第353話 第七章「巴の反対」前編

反対は、会議の最後に言う言葉ではない。

 最初に置いて、そこから何をしてよいか決める言葉だ。

 一文字巴がそう考えるようになったのは、自分の正しい説明で、誰かを出口まで追い詰めた後だった。

 八月十四日、午前十時二十分。

 競売所の第四閲覧室に、十二の黒い札が並んでいる。

 表は無地。

 裏にだけ三つの回答。

《説明を受ける》

《説明を受けず拒否する》

《今は決めない》

 巴は、四つ目を書こうとしていた。

《説明の一部だけ受ける》

「増やすと、選べなくなる人がいる」

 綺理が言った。

「減らすと、合う答えがない人がいる」

「合わない札へ丸を付けさせる?」

「自由記入欄を付ける」

「書けない人は」

「口頭」

「話せない人は」

「手話、指差し、結び目」

「手を動かせない人は」

「視線」

「見えない人は」

「復唱」

「聞こえない人は」

 巴は手を止めた。

 綺理は意地悪で聞いているのではない。

 意地悪なら、もっと楽だった。

「方法を増やします」

 巴。

「人の数だけ?」

「必要なら」

「全部、あなたが確認する?」

「交代を置く」

「交代が間違えたら」

「記録する」

「間違いを直すため、本人へもう一度聞く?」

「はい」

「本人が、もう聞かれたくないなら」

 巴は鉛筆を置いた。

 右人差し指の副木が、机へ硬い音を立てる。

「あなたは、何も聞くなと言いたいんですか」

「違う」

「なら、どこまで」

「私が決めない」

「それでは手順が作れない」

「作らない手順を作る」

「言葉遊びです」

「あなたは言葉の人でしょう」

「だから嫌いです」

 綺理は小さな瓶を三本、机へ置いた。

 白い砂。

 青い石。

 空の瓶。

「説明の段階を、内容ではなく権利から始める」

「具体的に」

「まず、競売を続けてよいかだけ聞く。内容は言わない」

「何の競売か分からずに?」

《あなたに関係する可能性のある記録》

「可能性では、判断できない」

「判断しなくていい」

「またそれですか」

「最初に《止める》《進める》《今は決めない》だけ」

「進めるを選んだ人には」

「次に、閲覧条件を聞く」

「止める人には」

「それ以上、内容を言わない」

「本人でない可能性は」

「それでも止める。誤停止の損失は制度が負う」

「制度って誰です」

「競売所、出品仲介、保管庫、買い手。今まで利益を分けた人」

「連絡されたことで、過去を思い出す人は」

「最初の通知も選べない」

「矛盾しています」

「だから通知は、《記憶》という語を使わない」

「何と」

《あなたの同意が使われる手続きがあります。説明を受けますか》

 巴は唇を結んだ。

「それでは、何に同意が使われるか分からない」

「分からないまま、説明を拒める」

「拒否した結果、重要な権利を失うかもしれない」

「失わないように、手続きだけ止める」

「全員が拒否したら」

「全部止まる」

「医療費も」

「医療費は別にする」

「簡単に言わないで」

「簡単ではないから、あなたが必要」

 巴は眉を上げた。

「褒めても、こちらへ仕事を押しません」

「押していない。頼んでいる」

「断っていい?」

「はい」

「断りません」

「なら頼みます」

「その言い方は腹が立つ」

「知っています」

 第四閲覧室には、迅も七瀬もいなかった。

 凱も、真琴もいない。

 迅や凱を呼べば、議論は最後に二人の判断を待つ形になる。今日は、決めてくれる誰かを部屋へ置かなかった。

 巴は榊へ顔を向けた。

「あなたはどう思います」

「定義だけなら」

「逃げないで」

「逃げます」

「なぜ」

「俺が《正しい意味》を決めると、また扉になる」

「意見は」

「ある」

「言って」

《理解した》を入口にすると、理解を証明できる人だけが入る。《何も知らない》を出口にすると、知らないふりが一番強くなる」

「では」

「入口と出口を一つにしない」

 榊は壁へ四角を三つ書いた。

 一つ目、《連絡》

 二つ目、《説明》

 三つ目、《処分》

「連絡を拒否しても、処分は止まる。説明を受けても、処分へ同意したことにはならない。処分を選んでも、内容を閲覧したことにはならない」

「三段階」

「最低三段階。増やしてもいい」

 綺理が空の瓶を一つ目の四角へ置いた。

