第354話 第七章「巴の反対」後編
右人差し指は掌へ引かれ、白手袋の中で爪が皮膚へ当たっている。
「開きます」
綺理が言う。
「自分で」
「左手だけでは副木を外せない」
「できます」
「時間が掛かる」
「期限は過ぎました」
「だから」
「急ぐ理由が減った」
巴は言い返せなかった。
綺理が手袋を切る。
榊は規約の紙を片づけず、巴の顔も見ない。
「見ないふり?」
巴が聞く。
「痛い人が、見られたくないか決めるまで待つ」
「さっきまで定義したがっていたのに」
「今は、何も定義しない方が役に立つ」
「成長しましたね」
「あなたに言われると腹が立つ」
綺理が指の付け根へ冷却布を巻く。
「痛み、十段階」
「六」
「能力前は」
「三」
「しびれ」
「なし」
「色」
「見れば」
「あなたの言葉で」
巴は自分の指を見る。
「赤。関節の内側が白い」
「休止」
「受付へ説明が」
「榊がする」
「最終解釈権は」
「持たないと書く」
榊。
「あなたの手話は」
「字幕を使う」
「誤訳が」
「後であなたが直せるよう、原文と並べる」
巴は椅子へ座った。
自分がいなければ説明が壊れると思うことも、通訳者の権力になる。
「十五分」
綺理。
「十分」
「医療者なら二十分と言う」
「では十五」
休む時間まで、交渉した。
それでも休んだ。
右手を使わない十五分間に、榊の字幕へ三つの修正候補が付き、綺理の手順へ一つの疑問が出た。
巴がいなくても、仕事は止まらなかった。
止まらないことを、不要になったとは呼ばない。
戻った時に、自分だけが知っている説明を少し減らす。
それも、反対を守る仕事だった。
正午。
異議申立て期限を告げる鐘が鳴った。
競売所の受付係が第四閲覧室へ来た。
「規約へ同意していない方の異議は、受け取れません」
巴は第七十六条を指す。
「同意しているとみなせません」
「では、異議資格がない」
「資格がない人の同意もない」
「どちらです」
「どちらでもない」
「手続きになりません」
「今からします」
巴は七枚の札を机へ並べた。
《返却》
《共同保管》
《限定閲覧》
《破棄》
《偽物》
《保留》
《分からない》
「内容を知らなくても、最初に選べる」
係員は困った顔をした。
「《偽物》は、内容を確認しなければ選べないでしょう」
「《偽物の可能性を調べてほしい》です」
「長い」
「人を短くすると、書類が楽です」
「皮肉ですか」
「説明です」
綺理が八枚目を置いた。
《連絡しない》
巴が九枚目。
《他者の回答を見ない》
榊が十枚目。
《ここにない》
係員が目を閉じた。
「十枚から選べと?」
「選ばなくてもいい」
「何のための選択肢です」
「合うものがある人のため」
受付係は紙を持って帰った。
午後二時。
最初の連絡札が戻った。
《説明を受けず拒否する》
誰の回答かは、綺理だけが知っている。
巴は内容を聞かなかった。
二枚目。
《今は決めない》
三枚目。
《ここにない》
自由記入欄には、一行。
《自分の分だけ消したい。他人の分は決めない》
綺理がそれを見て、長く息を吐いた。
「原本を分ける必要があります」
「技術的に可能?」
「できます。簡単ではない」
「費用は」
「高い」
「誰が」
「まだ決めない」
巴は笑った。
「その回答、便利ですね」
「あなたが正式にした」
「後悔しています」
「やめる?」
「やめません」
十七枚目の前に、同じ家から二枚の回答が届いた。
一枚は、《共同保管》。
もう一枚は、《他の人の回答を見てから》。
差出人の関係は、親子とだけ記されている。
「見せますか」
係員が聞く。
「誰の回答を」
巴。
「同じ家のもう一人」
「本人が、それを指定した?」
「《他の人》と」
「全員か、家族か、共同当事者か」
「書いていません」
「聞き直す」
「期限まで一時間」
「期限を理由に、家族の回答を見せない」
「見せないと決める?」
「違う。今は見せず、範囲を聞く」
榊が言う。
「《他の人》を、最も近い人と解釈するのは自然です」
「自然は、契約で一番危ない言葉です」
「同感」
「なら言わないで」
問い合わせは、文字ではなく二種類の鐘で送られた。
一度――家族の回答だけ。
二度――共同当事者全員。
三度――匿名集計だけ。
鳴らさない――今は見ない。
返答は三度。
匿名集計。
「家族の答えを知りたくない?」
係員。
巴は言う。
「知りたくない、とは回答されていません。匿名集計を見たい、と回答された」
「同じでは」
「家族へ関心がない、と決めない」
匿名集計には、《共同保管一》《分からない三》《返却二》だけを載せた。
親子のもう一枚がどこへ入るかは、本人へも知らせない。
結果を見た人から、次の回答。
《今は決めない》
巴は、その変化を家族の圧力とも、制度の成功とも書かなかった。
《匿名集計閲覧後、回答変更》
何を見て、何を恐れ、何を守ったかは、本人が言っていない。
人の心を、手続きの説明へ勝手に使わない。
夕方までに、十七枚の回答が戻った。
ロットは十二。
回答者は十七。
一つの記憶に、複数の持ち主がいる。
誰か一人の同意で全部を売ることはできない。
誰か一人の拒否で、他人の部分まで永久に閉じることもできない。
巴は右手を冷やしながら、回答札を分類した。
理解して選んだ人。
理解しないまま拒んだ人。
知らないまま保留した人。
言葉のない回答を残した人。
全員を同じ《同意》へ戻さない。
午後六時四十八分。
綺理が最後の札を瓶へ入れた。
瓶の蓋は閉めない。
「なぜ」
巴が聞く。
「まだ回答が増える」
「期限は明日」
「期限後に変わる人もいる」
「競売は待たない」
「人は競売より遅い」
巴は、開いた瓶を見た。
以前なら、締切に合わせて蓋を閉めた。
今は、開いたまま運ぶ手順を考える。
「こぼれます」
「二人で持つ」
「重い?」
「値札は付いていません」
「では、測れない」
「測れないものも、持てます」
巴は瓶の片側を持った。
右手ではなく、左手で。
綺理が反対側を持つ。
二人の歩幅は合わない。
合わせずに、こぼさない速度で廊下を進んだ。