーを引く前に、必ず指を二度拭く。
もう一つは、少年の手。
細い。
左中指に黒インク。
フィルムの端を押さえる角度が、妙に正確だった。
『ここ、悲鳴が遅い』
灯里の声。
『実際は三秒後です』
少年。
『映像は先に崩れてる。三秒待つと、視聴者が離れる』
『時刻が変わります』
『時刻は字幕へ出す』
『音は先に?』
『先に』
十四秒が終わった。
画面は灰色へ戻る。
七瀬は再生ボタンを押さなかった。
押せないのではない。
押せば、権限外の暗号が機械を止める。
その違いが腹立たしかった。
「母の記録です」
七瀬は言った。
向かいに座る綺理は、透明な雨衣の袖へ薄青い糸を結んでいた。
「母が撮った。母が編集した。母の機材で保存された。遺族である私に、少なくとも確認する権利がある」
「火群灯里の手が映っています」
「はい」
「少年の手も」
「少年が誰か確認できます」
「確認したら、あなたの権利が増えますか」
「責任者が分かる」
「責任者が分かれば、少年の映像はあなたのものになる?」
「そうは言っていません」
「まだ」
七瀬は左肩を動かした。
固定帯の下で熱が走る。
「母が死んだ時、未整理の機材は全部、災害記録局に回収されました。父にも私にも返っていない。今まで《公共記録》だと言われて、見せてもらえなかった。それが競売に出たら、今度は《私有財産》だと言われる。都合がよすぎる」
「都合が悪いから、あなたのものになる?」
「質問ばかりですね」
「答えると、私が決めるから」
七瀬はカメラの固定台を回した。
レンズは灰色の画面へ向く。
「十四秒を記録します」
「許可範囲は、確認室内の再生像を外部撮影しない条件です」
「なら、私の見た内容を口述する」
「それは止められません」
「止めない?」
「あなたの記憶まで私が保管すると、私は人になります」
「今も人です」
「仕事の話です」
「仕事をすると人じゃなくなる?」
「人のままだと、好き嫌いで瓶を渡します」
「あなたは、好き嫌いがないんですか」
「あります」
「私が嫌い?」
「カメラを持っている時は」
「持っていない時は」
「まだ会ったことが少ない」
七瀬は一瞬だけ笑った。
綺理は雨衣の内側から、三枚の写真を出した。
写真そのものではない。
保管庫へ持ち込まれた物品の外観記録だった。
一枚目、焦げた撮影手袋。
二枚目、三号機の予備クランク。
三枚目、零番街の食堂で使われた欠けた匙。
「どれが火群灯里の遺品ですか」
「全部、母が使った可能性があります」
「所有していた物は」
「手袋とクランク」
「根拠」
「見たことがある」
「匙は」
「母が食堂で使っていた」
「食堂の物かもしれない」
「はい」
「手袋は救難隊の貸与品かもしれない」
「母は自分で縫っていました」
「材料費を救難隊が出したかもしれない」
「知りません」
「クランクは父親が送った」
「母へ」
「贈与か、修理部品の貸与か」
「父に聞けば分かる」
「聞きますか」
七瀬は三枚目から目を逸らした。
「今は」
「では、三つともあなたの所有物と確定できません」
「でも、遺品です」
「誰かが亡くなった後に残った物、という意味なら」
「その言い方は嫌いです」
「はい」
「もっと、人の物でしょう」
「人が使ったことと、人が所有したことは別です」
「また別」
「分けないと、食堂の匙まで遺族が持っていけます」
七瀬は、母が欠けた匙で豆を潰していた姿を覚えている。
母は急いでいる時、豆を噛まず、匙の背で潰して飲み込んだ。
それを父が《食事ではなく補給だ》と笑った。
母は《補給も食事》と返した。
撮影記録ではない。
家族しか知らない記憶だった。
「その匙を、私は欲しい」
「なぜ」
「母が使ったから」
「食堂も欲しいかもしれない」
「匙一本くらい」
「一本くらいを、誰が決める」
「私です」
言い切った後、七瀬は自分の声を聞いた。
「今のが、所有ですか」
綺理。
「欲しいと言って、自分が決める」
「私を試した?」
「いいえ。あなたが何を根拠にするか見た」
「同じです」
「違います」
「便利ですね」
「便利に使いました」
七瀬は三枚の写真を机へ伏せた。
「母の物が一つも私へ返らなかった時期があります」
「知っています」
「記録局は《公共》と言った。父は《調査中》と言った。私は十五歳で、親族同意が要ると言われた。十八歳になったら、保存期限が切れた物は処分済みだった」
