第355話 第八章「競売場の乱闘」前編
拳で守れるものには、形がある。
形があるものは、拳で壊せる。
迅は、その二つが同じ物を指す時が一番嫌いだった。
八月十五日、午前九時五十八分。
蔵座記憶競売所の円形会場には、十二の容器が吊られていた。
中心の回転台から等間隔に伸びた十二本の腕。その先に、乳白、群青、錆色、薄墨の記憶容器。床から三メートル。下には入札席が三重の輪を作り、外周には出品者、取材対象、遺族、保管者の区画がある。
最前列の一席だけ、白い札。
《入札不可》
拒否を言うための席だった。
迅は座らない。
外周と内周の境目、床の金属継ぎ目へ立つ。
ここなら、十二容器まで最短六歩。
七歩目は回転台の上になる。
「数えるな」
七瀬が言った。
腰高の固定台へカメラを載せ、右手で焦点を調整している。左肩は帯で胸へ寄せられ、腕を上げない。
「まだ数えてない」
「床を見た」
「床は見る」
「七つの継ぎ目を見た」
「六つだ」
「ほら」
迅は答えなかった。
イオが回転台の下へ潜り、配線を確認している。真鍮の時間装具から、細い計測針を二本出していた。
「落としたら複製される」
イオが言う。
「落とさなくても複製される」
「違いは」
「落下は緊急保全扱い。百の受信口へ、自動で一片ずつ送る」
「百?」
「正確には百二十四。うち二十四は死んでる。だから百」
「死んでる口にも送れ」
「冗談?」
「生きてるふりをさせろ」
「その冗談、後で使う」
綺理が回転台の反対側から言った。
「容器を殴らない。腕を曲げない。吊り線を切らない。台を止めない」
「じゃあ何をしていい」
「人を近づけない」
「人は殴っていい?」
「持ち主が容器へ近づく場合もある」
「面倒だな」
「記憶ですから」
「記憶じゃなくても、人は面倒だ」
巴が字幕板へ打つ。
《競売開始後、規約第七十六条は停止中。入場は同意を意味しない。沈黙は入札でも拒否でもない》
凱は出入口側にいた。
旧白冠の外套は着ていない。灰色の作業上着。左膝の装具。胸の鐘も外してある。
「警備指揮は誰だ」
迅が聞く。
「競売所の警備長」
「おまえじゃない?」
「依頼されていない」
「乱闘になったら」
「俺は出入口の避難担当だ」
「偉くなったな」
「偉くなくなった」
「同じ顔だぞ」
「顔は職位で変わらん」
「王の時より少し眠そう」
「仕事が交代できるから寝た」
「良かったな」
「おまえも寝ろ」
「今言う?」
「今しか言うことを聞かない」
午前十時。
価が中央台へ上がった。
緑の上着。鉛入りの靴。腰には値札銃が二丁。
彼女は競売槌を持たない。
代わりに、小さな秤を置いた。
「十二ロット」
声が会場へ通る。
「全部、同じ方法では売りません。全部、売れるとも限りません。入札額は支払意思。正しさではない。拒否は価格に変換しない。保留は失格ではない」
入札席から声が飛ぶ。
「競売人が売る気をなくしたのか」
「売れないものを売ったら、次の客が来ない」
「道徳か」
「商売」
価は白い拒否席を見る。
「拒否、保留、分からない、連絡しない。全部、入札と別に記録する。ただし、既に発生した保管費、採取費、医療費は消えない」
七瀬のカメラが回り始める。
「撮影目的」
綺理が聞く。
「入札、拒否、警備行動の時刻確認。顔は同意区画だけ」
「公開範囲」
「当事者、監査、審理。一般公開は個別確認後」
「能力は」
「使う」
「いつ」
「記録が切られた時」
価が一番ロット《母の椅子》を読み上げた。
最低価格四十万。
入札板が点灯する。
四十五万。
五十万。
六十二万。
拒否席では、老女が座っている。
自分が椅子を売った本人だった。
「売りたい」
老女は言った。
「でも、落札した人が私の息子を探すのは嫌だ。椅子の記憶には住所がある」
価が答える。
「住所部分を閲覧不可にする費用、三万八千」
「誰が払う」
「落札者か出品者。折半も可」
「私は払えない」
入札者の一人が言う。
「私が払う。住所を除いた研究利用」
