第356話 第八章「競売場の乱闘」後編

 真琴が帳簿箱の隣へ、新しい紙を置く。

《競売人負傷。代理執行未決定。競売停止継続》

 旧警備員が呻いた。

「停止を誰が決めた」

「既に止まっています」

 真琴。

「誰が続けるかを決めていない」

「同じだろ」

「違います。止まっている状態を、誰かが所有しているわけではない」

 凱は医療出口までの道を空けた。

 価の担架が白い拒否席の横を通る。

 海老名サチが、椅子から立たなかった。

「売る人がいなくなったら、私の前金は」

 価が担架から答える。

「帳簿箱にある」

「あなたが病院へ行っても」

「ある」

「競売所が潰れたら」

「清算順位を公開する」

「今?」

「痛いから後」

「逃げない?」

「腰が折れてる」

「そういう意味じゃない」

 価は目を閉じた。

「逃げたい。でも、帳簿は置いていく」

 サチは頷かなかった。

「戻ってきて」

「治療後」

「競売人として?」

「分からない」

「その答え、使うのね」

「便利だから」

 担架が出る。

 残された入札者、出品者、警備員の誰も、価の負傷を自分の主張の証拠にできなかった。

 市場が危険だった証拠。

 拒否が混乱を生んだ証拠。

 能力が人を罰した証拠。

 どれも一部で、全部ではない。

 七瀬は担架を撮らず、通過時刻だけを書いた。

《10:49:06 蔵前価、本人同意のうえ医療搬送。競売継続・代理・清算判断は未決定》

 怪我人が運ばれた後も、怪我人の仕事を勝手に継ぐ者を置かない。

 それが、この乱闘で最初に守られた《空席》だった。

 午前十時五十一分。

 乱闘は終わっていなかった。

 殴り合いが減っただけだ。

 上段の三人は逃げた。

 裸足の男は警備へ身元を伝えた。

 袖刃の女は、自分が五番の取材対象だと主張している。

 限定区画の人物は移動を拒否。

 十二の容器は、全部会場内にある。

 原本は一つも奪われていない。

 中央端末が、低い音を鳴らした。

 イオが画面を見る。

「複製要求が出てる」

「落としてない」

 迅。

「落下検知じゃない。入札席からの閲覧予約」

「何件」

 数字が増える。

 二十六。

 三十九。

 六十二。

 八十一。

 百。

「競売は止まった」

 七瀬が言う。

「予約鍵は先に発行されてる」

 綺理。

「誰へ」

「百の受信口」

「さっきの緊急複製と同じ?」

「同じ道。違う名目」

 迅は中央端末を殴ろうとした。

 拳を止める。

 殴れば、保全機能が働く。

 価が言ったことが頭へ戻る。

 原本を奪っても、複製後の傷は残る。

「イオ」

「何」

「壊さず止める方法」

「今探してる」

「何分」

「三十六分で最初の送信」

「綺理」

「百を一つに戻せない」

「七瀬」

「受取人を確認する」

「巴」

「所有、閲覧、複製、廃棄を分けます」

「凱」

「会場を空にする。残る者は自分で名を出す」

 迅は拳を下ろした。

「俺は」

 誰もすぐ答えなかった。

 綺理が言う。

「容器を運ばないで」

「それだけ?」

「一番難しい」

 迅は、十二の容器から一歩離れた。

「運ばないなら、何を守る」

「人が勝手に運ばない状態」

 綺理。

「立ってるだけ?」

「近づく理由を聞く」

「答えない人は」

「通さない?」

「それを俺が決める?」

「決めない。仮に止めて、本人確認へ回す」

「仮って何秒」

「三十秒」

「三十秒で確認できなかったら」

「次の担当へ」

「次がいなかったら」

「私へ」

「綺理が倒れたら」

「巴」

「巴の指が」

「凱」

「膝が」

「全員、少し壊れてるな」

 迅は笑った。

「おまえも」

 七瀬。

「俺は普通」

「右手」

「動く」

「右肋」

「痛い」

「普通ではない」

「戦える」

「戦えると、壊れていないは別」

 迅は言い返さなかった。

 右手を一度開く。

 小指が遅れる。

「三十秒、止める。殴らない。容器へ触らない。源が分からない間は、七歩を取らない」

 自分の仕事を、自分の口で言った。

 凱が遠くから聞く。

「交代は」

「十分」

「長い」

「五分」

「右肋を診た医療者は」

「三分と言った」

「では三分」

「短い」

「自分の身体へ異議を出すな」

「俺の身体だ」

「だから、三分後におまえが決め直せ」

 迅は金属継ぎ目へ立った。

 今度は七つを数えない。

 三分を数える。

 拳を使わない仕事にも、終了時刻が必要だった。

 百の複製要求が、赤い点となって画面へ並んだ。

 迅の拳で消せる点は、一つもなかった。