第357話 第九章「原本を壊すか」前編
保管者が最も恐れる言葉は、《壊せ》ではない。
《念のため残しておけ》だ。
念のため、は期限を持たない。
期限のない保管は、いつか保管者の欲望になる。
八月十六日、午前八時十五分。
石英綺理は、蔵座記憶競売所の地下保管庫で十二の容器を見上げていた。
乱闘の痕は、床へ残っている。
搬送輪の下に亀裂。
九番の吊り線に擦過痕。
中央端末の青いレバーへ、迅の靴底の黒。
価が倒れた場所には、白墨で時刻と姿勢が記録されていた。
《10:42:18 腰部反証。下肢運動あり。移動禁止》
その下へ、イオの字。
《本人が治療費を理由に移送を拒みかけた。拒否は受理せず、説明後に本人同意で搬送》
拒否を受理しない。
それが必要な時もある。
意識があり、理解できる人の拒否なら尊重する、と簡単に言う人は、痛みの最中に何を理解できるかを一つに決めている。
綺理は十二の封印糸を確認した。
一番、白。
二番、赤。
三番、赤。
四番、赤。
五番、赤。
六番、黄と黒。
七番、黄。
八番、青。
九番、青。
十番、青。
十一番、黒。
十二番、黒と灰。
「色が増えましたね」
七瀬が言った。
彼女はカメラを固定台へ載せている。左肩の帯はさらに厚い。夜の間に炎症が強くなり、医療者から三十分ごとの休止を指示されていた。
「人が増えたので」
「容器は十二です」
「一つの容器に、人が複数います」
「母の記録にも」
「はい」
七瀬は十一番を見る。
黒い糸。
破棄希望。
「全部、壊す必要がありますか」
「まだ決まっていません」
「自分が映る部分だけ、と回答が来た」
「はい」
「技術的に分けられる?」
「できます」
「切った境目に、母の声があったら」
「切る可能性があります」
「母の声は、その人のものではない」
「その人へ向けて話した声なら、その人の記憶でもある」
「声の所有権を、聞いた人が持つ?」
「所有ではなく、聞かれない権利」
「聞いたことまで消せるんですか」
「他人の頭からは消せない。媒体からは消せる」
「私の母の声を」
「あなたの母の声を」
綺理は言い直さなかった。
七瀬はカメラへ手を置いた。
「怖いです」
「何が」
「母の声が、なくなること」
「まだ、他の記録があります」
「知っています」
「なら」
「一本減るのが怖い。正しい記録じゃなくても。母が間違ったことを言っていても。誰かを傷つけた声でも。私が聞いたことのない声が、聞く前になくなるのが怖い」
綺理は答えなかった。
保管者の答えは、たいてい《残せます》になる。
残せることを、残す理由にしてはいけない。
壁の通信板が点いた。
病院からの限定回線。
画面には価の顔だけが映る。身体は映さない設定になっている。背景の音から、硬性装具を合わせている最中だと分かった。
「診断」
イオの声が画面外からする。
「第一腰椎、安定型圧迫骨折。神経障害なし。手術なし。硬性装具十週間」
「勝手に発表しないで」
価が言う。
「本人の同意を今取った」
「いつ」
「三秒前。うなずいた」
「痛くて動いただけ」
「今、撤回する?」
「しない」
「なら記録」
価は画面へ近づいた。
「原本を壊して」
七瀬が顔を上げる。
「十二全部?」
「複製鍵が百。原本がある限り、真正性を盾に価格が上がる。偽物も本物の横に置かれると売れる。原本を破棄して、所有者ごとの複製だけ残す」
「競売人が商品を壊すんですか」
「売れないから」
「商売の失敗を、記録へ払わせる?」
「残せば、また売られる」
価は顔を歪めた。
腰の痛みだ。
画面外でイオが言う。
「話は五分。次は装具調整」
「八分」
「五分」
「私の競売所」
「今は病院」
「借りてるベッド」
「五分」
価が舌打ちする。
「全部壊せとは言ってない。真正性を一つへ集める原本をなくす。複製を各人へ分ける」
綺理が聞く。
「原本を壊す権利は誰にありますか」
「所有者」
「複数です」
「全員同意」
「連絡を拒否した人がいる」
「なら、その人の分は切り出して残す」
「分けた時点で、原本性が変わる」
「原本は神様じゃない」
「知っています」
「保管者は、たまに神棚を作る」
「競売人は、たまに値段を神様にする」
「昨日、神様に腰を折られた」
「人へ値を付けたからです」
「知ってる」
価は目を閉じた。
「人には付かなかった。安心した?」
「はい」
「私は、少し悔しい」
「なぜ」
「値を付けられないと、費用が消えるから」
「消えません」
「誰が払うか決まってない費用は、払われない」
「だから決める」