「だから今、先に持ちたい」
「はい」
「持てば、二度と取り上げられない?」
「取り上げようとする人はいます」
「私が鍵を持てば」
「あなたが他の人から取り上げる側になることもある」
七瀬は左肩の固定帯へ右手を当てた。
痛みを押す癖ではない。
何かを抱えている形に見える。
「私が母の娘であることは、消えません」
「はい」
「では、何が増えると権利になる」
「本人の意思。共同で映る人の意思。作成時の契約。現在の保管責任。費用。危険。たぶん、他にも」
「娘であることは、その中の一つ?」
「一つです」
「最初ではない」
「場合によります」
「最後でもない」
「場合によります」
「答えになっていません」
「所有権は、家族へ返せば終わる問題ではありません」
「でも、家族を無視しても終わらない」
「はい」
七瀬は写真を表へ戻した。
三つとも母の記憶を呼ぶ。
三つとも、七瀬だけの物とはまだ言えない。
欲しいという感情は消えなかった。
消えないまま、根拠の一番上から下ろした。
その時、編集確認室の照明が一段暗くなった。
停電ではない。
天井の遮光板が、一枚ずつ閉じている。
七瀬は出口を見る。
迅は廊下にいる。
巴は説明室。
凱は入札席。
室内には七瀬と綺理しかいないはずだった。
「光を落としてください」
男の声がした。
背後。
七瀬は椅子を蹴らない。
右足を引き、カメラ台を身体の横へ滑らせる。左肩を守る位置。綺理は石英棒を取らず、机の下の警報紐へ指を掛けた。
「引くと、室内の容器が封鎖されます」
声の主が言う。
「同時に、十四秒の再生権も失効する」
「脅迫ですか」
七瀬。
「説明です」
「説明なら、姿を見せてください」
「姿があると、言葉より姿を撮る」
「あなたの都合でしょう」
「記録は、だいたい撮る側の都合です」
編集卓の背面から、男が立ち上がった。
薄墨影治。
十九歳。
黒に近い灰色の髪。光を吸う布の長衣。靴底には音を消す薄い革。左の瞳だけ色が淡く、強い光を避けるように細めている。
能力の気配はなかった。
単に、遮光板の点検口から入り、配線溝の裏に座っていただけだ。
「最初からいましたね」
七瀬が言う。
「七分前から」
「最初ではありません」
「あなたにとっては、映像の最初が最初だから」
「今の台詞、格好いいと思いました?」
「少し」
「減点です」
「何点満点」
「決めていません」
「価格が付かない」
「あなたまで蔵前みたいなことを言わないで」
薄墨は机の端へ、小さな黒い鍵を置いた。
記憶鍵ではない。
古い編集卓の機械鍵だった。
「《編集卓十五分》の少年は、俺です」
七瀬の指が止まる。
「十五歳?」
「当時」
「母と仕事をしていた」
「仕事と呼ぶなら」
「呼ばないなら」
「使われていた。使わせていた。両方」
「曖昧です」
「曖昧にしたいから」
七瀬はカメラへ手を置いた。
薄墨の視線が動く。
「撮影許可は」
「出していない」
「では撮りません」
「素直だ」
「許可がないからです。信用したからではない」
「その区別は助かる」
綺理が聞く。
「鍵を持っている理由は」
「灯里さんが渡した」
「本人の意思を証明できますか」
「できない」
「なら、あなたの所有鍵ではない」
「そう」
薄墨はあっさり答えた。
七瀬は苛立った。
悪人が自分の不利を認めると、殴る場所が減る。
「母を、灯里さんと呼ぶんですね」
「他に呼び方がない」
「先生ではなく」
「教わった。だから先生と呼ぶと、俺がしたことが教育の結果みたいになる」
「何をしたんです」
薄墨は灰色の画面を見る。
「悲鳴を三秒早めた」
「さっき見ました」
「他にもある」
「見せてください」
「拒否した人が映っている」
「では、その人を隠して」
「声で分かる」
「声を消して」
「動きで分かる」
「切って」
「切れば、灯里さんの加害が弱く見える」
「なら全部」
「本人が拒否している」
七瀬は立ち上がった。
左肩が鋭く痛む。
顔には出さない。
「あなたは、母の悪いところだけ知っている顔をする」
「良いところも知ってる」
「なら言ってください」
「救助隊より先に危険へ入った。名前を出したくない被害者の顔を守った。配給記録の改竄を止めた。俺の編集を、十五歳だからという理由で無条件に褒めなかった」