別の入札者。
「住所がなければ地域史の価値が落ちる」
価は秤へ三枚の札を置いた。
「住所を消す価格。残す価格。売らない価格。まだ比べない」
競売は止まったまま進んだ。
迅には、そう見えた。
値段が上がるたび、何かが決まるのではなく、決める項目が増える。
二番《右腕の終業》。
秋庭リクが拒否席へ座る。
「返してほしい」
研究者が言う。
「前金と保管費を返せますか」
「返せない」
「なら、私が費用を負担して共同保管を」
「共同って、誰と」
「研究所、あなた、競売所」
「研究所だけが読める?」
「匿名化して」
「俺が自分の記憶を見る時も、研究所へ頼む?」
研究者は答えに詰まった。
イオが内周から言う。
「現在の本人より、過去の右腕が偉い」
「そういう意味では」
「同じ意味を、丁寧にしただけ」
三番。
四番。
入札と拒否が重なる。
会場の空気は熱くなるが、まだ暴力ではない。
暴力は、たいてい空気ではなく、誰かの靴から始まる。
迅は外周右手の男を見た。
靴紐がない。
すぐ脱げる靴。
逃走用。
左手の女は、袖口が不自然に重い。
工具か短い刃。
上段の三人は、競売を見ていない。
吊り腕の接合部を見ている。
「凱」
迅は名前だけ呼ぶ。
凱は一度頷き、避難担当へ三人の位置を示した。
命令ではない。
「右上段三名、設備へ注視。確認を依頼する」
主語と範囲がある。
以前なら、《押さえろ》で終わった。
五番《借りた名字の夕食》が上がった時、最初の靴が脱げた。
男は靴を蹴り、裸足で内周へ飛び込む。
同時に左袖の女が刃を出した。
刃は人へ向かない。
吊り線へ向く。
上段三人が手すりを越える。
警備灯が赤くなる。
価が叫ぶ。
「容器を落とすな!」
迅は一歩。
裸足の男の右肩へ触れる。
殴らない。
肩を押し、進行方向を五度変える。男の手は五番の容器を掠めるだけ。
二歩目。
刃を持つ女の手首を、左肘で上へ弾く。
右手は使わない。
痺れた小指が刃へ巻き込まれるからだ。
三歩目。
上段から落ちてきた一人の腰を受け、床へ投げず、回転台の外へ滑らせる。
四歩目。
吊り腕が回る。
目の前へ六番が来る。
迅は退く。
源はどこだ。
男か。
女か。
上段の三人か。
容器を落とせば複製する仕掛けか。
入札者だけを中へ入れた制度か。
決められない。
五歩目は踏まない。
「左の黄色!」
イオが叫ぶ。
迅は意味が分からない。
「何が!」
「腕の根元! 黄色い輪を押せ!」
「押すと?」
「台が止まる!」
「さっき止めるなって!」
「今は止めていい!」
「先に言え!」
「今分かった!」
迅は床を蹴た。
七歩ではない。
回転台の支柱へ足を掛け、身体を水平へ投げる。黄色い輪へ左掌を叩きつけた。
台が止まる。
十二の容器が慣性で揺れる。
「止め方が急!」
綺理が叫ぶ。
「押せって言った!」
「三秒かけて!」
「書いとけ!」
「今書きます!」
吊り線が軋む。
上段の一人が七番の容器へ飛びついた。
容器は一メートル下がる。
落下検知まで、あと二十センチ。
七瀬がカメラを上げた。
左肩の固定帯が引かれる。
「無編集〈ワン・テイク〉」
映像と音が、会場の複数証者へ同時に結びつく。
誰かが後から切れば、切った痕が残る。
容器を引く手。
警備の動き。
価の指示。
入札者の退避。
拒否席に残る人。
全部が一続きになる。
その時、外周左の限定区画から、黄色い糸が強く三度引かれた。
綺理が見る。
字幕板が点く。
《撮らないで》
七瀬の目が揺れた。
能力は既に始まっている。
止めれば、その前後の連続性が切れる。
止めなければ、拒否を撮る。
七瀬はクランクから手を離した。
「停止、十時三十七分十四秒」
《無編集》が切れる。
能力の光が、細い断線のように消えた。
七瀬はカメラを床へ伏せる。
「撮影しない保護〈カメラ・ダウン〉」
レンズを下へ向け、限定区画の前へ自分の身体を置く。
「この線から左、撮影禁止。証拠は時刻、音、床振動、入退場記録で残す」