「原本を残して、その決定が間に合う?」
綺理は十二の容器を見る。
「間に合わせます」
「保管者の傲慢」
「競売人に言われたくない」
「言ってみたかった」
五分が来た。
イオの手が画面へ入り、通信を切る。
価は最後に言った。
「壊さないことも、選んで」
画面が消えた。
価との回線が切れた後、イオから一枚の検査表が届いた。
《原本破棄による再拡散リスク》
一、原本を壊しても、既存複製は消えない。
二、原本がなければ、偽物との照合が難しくなる。
三、原本がある限り、《真正》を価格へ利用される。
四、原本の一部だけを返却すると、残部の境界が新しい商品になる。
「全部、悪い」
迅が言った。
「選択肢は、良い物の一覧ではありません」
綺理。
「一番悪くないの」
「誰にとって」
「またそれか」
「毎回違うので」
七瀬は十一番と九番の容器を見比べた。
「原本があるから、母の編集を証明できる」
「原本があるから、取材対象の拒否を何度も再生できる」
綺理。
「複製へ拒否部分を入れなければ」
「原本へは残る」
「原本を封印する」
「封印を管理する人が増える」
「増やさなければ、あなたへ集まる」
「はい」
「あなたは、それが嫌」
「怖い」
綺理が自分から言ったので、七瀬は少し驚いた。
「何が」
「開けない判断を、私の性格へされること。私が慎重だから安全、私が死んだら危険、という保管」
「実際、あなたは慎重です」
「今日は粉を吸い、昨日は偽物の鍵に気づかなかった」
「失敗したから慎重じゃない?」
「慎重さを、設備にしない」
綺理は石英机へ、同じ大きさの空容器を三つ置いた。
一つに《原本》。
一つに《本人用写し》。
一つに《監査用指紋》。
「内容を三つへ複製するのではありません」
「では」
「本人用写しには、本人が許可した部分。監査用指紋には、改変判定に必要な並びだけ。原本には、残すと決めた部分だけ」
「原本を削る?」
「一体としての原本性は終わります」
「偽物が出たら」
「監査指紋と照合」
「指紋から内容を戻せる?」
「戻せない形にする」
「本当に?」
「完全には保証しない。技術が変わる」
「未来の技術に、今の拒否が負ける」
「だから、保管期限と再評価日を置く」
「何年」
「人による」
迅が三つの空容器を一つずつ持ち上げる。
「重さは同じ」
「空です」
「中身が入ったら」
「違う」
「見た目は」
「同じにしない」
「値段は」
「付けない」
「価が怒る」
「回復してから怒ってもらう」
七瀬は三つの容器を撮らなかった。
まだ提案でしかない。
提案を映像にすると、決まった仕組みに見えることがある。
「原本を壊すか、ではなく」
七瀬が言う。
「何を原本と呼び続けるか、ですね」
「はい」
「また、名前の問題」
「名前で、守る物が変わります」
迅は《原本》と書かれた空容器を机へ戻した。
「兄貴の偽物も、原本があるのか」
「偽物として作られた最初の媒体はあります」
「それを原本って呼ぶ?」
「呼びません」
「じゃあ、最初でも原本じゃない」
「はい」
「面倒だな」
「だから、十二番は壊さず照合します」
迅は頷かなかった。
ただ、《原本》の札を裏返した。
裏は空白だった。
午前九時。
限定照合室から黄色い糸が出た。
シキが参加する。
隣の医療回線には、藍と名取志保。
藍の顔は映さない。心拍数と、本人が選んだ呼称だけが表示されている。
《藍 84/分》
規則正しい。
「薬は」
綺理が聞く。
『七時十二分に服用』
藍の声。
「証言のために止めていない?」
『止めていない』
「不整脈の自覚は」
『今はない。覚えている。正しいとは言ってない』
「何を」
『投与された順番』
六番《青い薬包四十二》と、七番《灰色廊下の投与列》には、藍の薬歴が含まれている。
志保が言う。
『私は姉です。家族として、全記録を確認したい』
シキ側の黄色い糸が一度引かれる。
綺理は意味を読む。
「家族関係は、閲覧権ではありません」
『分かっています』
志保。
「分かっていても、見たい?」
『見たいです。あの時、私が探せなかった理由を知りたい』
藍が言う。
『私の薬歴は、私が見る。姉がいた場所の記録は、姉が見る。重なる部分は一緒に見るか、後で決める』
『枝里』
志保が法的な名を呼びかけた。
藍の心拍が九十六へ上がる。
黄色い糸が二度、短く引かれた。
綺理はすぐ言う。
「この回線では《藍》です」
志保が息を止める。
『ごめん』
藍は返事をしない。
謝罪を受け取る義務はない。
七瀬はカメラを回していない。
