第352話 第六章「七瀬の所有権」後編

 黒い鍵は、三人の間に残った。

 午前八時二十六分。

 午前九時十七分。

 薄墨は編集確認室の床へ、フィルム片を六本並べた。

 同じ救助場面。

 一、女が階段へ戻る前。

 二、灯里が手を上げる。

 三、女が首を振る。

 四、子どもが泣く。

 五、女が歩く。

 六、灯里がカメラを下げる。

「放送されたのは」

 七瀬が聞く。

 薄墨は二、五、六を取った。

「拒否がない」

「消した」

「誰が」

「俺」

「母の指示」

「最初は」

「最初は?」

「灯里さんは三も入れろと言った。俺が《分かりにくい》と外した。試写で寄付担当が、拒否を見せると救助隊への不信が増えると言った。灯里さんは戻さなかった」

「母が最終決定」

「そう」

「あなたは、自分の加害を母へ渡している」

「渡してる」

「認めれば良いと思ってる?」

「思ってない」

「なら何で、そんなに簡単に」

「難しそうに言うと、責任が深く見える」

 七瀬は六本の順を撮らない。

 紙へ番号だけを書く。

「放送後、何が起きた」

「寄付が三割増えた。救助隊員募集が四十七人。撮られた女は、住所を変えた」

「なぜ」

「映像から住居区が特定された」

「顔は隠した?」

「隠した」

「服、階段、子どもの靴」

「残った」

「母は知った?」

「後で」

「何をした」

「謝罪を申し出た。女は会わなかった。映像の再放送を止めた。既に複製された分は止められなかった」

「それだけ?」

「住所変更費を払った」

「謝罪と金で終わった?」

「女に聞いて」

「連絡先を渡さないと選んでいる」

「なら聞けない」

「あなたは知っている」

「俺が知っているのは、灯里さんと俺がしたこと。女がどう終えたかじゃない」

 七瀬は薄墨を見る。

 彼はずっと、画面の暗い部分へ立つ。

 照明を避けているだけか。

 顔を見せない習慣か。

 どちらでも、今は撮らない。

「母は、映像を止めた」

「一部」

「寄付も増えた」

「救われた人もいる」

「それを言うと、女の被害を相殺する」

「言わなくても、救われた人は消えない」

「では、どう並べる」

「同じ画面にしない」

「逃げです」

「一画面へ入れると、視聴者が勝手に足し引きする。寄付三割増し、住所変更一件。数字を並べて、《全体では良かった》と言う」

「別々にすると、関係が見えない」

「だから、関係だけを記録する。片方で片方を消さない」

 薄墨は二本の透明糸を、フィルム片の間へ置いた。

《編集》

《結果》

「原因と結果を結ぶ。価値は足さない」

「あなたはいつから、そんなに慎重になったんです」

「慎重じゃない。映像を切るのが上手くなった」

「今も自慢?」

「今も嬉しい時がある」

「正直ですね」

「正直さを免罪にしないで」

「しません」

 七瀬は母の手が映る二番を見た。

「母は、指を二度拭く」

「あなたは三度」

「知ってるんですか」

「映像で」

「私を撮った?」

「公開映像」

「どれ」

「公開誓戦、列車、祝祭劇。あなたは恐怖が強いほど三度拭く」

「分析しないで」

「見えた」

「では覚えないで」

「それは約束できない」

 綺理と同じ答えだった。

 七瀬は腹が立った。

 同時に、少し安心した。

 自分の都合で記憶を消せない他人がいる。

「あなたの記録も競売にある」

 七瀬。

「九番」

「売りたい?」

「売りたくない」

「公開したい?」

「一部」

「母の加害を示す部分」

「俺の加害も」

「自分を罰したい?」

「罰は、視聴者がくれる拍手みたいで嫌いだ」

「何を望む」

「俺が切ったと残す。灯里さんの指示だけにしない。女の現在を見つけない。十五歳だったことを消さない。十五歳だから無罪にしない」

「全部は両立しない」

「だから鍵を分ける」

「あなたが持つと、あなたの都合で閉じる」

「あなたが持つと、あなたの都合で開く」

「綺理さんが持つと」

「閉じたことが正義になる」

 編集確認室の扉が叩かれた。

 競売所警備。

「確認時間終了。鍵を回収する」

 薄墨が黒い機械鍵へ手を伸ばす。

 七瀬も。

 二人の指が同時に止まった。

「誰が持つ」

 七瀬。

「今、持った方が逃げる」

「あなたは逃げる?」

「可能性がある」

「正直に言えば許されると思ってる?」

「思ってない」

「私も持てば、公開する可能性がある」

「知ってる」

 綺理が石英机の小型受渡箱を二人の間へ置いた。

 箱には三つの鍵穴。

「一つ目、七瀬。二つ目、薄墨。三つ目、匿名監査者」

「あなたは」

「箱を置く。開ける鍵は持たない」

「保管者なのに」

「保管場所だけ決める」

 警備がもう一度叩く。

 薄墨が鍵を箱へ入れた。

 七瀬も手を離す。

 綺理が箱を閉じる。

 誰も勝っていない。

 だから、少なくとも今は、一人で逃げられない。

 編集確認室を出る前に、七瀬は父への通信紙を一枚だけ書いた。

《三号機の送り歯音を確認したい》

 そこまでで止まる。

《母の記録が競売へ》と続ければ、父は来るかもしれない。

 来ないかもしれない。

 どちらでも、父の選択より先に、七瀬が母の競売を家族の事件へ固定することになる。

「送らない?」

 迅が廊下から聞いた。

「覗かないでください」

「扉が開いてる」

「換気です」

「人も換気される」

「その台詞、前にも使いました」

「記憶がある」

「売らないでください」

 七瀬は通信紙を折らなかった。

「父に聞けば、機材音は早く確かめられる」

「じゃあ聞け」

「母の記録があることも伝わる」

「それは困る?」

「父が見たいか、見たくないかを、まだ聞いていない」

「聞くために伝えるんだろ」

「伝えた時点で、母の記録が売られていると知る」

「知らない方がいいかもしれない?」

「それを私が決めるのも違う」

 迅は壁へ頭を預けた。

「面倒だな」

「記憶ですから」

「綺理の真似」

「便利でした」

「いつ送る」

「機材照合を、父の記憶だけに頼らず進める。その上で、父へ何を伝えるか別に決めます」

「遅い」

「速く間違えるよりは」

「遅く間違えることもある」

「知っています」

 最初の朝と同じ会話だった。

 同じ言葉でも、置かれた物が違う。

 あの時は母の見本容器。

 今は、母を知る父へ渡すかもしれない一枚の紙。

 七瀬は通信紙を《未送信》の封筒へ入れた。

 破棄しない。

 送ったことにもしない。

 家族だから知らせる、家族だから知らせない、のどちらにも急がなかった。

 七瀬は自分の撮影帳を開いた。

 昨日まで、表紙に《母の記録》と書いてあった。

 その四文字へ一本線を引く。

 消さない。

 下へ書く。

《記録にいる人》

 母も、その中の一人になった。

 少なくなったのではない。

 一人ではなくなった。