「映像が切れた!」
入札者が叫ぶ。
「本人が拒否した」
「犯人を逃がす気か」
「撮らないことと、追わないことは別です」
七瀬は腰の警報棒を抜いた。
カメラではなく、棒術で前へ出る。
右手だけ。
左肩を上げない。
限定区画へ向かった男の膝裏を叩き、足を止める。顔は見ない。伏せたカメラの死角へ、さらに身体を入れる。
迅は七番の容器へ飛びついた男を追う。
男が手を離した。
容器が落ちる。
綺理が叫ぶ。
「下から受けない! 衝撃が入る!」
「じゃあ!」
「横へ!」
迅は容器を抱えない。
吊り線の横へ足を掛け、落下方向を円弧へ変える。容器は床へ落ちず、回転台の支柱へ回り込む。
だが吊り線が擦れる。
火花。
落下検知が半分入る。
中央端末に《緊急複製準備》の文字。
「解除!」
イオ。
「どこ!」
「青い二本を同時!」
「手が足りない!」
「足でやれ!」
「そういう機械か!」
「違うけど、今は足!」
迅は右足と左手で、二本の青いレバーを同時に押す。
姿勢が崩れる。
背後から裸足の男が蹴る。
迅の右肋へ入った。
凱との公開再戦で、打撲が残った場所。
息が抜ける。
レバーから足が外れそうになる。
「殴れよ、七歩!」
男が叫ぶ。
「有名だぞ! 後ろへ下がれば強いんだろ!」
「説明が雑だ」
迅は左手をレバーへ残したまま、右踵で男の足の甲を踏む。
「痛っ」
「有名人に踏まれた記憶、売れるぞ」
「ふざけるな!」
「値段は価に聞け」
男の二発目を肩で受ける。
返さない。
倒せば、身体がレバーへ落ちる。
迅は打撃を受けながら、足の甲、膝、腰の向きだけを変える。男を回転台の外へ向ける。
イオが青いレバーのもう一本へ滑り込んだ。
「三、二、一」
二人で押す。
《緊急複製準備》が消える。
だが会場の反対側で、九番の吊り腕が切られた。
薄墨色の容器が落ちる。
価が値札銃を抜いた。
「値札!」
三度目の発動。
札は容器ではなく、中央の搬送輪へ貼られた。
競売全体へ集まった支払意思が重量へ変わる。
搬送輪が沈む。
九番の落下軌道を受ける床板が、重みで上へ反る。
容器は床へ触れる直前、反った板に乗った。
衝撃は消えない。
綺理が滑り込み、容器と板の間へ三枚の石英布を差す。
「価、重すぎる!」
「注目をやめて!」
「会場全員に言え!」
「皆、見ないで!」
誰も見ないわけがない。
落ちる記憶を前に、目を閉じる人間は少ない。
搬送輪はさらに沈む。
床へ亀裂。
価の靴底から、鉛の音が返る。
彼女の膝が曲がった。
「解除しろ!」
迅が叫ぶ。
「今外すと落ちる!」
「俺が受ける!」
「受けたら自動複製!」
「じゃあ何を!」
「値を下げる!」
価は入札板へ向く。
「九番の入札を停止! 価格をゼロへ!」
会場から怒号。
「契約違反だ!」
「払う意思はある!」
「止めたらデータが消える!」
「価値を消すな!」
価の顔が歪んだ。
「値段を下げても、価値は消えない!」
彼女が初めて、そう叫んだ。
入札板が一つずつ消える。
重量が減る。
搬送輪が上がる。
九番の容器は綺理の石英布へ静かに沈んだ。
九番が落ちかけている間、会場の外周では別の戦いが続いていた。
誰も拳を振っていない。
白い拒否席を、三人が同時に使おうとしていた。
老女は一番の住所を隠したい。
海老名サチは八番の売却を止めず、所有移転だけを止めたい。
五番の取材対象だと名乗る袖刃の女は、自分の顔が映る部分を今すぐ切り離せと叫んでいる。
「一席しかない!」
係員が言う。
「椅子が一つなだけです」
白戸依久が札を床へ下ろした。
「拒否は立っても言える」
「正式な発言は着席者だけ」
「その規則は、誰が座るかを決める規則です。拒否の有効性を決める規則ではない」
「混乱します」
「もうしています」
白戸は椅子を横へ倒した。
壊さない。
誰も座れない向きにする。
「何をする!」
「一席を三人で奪わせない」
「設備妨害だ」
「後で戻します」
老女が笑った。