「連絡で、内容を入れない」

 白い砂を二つ目。

「説明は、本人が選んだ量だけ」

 青い石を三つ目。

「処分は、返却、共同保管、限定閲覧、破棄、偽物、保留」

「六つ」

 巴は書く。

「それに《分からない》

「七つ」

《他の当事者の回答を見てから》

「それは圧力になる」

「では見せない」

「見ないと、自分だけで決めたくない人が困る」

「見せるかどうかも選ぶ」

「増えましたね」

「あなたが始めた」

「後悔しています」

「やめる?」

「やめません」

 午前十時四十八分。

 第四閲覧室へ、段階同意の試験協力者が四人入った。

 全員、競売ロットの当事者ではない。

 手順だけを試す。

 一人目は、文字を読むのが遅い高齢の男。

 二人目は、言葉を発しない縫製工。

 三人目は、契約書を仕事で読む債務相談員。

 四人目は、説明を受けること自体を拒否した若い女。

 巴は四人へ同じ紙を渡さなかった。

 高齢の男には、一枚ずつ。

《あなたの同意が使われる手続きがあります》

「何の?」

《今、説明を受けますか》

「受けないと損する?」

《損する可能性はあります。説明を受けなくても、手続きは一時停止します》

「一時って、何日」

《今の案では二日。あなたが期限を変えたい場合は相談》

「二日で決められない」

《何日なら》

「分からない」

 巴は《分からない》を正式回答として書く。

「それで、どうなる」

《手続きは二日で自動再開しない。保管費の支払い方法を別に決める》

「誰が払う」

《まだ決まっていません》

「決まってないものを説明するのか」

《決まっていないと説明します》

「正直だな」

《安心しましたか》

「しない」

 男は笑った。

「でも、嘘よりは腹が立つ場所が分かる」

 二人目の縫製工は、手話を使わない。

 左手の指で、机を二度叩く。

 巴が用意した布札へ触れる。

 滑らかな白布――説明を受ける。

 粗い黒布――受けない。

 結び目のある青布――今は決めない。

 縫製工は三枚とも避け、自分の袖口から赤い糸を抜いた。

 机の角へ結ぶ。

 綺理が言う。

「ここにない」

 巴は頷く。

《赤い糸の意味を、言葉にしますか》

 縫製工は首を振った。

《意味を言わず、回答として残しますか》

 頷く。

 榊が記録欄へ、《赤い糸一結び。意味は本人非開示。処分停止》と書いた。

 債務相談員が異議を出す。

「意味が分からないものを手続きへ入れたら、後で争いになる」

 巴は字幕を返す。

《争いを避けるため、本人の回答を無意味に変える?》

「無意味とは言わない。ただ、法的効果を決められない」

《なら、効果を《処分を進めない》に限定する》

「本人が進めたい意味だったら」

 縫製工が赤い糸を二度引いた。

 否定。

「今のは、あなたが意味を推測した」

 相談員。

「本人が、あなたの文へ反応した」

 綺理。

「でも、それをずっと同じ意味として使う?」

「当日だけ」

 巴が書く。

《八月十四日限り。次回は再確認》

 縫製工は頷いた。

 三人目の債務相談員は、紙を全部読んだ。

《説明を受けず拒否》は、消費者が後から《知らなかった》と言う余地を残しすぎる」

《拒否した人へ、後で費用を請求しないための記録です》

「説明を拒否した責任は」

《何の責任》

「知らない選択をした責任」

《知らないことを選んだために、何を負う》

「機会損失」

《その機会を誰が提示した》

「競売所」

《競売所が売りたい機会です》

「本人にも利益がある」

《利益を知りたくない人もいる》

「それは合理的ではない」

 綺理が静かに言った。

「合理的でない人の記憶も、本人のものです」

「本人の選択が、家族の治療費を失わせる場合は」

「家族へ説明する」

「家族が反対したら」

「家族の反対を記録する。本人の同意にはしない」

「現実は、そんなに分けられない」

「分けられないから、一人へまとめる?」

「誰かが決めなければ」

「あなた?」

 相談員は黙った。

 巴は彼を悪役にしなかった。

 彼は毎日、返せない借金と、払えない治療費と、今日の食事を前にする。決めないことが人を救わない場面を知っている。

《決める仕事は必要です》

 巴は書く。

《ただし、《必要だから委任された》とはみなさない》

「では誰が決める」