記録は、医療回線の心拍時刻と、綺理の封印帳だけ。
「六番と七番、どうしますか」
藍。
『限定閲覧。医療者一名、私、必要なら姉。研究利用は別に聞く。法的な名前は出さない。顔も出さない』
「廃棄は」
『今はしない』
「共同保管は」
『しない。共同って、誰が増えるか分からない』
「分かりました」
志保が言う。
『私の同意は要らない?』
「あなたが映る部分には要る。藍の投薬部分には要らない」
『家族なのに』
「家族だから、では決めない」
志保は唇を噛んだ。
『それでも、隣にいていい?』
藍の心拍が八十八へ戻る。
『今は』
限定閲覧が二つ、確定した。
六番。
七番。
ただし、六番の封印鍵に異常があった。
競売所外から、閲覧要求。
時刻、午前九時十七分。
「切ります」
綺理が言う。
イオの声が回線から飛ぶ。
『切ると緊急複製へ入る』
「では閉じる」
『普通の封印では、管理鍵が上位』
「本人へ確認」
綺理は藍へ聞く。
「六番を、一時的に私へ預けますか。私も内容を読めなくなります。消えません。あなたが返却を求めるまで、誰も読めない」
『どれくらい』
「時間は決められません」
『返してと言ったら』
「返却手順を開始します。すぐに読めるとは保証しない」
『あなたが死んだら』
「共同監査者へ移る。今は候補が三人。まだ決定前」
『嫌になったら』
「預かったことを後悔しても、勝手に開けません」
藍は心拍表示を見た。
『預ける』
「自発的な預託ですか」
『はい』
「姉の同意は」
『要らない』
志保は目を閉じた。
頷かなかった。
反対もしなかった。
綺理は六番の容器へ両手を添えた。
「預かり物〈セーフキープ〉」
透明な石英膜が、容器の内側から曇る。
鍵穴が消える。
文字も、波形も、封印長も読めなくなる。
内容は消えない。
綺理自身にも読めない。
《預かっている》という事実だけが、封印帳へ残る。
外部の閲覧要求が一度、二度、三度と弾かれた。
六番は沈黙した。
藍の心拍は九十二。
『静かですね』
「内容はあります」
『分かっています』
綺理の能力使用は、その一度だけだった。
能力を使った直後ほど、綺理は普通の手順を増やす。
特別な一度が、次の一度を呼ばないようにするためだ。
午前九時三十三分。
地下保管庫の西壁に、三つの小窓が開いた。
窓といっても、人の顔は見えない。こちらから見えるのは、手首までの手と、回答札を差し出すための細い棚だけだった。
一つ目の窓には、右手の甲へ古い火傷痕。
二つ目には、爪を短く切った左手。
三つ目には、毛糸の手袋。
誰がどのロットに関係するかは、綺理と本人側の照合者だけが知っている。七瀬にも、迅にも知らせない。
「これから、内容を見ない分類をします」
綺理が言う。
「見ないで、どうやって決めるんです」
毛糸の手袋が、文字板へ書く。
「容器の内容ではなく、あなたが何を許可したかを確認します」
「それで足りますか」
「足りません。だから、足りないと書きます」
七瀬は、腰の固定台からカメラを外した。
左肩を使わず、右手で机へ置く。
「撮影しないんですか」
火傷痕の手が問う。
「あなた方の手も、識別情報になり得ます」
「でも、後で言った言わないになる」
「時刻と回答札は撮ります。手は映さない。音声も残さない。字幕は本人確認後に二重照合します」
「全部撮った方が簡単でしょう」
「簡単です」
「なら」
「簡単な方が、あなたにとって良いとは限りません」
七瀬は黒い布を、三つの小窓の下へ垂らした。
札だけが布の上へ滑り出る。
綺理は五種類の箱を並べる。
《返したい》
《残したい》
《一部だけ見たい》
《消したい》
《今は決めない》
価が病院回線から言った。
『六つ目がない』
「何です」
『売りたい』
三つの窓が静かになった。
綺理は価を見る。
「今、この場で売却意思を募りますか」
『募らない。選択肢から消した理由を聞いてる』
「競売手続きは停止中です」
『停止中と、選べないは別』
毛糸の手袋が札を引っ込めた。
価は画面越しにも気づいた。
『今のは、私が悪い』
イオの声。
『珍しい。記録する』
『黙って』
『本人同意は』
『ある。今、自分で言った』
価は一度、息を整えた。
『売りたい人もいる。生活費が要る人。治療費が要る人。自分の記憶に、他人が値を付けるのを見たい人。売ることで終わらせたい人。だから、その欄を消すなと言いたかった』
火傷痕の手が文字を出した。
《私は売りたかった》
七瀬の視線が上がる。
《でも、住所まで売るとは思わなかった》