「座らない席もあるんだね」
「今、作りました」
三人は白い札の周囲へ、別々に立った。
発言時刻を、白戸が一人ずつ書く。
順番は声の大きさではなく、危険の近さ。
袖刃の女が最初。
「五番の右端、青い皿が映る場所を止めろ!」
「本人確認は」
「今はできない!」
「暫定停止を申請します」
巴が字幕板へ出す。
《本人候補の拒否。照合まで該当部分を停止》
次に老女。
「住所を隠せ。売る話は、後」
サチは最後。
「八番を落とすな。息子が聞くかもしれない。でも、知らない人へ買わせるな」
三つの拒否は、一つの《競売反対》ではなかった。
凱は北口の避難列を止めず、発言区画の周囲だけ人を遠ざける。
「白戸、そこを離れろ。上から人が来る」
「命令ですか」
「避難担当からの警告」
「範囲は」
「白い札から二歩。五秒以内」
「代わりは」
「俺が記録する」
「あなたは当事者です」
「真琴」
凱が呼ぶ。
真琴は既に来ていた。
「二歩下がって。記録を渡してください」
「命令?」
白戸。
「床上の落下危険に関する現場指示。異議は避難後」
「受けます」
白戸が二歩下がる。
直後、上段から外れた金属札が白い席へ落ちた。
倒した椅子の背へ当たり、床を滑る。
誰も傷つかない。
「椅子を倒したの、正解」
迅が遠くから言う。
「結果で手順を正当化しないでください」
白戸。
「助かったのに?」
「次も倒せば安全だと思う人が出ます」
「面倒だな」
「前からです」
外周の人々は、回転台の戦いを見ていた。
だが、自分たちの足元で何を拒否したかも失わなかった。
容器を守る乱闘が、容器の中の人を黙らせたら、守った意味が逆になる。
真琴は三人の言葉を別々の紙へ書き、同じ白い札へ重ねなかった。
九番の容器が安定した直後、外周の清算係が中央へ走り込んだ。
両腕に、透明な帳簿箱を抱えている。
「入札保証金の原簿を移します!」
価が振り返る。
「誰の指示!」
「上階の会計責任者!」
「名前!」
「回線が切れて――」
清算係の背後から、別の男が箱へ手を伸ばした。
入札者ではない。
袖に競売所の旧警備章。
「原簿がなければ、返金できない」
男が言う。
「競売を止めるなら、保証金は没収だ」
「規約のどこ」
価。
「緊急保全条項」
「全体への同意は停止中」
「だから原簿を保全する」
男の指が箱の取っ手へ掛かる。
清算係が離さない。
箱が傾く。
中には紙だけではない。
前金、医療費、保管費、入札保証金を結ぶ認証板。壊れれば金が消えるのではなく、誰が払ったかを証明できなくなる。
迅が動こうとする。
「待って!」
価が値札銃を抜いた。
「値札〈プライス・タグ〉」
四度目。
札は帳簿箱の底へ貼りついた。
箱に記録された未清算額が、重量へ変わる。
五百十二万環。
透明箱が、二人の手から床へ落ちる。
落下ではない。
重さに引かれ、ゆっくり沈む。
床板が軋み、箱の四隅が金属継ぎ目へ食い込んだ。
誰にも持ち去れない。
同時に、清算係も旧警備員も手を離せず、肩を引かれる。
「離して!」
価が叫ぶ。
「指が挟まる!」
迅は二人の手首を下から押し、取っ手の角度を変える。指が抜ける。
「五百万がこんな重いなら、誰が払うんだ」
旧警備員が吐き捨てる。
「紙は軽いから、皆払えるふりをする」
価は値札銃を下げた。
「軽いまま持って逃げるな」
清算係が床へ座り込む。
「返金、どうするんです」
「箱はここで開ける。写しを三つ。入札者、出品者、外部監査」
「秘密情報が」
「金額と名前を分ける」
「時間が」
「止めた競売の後にやる」
旧警備員が価を見る。
「おまえは競売人だろ。売る側か、止める側か、どっちだ」
「帳簿側」
「答えになってない」
「売っても止めても、払う人が消えない側」
価の靴がわずかに沈んだ。
四回の発動。
物へ付けた値が、脚と腰へ蓄積している。
イオが気づく。
「もう使うな」
「あと一つ」
「四つ使った」
「人は数えない」
「次は使わない」
「命令?」
「医療上の依頼」