《本人。本人が選んだ代理人。緊急時は範囲を限定した担当者》

「本人が決められない時」

《決められない理由と、誰が何を決めたかを残す》

「綺麗ですね」

《綺麗ではありません。遅いし、高い》

「それでも?」

《速く安く決めた時の代金を、後から本人へ払わせない》

 四人目の女は、入室した時から耳を塞いでいた。

 巴は声も手話も使わない。

 出口を示す白線と、説明なしで手続きを止める黒札だけを床へ置く。

 女は黒札を踏まない。

 白線にも進まない。

 壁際へ座った。

 五分。

 十分。

 巴の右人差し指が痛む。

 時間がない。

 試験協力の予約は三十分。

 巴は時計を伏せた。

 女は十五分後、床へ指で円を描いた。

 入口も出口もない円。

 綺理が、円の外へ小さな石を置く。

 女は石を円の中へ入れた。

 巴は紙へ書く。

《今は、この場所にいる。退出でも同意でもない》

 女が初めて巴を見る。

 頷く。

 試験終了時刻を七分超えた。

 受付係が扉を開ける。

「次の予約があります」

 巴は答える。

《この人は、まだ退出を選んでいません》

「試験です」

《試験でも、人です》

「部屋を空けないと」

《別室を用意してください》

「ない」

 榊が廊下の仕切り板を外した。

「ここを二つにします」

「消防幅が」

「九十センチ残す」

「許可は」

「施設担当へ今申請」

 巴は女を動かさず、部屋の方を変えた。

 それがいつもできるわけではない。

 できない時、誰を動かすかを記録する。

 試験結果は、成功ではなかった。

 高齢の男は期限を決めなかった。

 縫製工の赤い糸は意味不明。

 相談員は制度へ納得していない。

 若い女は予約時間を超えて座った。

 巴はその四つを、欠陥ではなく結果として残した。

「使えますか」

 綺理が聞く。

「使いにくい」

「では」

「使います」

「なぜ」

「使いやすい手順は、使う側に合わせてあります」

 巴は赤い糸の記録を一番上へ置いた。

 試験協力者が帰った後、机には四種類の失敗が残った。

 一人目には、期限の根拠を説明できなかった。

 二人目には、用意した触覚札が合わなかった。

 三人目の債務相談員は、条文を理解し過ぎて、自分の感情を回答から外した。

 四人目には、記録しない拒否を完全には保証できなかった。

「成功した項目は」

 榊が聞く。

「手続きが止まった」

 巴。

「四人とも?」

「はい」

「なら成功では」

「本人が望んだ形で止まったとは限らない」

「厳しい」

「あなたが以前、簡単な定義で扉を閉じたからです」

「俺だけ?」

「私も」

「なら少し公平」

「公平を免罪にしないで」

「今日はよく刺さる」

「指が痛いので、言葉が短い」

 綺理が冷却剤を机へ滑らせた。

「使う?」

「まだ」

「痛みを、誠実さへ使わないで」

 巴は冷却剤を受け取った。

 右人差し指の副木へ巻く。

 冷たさが、痛みを消すのではなく輪郭を変えた。

 午前十一時十二分。

 試験ではない最初の通知が届いた。

 ロット番号は伏せられている。

 対象者は、文字も音声も受け取りたくないと事前登録していた。連絡方法は、南市場の共同井戸へ結び目を一つ置くことだけ。

「通知内容は」

 巴。

「結び目一つ。《手続きあり》

 綺理。

「本人の回答は」

「結び目を外す――説明拒否。二つへ増やす――説明希望。そのまま――今は決めない」

「誰かが触ったら」

「井戸番が監視する」

「井戸番へ内容は」

「知らせない」

「結び目の意味は」

「知らせる」

「それで、対象者だと分かる」

「井戸を使う百人のうち一人、まで」

「十分に絞られる」

「他の場所は本人が拒否した」

 完璧な匿名はない。

 匿名のために連絡を諦めれば、本人は選べない。

 選べるよう連絡すれば、誰かに輪郭が見える。

「置きますか」

 綺理が聞く。

「本人が選んだ方法です」

「選んだ時、競売の具体的内容を知っていた?」

「将来、何らかの記録手続きが生じた時、とだけ」

「今の規模は」

「知らない」

「では選択は不完全」

「完全な選択まで待てば、何も始められない」

「あなたが言うと怖い」

「私も怖い」

 巴は南市場の井戸へ、連絡員を一人だけ送った。

 伝える物は、赤い糸一本。

 紙も、ロット番号も、期限も持たせない。