「最後だけ、あなたの話ですね」
「だから覚えてる」
「母は、あなたを利用した?」
「した」
「あなたは、母を利用した?」
「した」
「何のために」
「上手いと思われたかった」
薄墨は、初めて主語を落とさなかった。
「俺が切れば、人が泣いた。俺が音を早めれば、放送後の寄付が増えた。灯里さんが《違う》と言うと腹が立った。次は言わせない編集をしたかった」
「母は止めなかった」
「止めた時もある」
「止めなかった時は」
「数字が必要な時」
「何の数字」
「視聴者、寄付、配給、救助要員。人を助ける数字」
「助けるためなら」
「何をしてもいいとは、灯里さんも言わなかった」
「したんでしょう」
「した」
七瀬の声が低くなった。
「あなたは、母を庇いたいんですか。売りたいんですか。罰したいんですか」
「どれも違う」
「では何を」
「切った跡を、切る前の世界みたいに扱わないでほしい」
薄墨は編集卓の鍵を回した。
灰色の画面に、静止像が出る。
濁水の前。
灯里。
救助された女。
女の腕には子ども。
女の顔は黒く塗られている。
音はない。
字幕だけが表示される。
《撮り直し一回。歩行可能範囲のみ。本人謝礼二千環》
七瀬は目を逸らさない。
母は女へ、崩れた階段の前へ戻るよう手で示している。
女は首を振る。
灯里は何か言う。
女がもう一度、同じ道を歩く。
腕の子どもが泣く。
灯里はカメラを回している。
「音を戻してください」
「拒否されています」
「母の声だけ」
「分離できない」
「字幕は誰が」
「俺」
「信用できない」
「正しい」
「正しいと言わないで」
「では、信用しないで」
「それでも確認は必要です」
「確認したいのは、母親が悪くなかったこと?」
七瀬の右手が編集卓を叩いた。
カメラが揺れる。
固定台がなければ落ちていた。
「違う」
「言うのが速い」
「違う」
「では、母親が悪かったこと?」
「違う」
「何を確認する」
「何があったか」
「誰のために」
「記録のため」
「記録は人じゃない」
「知っています」
「今、知らない顔をした」
七瀬は薄墨へ一歩近づいた。
左肩が熱い。
綺理が止めない。
止めないことが、味方でないことを示している。
「母が死んだ後」
七瀬は言った。
「皆、母の映像を使いました。勇敢な記録者。洪水の真実を残した人。行政を告発した人。私には、母の最後の映像すら見せなかった。危険だから、未成年だから、捜査中だから。それが終わったら、今度は権利が複雑だから。私はずっと、《あなたのために見せない》と言われてきた」
「だから、今度は全部見る?」
「見たい」
七瀬は言った。
初めて、必要ではなく欲望として言った。
「母の声を聞きたい。母が何をしたか、全部見たい。正しい人だったと思いたい。間違っていたなら、私が先に知りたい。他人に値段を付けられる前に、自分のものにしたい」
七瀬は編集卓の端末を見た。
「買えるなら、いくらですか」
綺理は答えない。薄墨も答えない。
廊下にいた迅が、半開きの扉から言った。
「買えば」
説教でも、許可でもない声だった。
「足りない」
「いくら」
「今の表示で百四十七万。鍵と複製経路まで買い戻すなら、たぶんその数倍」
「借りる?」
「返せない」
「じゃあ盗る?」
「あなたが言うと具体的すぎる」
「欲しいんだろ」
「欲しい」
言葉にすると、胸の奥で何かが軽くなるどころか、値札より重くなった。
「でも、買った瞬間に、母と一緒に映った人まで私の棚へ入る。それは嫌」
「じゃあ買わない?」
「私一人の物にするためには、買わない」
「面倒」
「欲しい物ほど、面倒なんです」
迅は扉から離れた。
「じゃあ、欲しいままやれ」
綺理が小さく息を吐いた。
薄墨は笑わなかった。
「母は、家では撮りませんでした」
七瀬は突然言った。
薄墨が瞬きをする。
「食事中も、父と喧嘩している時も、私が熱を出した時も。カメラは玄関の箱へ入れて、鍵を掛けた」
「仕事と家を分けた?」
「たぶん。少なくとも、私にはそう見えた」
「良い母親だった証拠?」
「違う」
七瀬は、灰色の画面ではなく自分の右手を見る。
「私は、撮られていない母を覚えています。豆を焦がした。髪を結ぶのが下手だった。寝る前に機材のねじを数えた。私が泣くと、《今の顔を残せたら》と言って、それでも撮らなかった」
「撮らなかったから、残っていない」