「断る」
「じゃあ記録する。《蔵前価、腰部負荷あり。五回目を希望》」
「嫌な書き方」
「止める?」
「……次は、必要なら」
「必要を自分一人で決めない」
価は返事をしなかった。
透明帳簿箱は、五百十二万環の重さで床へ固定された。
その周囲を、避難する人が回り込む。
金は人を動かす。
重くすると、人の方が道を変えた。
迅は箱の上へ足を置かなかった。
守るべき証拠であっても、踏み台にしない。
その瞬間、拒否席にいた男が内周へ飛び込んだ。
「俺の記憶だ!」
誰も止める資格をすぐには判断できない。
男は九番へ手を伸ばす。
価が反射的に値札銃を向けた。
「あなたの――」
言葉が止まる。
物ではない。
人。
この男が九番へどれだけ執着しているか。
どれだけ支払えるか。
どれだけ失うか。
価は、それを重さにしようとした。
「値札」
白い札が男の胸へ飛ぶ。
貼りつかない。
空中で反転する。
人の生命と人格へ、直接値を付ける発動は成立しなかった。
払われなかった重さが、価へ戻る。
彼女の靴底が床へめり込んだ。
腰が、くの字に折れる。
短い音。
木が割れたような音ではない。
石が内側で沈む音だった。
価は声を出さず、膝から落ちた。
「動くな!」
イオが叫ぶ。
迅は九番へ伸びる男の手首を取った。
「本人か」
「そうだ!」
「証明できる?」
「俺の顔が映ってる!」
「見るなって言える?」
「言える!」
「じゃあ言え!」
「見るな! 俺の部分を、見るな!」
綺理が九番の容器へ黒い糸を巻く。
「受付。本人候補の拒否。照合前、暫定停止」
男は容器を奪わなかった。
奪えば自動複製されると、今の説明で知ったからだ。
迅は手首を放した。
「触るな」
「俺のだぞ」
「だから、触る前に止める」
男は拳を握る。
迅も握った。
七歩を取らない。
拳同士はぶつからなかった。
外周では、凱が退避路を三つに分けていた。
「北口は医療。西口は入札者。南口は出品者と同伴者。走らない。従う必要はない、別の出口を選ぶ者は手を上げろ」
王命ではない。
だが声は通る。
人は動く。
凱は自分の声が効きすぎないよう、出口ごとに現地係へ主導を渡した。
七瀬はカメラを伏せたまま、床の振動を記録している。
撮影できない区画の代わりに、何時何分に何人が通ったか、どの扉が開いたか、音声だけを取る。
「見えない証拠は弱いぞ!」
誰かが叫ぶ。
「見せたくない人を弱くしない証拠にします!」
七瀬が返す。
肩の痛みで顔が白い。
それでもカメラを持ち上げない。
イオは価の腰へ触れず、脚の感覚を確認する。
「足先、動く?」
「動く」
「しびれ」
「ない」
「腰の真ん中?」
「一番目」
「番号で分かるの」
「値札が返った場所」
「能力診断は診断じゃない。担架」
「競売が」
「止まってる」
「止めたくない」
「動けない」
「貧しい」
「だから?」
「治療費」
「払う」
「誰が」
「競売所の労災、能力使用保険、あなたの報酬。足りなければ清算表」
「借りになる」
「借りを数えるのは治療後」
価は歯を食いしばった。
「手術は嫌」
「まだ手術って言ってない」
「切らないなら」
「画像を見て決める」
「十週間」
「自分で期間を決めない」
「硬い装具」
「医者に言って」
「高い」
「値段の話は得意でしょう」
価が笑おうとして、痛みで止まった。
医療班が担架を入れる。
彼女は拒否しなかった。
拒否しないことを美談にしない。
痛くて動けず、治療が必要だから受けた。
価を担架へ移す間、会場は三十秒だけ静かになった。
静かな時ほど、誰かが勝手に話を終わらせる。
「競売人が倒れた。中止だ」
入札者の一人が言う。
「責任者不在なら、規約どおり代理執行を」
別の係員。
「倒れた人を、欠席欄へ入れないで」
イオが言った。
「意識はある。判断能力は、痛みと薬の前後で確認する。代理を置くかは本人と競売所が決める」
「今、決められない」
「決められない状態を、代理同意に使わない」