 連絡員の名は記録する。

 井戸番の名も。

 対象者の名は、巴も知らない。

 十一時三十一分。

 返答。

 結び目は、そのまま。

「今は決めない」

 榊。

「違います」

 巴。

「結び目が、そのままです」

「同じでは」

「本人が触れていない可能性がある」

「井戸へ来なかった?」

「来たかどうかを、井戸番へ聞けば輪郭が増える」

「では無回答」

「無回答とも決めない」

「何と書く」

 巴は迷った。

 空欄にすれば、元の契約が進む。

 《今は決めない》とすれば、本人が選んだことになる。

 《未接触》とすれば、井戸へ来ていないと推定したことになる。

 彼女は書いた。

《結び目の状態変化なし。本人接触・非接触を判定しない。手続き停止継続》

「長い」

 榊。

「短くして」

《変化なし。停止》

「それだと、誰の変化か消える」

「やはり長い」

 巴は長いまま残した。

 人間の不在を、簡単な回答へ変えないために、書類が一行増えた。

 正午の期限は近い。

 それでも、競売所の時計へ人を合わせるのではなく、時計が待てない責任を競売所へ書き戻す。

 巴は冷えた右手を机へ置いた。

 能力を使う前に、能力でできないことの方が増えていた。

 午前十一時四十二分。

 競売所から、最終規約の確定通知が届いた。

 十二ロットは翌十五日、午前十時より順次競売。

 規約への異議申立て期限は、本日正午。

 残り十八分。

 巴は通知を読んだ。

 異議申立ての書式は、競売規約への同意を前提にしている。

 同意した者だけが、同意へ反対できる。

「きれいですね」

 榊が言う。

「何が」

「輪です。入口と出口が同じ」

「褒めないで」

「昔なら作りたかった」

 巴は規約を壁へ投影した。

 第七十六条。

《本競売施設へ入場し、出品目録を閲覧し、説明会へ参加し、または異議申立てを行った者は、本規約の全条項を理解し同意したものとみなす》

 巴の右人差し指が、規約の文字に反応するように硬くなった。

 能力は、理解を強制するものではない。

 理解できた者だけが入れる扉を、一時的に作る。

 かつて巴は、それを誠実だと思っていた。

 読めない者を締め出す誠実。

 理解できない者を守るための締め出し。

 守られた人間が、外で何を失うかまで見なかった。

「使います」

 綺理が巴を見る。

「何を止める」

「一括同意だけ」

「競売は」

「止めない」

「所有者決定は」

「しない」

「分からない人は」

「分からないまま、同意扱いされなくなる」

「あなたの説明を受けない人も」

「入れる」

「それで、あなたの能力名は」

 巴は白い手袋をはめ直した。

「皮肉ですね」

 正午まで、あと十二分。

 巴は規約の全文を、声に出さなかった。

 手話にも訳さなかった。

 まず、第七十六条だけを指差した。

 理解できない人も、読まない人も、その場にいてよいように。

「読めた者だけ〈リード・イン〉

 白い光が、文章の周囲へ細い枠を作った。

 扉は現れなかった。

 代わりに、第七十六条の文字だけが、紙から一ミリ浮いた。

 巴には読める。

 榊にも読める。

 綺理は、半分だけ読めると言った。

 だが、理解した者だけが通れる門にはならない。

 巴が止めたのは、《理解したものとみなす》という働きだけだった。

 規約の他の条文は残る。

 手数料も残る。

 保管費も残る。

 出品契約も、前金も、医療費も残る。

 まとめ同意の札だけが、音もなく床へ落ちた。

 巴の右人差し指へ、熱が走る。

 骨ではない。

 腱が縮み、指先が掌へ引かれる。

 綺理が腕を取ろうとした。

 巴は左手で制した。

「触らないで」

「固定する」

「先に時刻」

 榊が時計を見る。

「十一時五十一分三十七秒」

 巴は左手で記録する。

《一括同意停止。所有、閲覧、複製、廃棄の決定なし》

 文字が震えた。

 右手の痛みで、左手まで乱れている。

 綺理が紙を押さえた。

「代筆しません」

「分かっています」

「紙だけ押さえます」

「それなら」

 榊が規約の下へ、自分の名を書いた。

《定義協力。最終解釈権なし》

 綺理も書く。

《保管協力。所有決定権なし》

 巴は最後に書いた。

《説明協力。説明受領の強制権なし》

 能力の光が消えた後も、巴の指は戻らなかった。