「私には残っています」
「それを、他の人へ証明したい?」
「したい時もあります」
「母親は優しかった、と」
「優しかった時があった」
「加害した映像と並べる?」
「並べれば、相殺になる」
「別々に置く?」
「別々だと、別人みたいになる」
「ならどうする」
「分かりません」
薄墨は編集卓の端へ座った。
「俺は、灯里さんが昼飯を食うところを一度しか見てない」
「何を」
「焦げた薄パン」
「母は焦げた方を人へ渡しません」
「俺に渡した」
「嫌われていた?」
「たぶん、若いから胃が強いと思われた」
「十五歳です」
「そういう扱いだった」
「あなたは怒った?」
「パンには」
「母には」
「あとで」
「何年後」
「今も」
二人は、同じ女性の違う食事を覚えていた。
どちらも映像にない。
どちらも、相手へ渡せば少し形が変わる。
「私の母の記憶を、あなたが持っている」
「俺の灯里さんの記憶を、あなたも持ってる」
「返してとは言えない」
「頭からは」
「だから、媒体だけでも持ちたいのかもしれない」
「持てるから」
「はい」
「持てる物へ、持てない記憶の代わりをさせる?」
七瀬は答えなかった。
母の映像を所有しても、薄墨の焦げたパンは七瀬のものにならない。
七瀬の《撮らなかった母》も、薄墨へ渡し切れない。
所有できる媒体だけを全部集めれば、所有できない母まで手に入るという考えが、そこで初めて少しだけ薄くなった。
「そう言われた方が、断りやすい」
「断るんですか」
「俺の部分は、俺が決める。撮られた人の部分は、その人が決める。灯里さんの部分は、遺族だけで決まらない」
「あなたが決めるんですか」
「俺だけでは決めない」
「鍵を持っている」
「持っていることと、権利があることは違う」
「鍵を返してください」
「返す相手が決まっていない」
「綺理さんへ」
「保管者へ集めると、保管者が所有者になる」
綺理が言う。
「私は受け取れます。ただし、単独では受け取りません」
「誰と」
「まだ決めていません」
薄墨が編集卓の奥から、紙の束を出した。
閲覧記録。
二十三本の鍵のうち、七本の利用時刻がある。場所名は伏せられている。だが接続形式は同じだった。
競売所の鍵ではない。
都市内の既存閲覧端末へ接続する形式。
「競売を止めても、この経路は残る」
薄墨が言う。
「誰が作った」
「一人ではない」
「名前は」
「全部は知らない」
「知っている分を」
「出せば、先に端末が消える」
「出さなければ、今も誰かが見る」
「だから、原本を奪うだけでは足りない」
七瀬は紙を撮ろうとした。
薄墨が手を置く。
「これは許可しない」
「証拠です」
「場所が含まれる」
「隠します」
「隠したと証明するため、元を保存する?」
「はい」
「その元を誰が見る?」
「監査者」
「監査者を誰が選ぶ?」
七瀬は答えなかった。
綺理が言う。
「まず、現在の持ち主へ聞きます」
「時間がかかる」
七瀬。
「かけます」
「その間に売られる」
「競売停止と、所有確認を同時にしない」
「止める手段は」
「巴が規約を止める。迅が容器を守る。凱が出品者の費用を分ける。イオが現在の生活を確認する。私は鍵を分ける」
「私の役割は」
綺理は七瀬を見る。
「今の人が何を望むか、記録する」
「母の正しさは」
「役割に入っていません」
七瀬は目を閉じた。
カメラのクランクへ触れる。
半回転、逆へ戻す。
「薄墨さん」
「さんは要らない」
「影治」
薄墨の眉が動いた。
「あなたの呼び方を確認していませんでした」
「今はそれでいい」
「あなたが切った部分のうち、現在の当事者が閲覧を望んだ範囲だけ、照合に協力してください」
「灯里さんの記録を全部見ない?」
「見たいです」
「さっき聞いた」
「でも、見たいことを、権利の証明に使わない」
「できる?」
「できなければ、記録します」
「失敗を?」
「誰を押したか、何を勝手に見たか、何時に止めなかったか」
薄墨は黒い機械鍵を机へ押し出した。
「これは、十五分の編集卓だけ」
「受け取ります」
「所有?」
「保全。綺理さんと共同」
綺理が首を横へ振った。
「今は受け取らない」
「なぜ」
「共同相手が二人だけだから」
「二人では少ない?」
「あなたと私が喧嘩したら、鍵が人質になる」
七瀬は鍵を取らなかった。
薄墨も戻さなかった。