「売却範囲を言い直しますか」
巴が問う。
《今はしない。競売所と話す。ここでは決めない》
綺理は六つ目の箱を置いた。
《別手続きで売却を検討》
価が言う。
『それならいい』
「あなたがいいかどうかで決めません」
『知ってる。言ってみたかった』
普通の手順は、普通に面倒だった。
左手の窓は、四番ロットに含まれる声の一部だけを残したいと回答した。声の持ち主本人ではなく、事故当時、隣で聞いていた者だった。
「あなたは映っていません」
綺理が確認する。
《だから権利がない?》
「権利がないとは言っていません。何を守りたいかを聞きます」
《炉を止めろ、と叫んだ声》
「誰の」
《鉞谷の》
七瀬が息を止めた。
赤錆大工場の停止事件より前の記録だ。
《あの人は、昔から止めろと言えなかったことになってる。でも一度は言った。誰も聞かなかった》
「それを公開したい?」
《公開したくない。あいつを善人にする材料にも、悪人にする材料にもしたくない。ただ、消したくない》
「あなた自身は、何をした」
《聞こえないふりをした》
回答札が、黒い布の上で震えた。
《それも残ってる》
七瀬はカメラへ触れなかった。
「見返したいですか」
《今は見ない》
「共同保管を望みますか」
《本人へ返してほしい。私の声が入っている部分だけ、後で本人が許せば一緒に聞く》
「鉞谷へ連絡してよい?」
《所在地は知らせないで》
「連絡先を仲介へ預ける?」
《預けない。向こうから申請が来た時だけ、私へ聞いて》
綺理は札を二枚へ分けた。
《返却》と《接触保留》。一枚の善意へまとめない。
毛糸の手袋は、五番ロットに映る食卓の端を破棄したいと答えた。
《借りた名字は返した。でも、あの皿の置き方で家が分かる》
「皿で?」
タマキが、思わず口を挟んだ。
《毎月一度だけ、青い皿を欠けた方から並べる家だった》
「それを知ってる人がいる?」
《一人いる。いてほしくない》
「皿だけ消す?」
《食卓の右端。二十二秒》
「二十二秒を消すと、会話が飛ぶ」
《会話は返して。皿は隠して》
イオが端末を操作する。
「映像だけの遮蔽。音声は保持できる」
《音声にも皿を置く音がある》
「音だけ加工すると、原本性が変わる」
《原本であることより、家が分からないこと》
綺理は頷いた。
保管者にとって、原本性は守るべき状態だ。
所有者にとって、それは帰れない家への道標になることもある。
七瀬が言った。
「加工したことは残します。何を隠したかは公開しない。加工前は、本人返却まで封じる」
《あなたが決める?》
「提案です」
《それで》
提案が同意へ変わった時刻を、巴が記録する。
三つ目の窓が閉じた。
次の三人が入るまで、七分の換気。
綺理は粉塵計の針を見る。
規定内。
鼻の奥に違和感はない。
それでも、吸入器の位置を確認する。右手を伸ばせば届く。昨日までなら、確認したことを誰にも言わなかった。
「休憩」
七瀬が言う。
「まだ四十八分です」
「私の肩です」
「そうですか」
「あなたも座って」
「なぜ」
「一人だけ立っていると、休憩が仕事に見えない」
綺理は椅子へ座った。
価が画面から笑いかけ、腰を痛めて途中でやめる。
『保管者が休むと、記憶は逃げる?』
「逃げません」
『市場は逃げる』
「追うのですか」
『追う。走れないから、帳簿で』
価は端末の端へ、新しい欄を作っていた。
《売らない》ではない。
《今は売らない》でもない。
《売却判断を別手続きへ移す》
その隣に、《値を付けない》という空の欄。
「まだ早い」
イオが言う。
『何が』
「値を付けない欄。あなたは値を付けられなかった人へ腹を立てている」
『人じゃなく能力に』
「同じ」
『違う』
「治ってから決める」
『腰が治るまで十週。商売は十週待たない』
「身体は待たない商売に合わせない」
『元能力者が言うと説教』
「元だから言える」
凱が遠くでくしゃみをした。
「今、誰か俺を真似したか」
迅が答える。
「世界はおまえ中心じゃない」
「元王へ言うな」
「元だから言える」
三人分の笑いが、別々の場所で起きた。
誰も、同じ理由では笑っていなかった。
休憩が終わる。
綺理は三つの窓をもう一度見る。
閉じた窓にも、決めた人がいる。
次の人を入れるために、前の人の物語を片づけすぎない。
封印帳には、結論だけでなく、保留理由と拒否された質問も記した。
《内容を守る》では足りない。
《誰が、何を、いつまで決めていないかを守る》。
保管は、残す技術ではない。
勝手に終わらせない技術だった。
午前十時三十分。