第358話 第九章「原本を壊すか」後編
十一番の所有者候補から、破棄手順の最終回答が来た。
限定照合室の壁に、文字だけが出る。
《私が階段を歩く部分。子どもの顔。拒否後の声。灯里が戻るよう指示する手。全部消す。灯里が一人で映る前後は決めない》
七瀬が読み終えるまで、綺理は何も言わなかった。
「私の母の手も?」
文字が増える。
《私へ向けた手だから》
「声も?」
《私へ向けた声だから》
「その部分がなくなると、母が何をしたか分からなくなる」
《私が覚えている》
「あなたが、後で話したくなった時、証拠がなくなる」
《話したくなったら、私が話す。信じられなくてもいい》
七瀬の右手が、カメラのクランクへ触れた。
回さない。
「私は、見たかった」
《私は、見られたくない》
「母を守りたいからではない」
《私も、灯里を罰したいからではない》
「では」
《階段を、もう一度歩きたくない》
七瀬は目を閉じた。
「分かりました」とは言わなかった。
分かっていないからだ。
「破棄へ反対しません」
そう言った。
理解と、反対しないことを分けた。
十一番の容器は、分割台へ移された。
石英線が記憶の境界を探す。
顔。
声。
手。
歩行。
階段。
境界は綺麗ではない。
灯里の声へ、子どもの泣き声が重なる。
母親の足音へ、撮影機のクランクが重なる。
消せば、周囲の時間も欠ける。
綺理は七瀬へ聞く。
「前後二秒、残しますか」
「所有者へ」
文字が出る。
《残さない》
「音の境界が崩れます」
《崩して》
綺理は石英刃を下ろした。
細い粉が舞う。
ガラスではない。
記憶媒体を覆う、石英樹脂の粉。
鼻の奥が焼けた。
綺理は一度、咳をする。
二度目で、息が細くなる。
七瀬が気づいた。
「止めて」
「あと三秒」
「止めてください」
「境界が」
「あなたの呼吸より先に、境界を守らないで」
綺理の喉が閉じる。
視界の右側が白くなる。
弱視のせいではない。
酸素が足りない。
彼女は石英刃を離した。
七瀬が非常換気を押す。
巴が廊下から入り、綺理の雨衣を開く。イオは医療箱を持って走る。
「吸入」
綺理は首を振りかけた。
「拒否?」
イオ。
綺理はもう一度考え、頷く。
吸入器を受け取る。
一回。
二回。
呼吸を四つ数える。
吐く方を長く。
床へ座る。
「能力の反証?」
七瀬が聞く。
「違います」
綺理は途切れながら言う。
「粉。前から。右目も、関係ない」
「分かりました」
「記録して」
「撮りません」
「病状は」
「文字で」
七瀬は時刻と吸入回数だけを書く。
綺理が落ち着くまで、破棄作業は三十七分止まった。
止めた時間を、損失として隠さない。
午後零時十二分。
十一番から、指定された部分が切り離された。
所有者へ、最終確認用の波形だけが送られる。
《これ》
回答。
綺理は破棄箱へ入れた。
箱には、再生機能がない。
熱、薬品、磁気の三工程で、戻せない粒へする。
七瀬が見守る。
カメラは伏せたまま。
灯里の声が、一本消えた。
音はしなかった。
破棄機の表示が、《完了》へ変わるだけだった。
破棄完了の通知は、所有者へ三つの形で送られた。
文字。
振動。
無音の白灯。
どれを受け取るかは、本人が事前に選んでいる。
返ってきたのは、白灯を一度消したという確認だけだった。
「何か言いましたか」
七瀬が聞く。
「言葉の窓口は開かれていません」
綺理。
「私へは」
「連絡しない選択です」
「破棄したことだけでも」
「あなたは立ち会った」
「所有者が、今どう思っているか」
「聞く権利がありますか」
七瀬は破棄機を見る。
「ない」
「聞きたい?」
「はい」
「記録しますか」
「しません」
綺理は封印帳へ、所有者の感情欄を作らなかった。
代わりに、七瀬の立会範囲だけを書く。
《火群七瀬は、指定部分の破棄工程と完了表示を確認。所有者の氏名、所在、受領後の感情を知らない》
「知らないことまで書くんですか」
「後で、知っていたことにされないため」
「私が、知っていたふりをするかもしれない?」
「あなた以外が、あなたは知っていたと言うかもしれない」
七瀬は頷いた。
母の加害を記録する者として、取材対象のその後を知れた方が、記録はきれいに閉じられる。
赦した。
赦さない。
軽くなった。
何も変わらない。
どれか一つがあれば、映像は終われる。
所有者は、その終わりを七瀬へ渡さなかった。
七瀬は《分からない》のまま、破棄機の前に立った。
母の声が消えた後へ、他人の感情を勝手に録音しなかった。
七瀬は泣かなかった。
綺理も慰めなかった。
「なくなりました」
綺理が言う。
「はい」
「証明書は残ります」
「何が消えたかは」
「所有者だけが知る」
「私も一部知っている」
「知っていることは消せません」
「だから、母の加害は残る」
「あなたの中には」
「それで足りますか」
「誰にとって」
七瀬は答えなかった。
午後一時。
十一番の棚は空になった。
容器自体は残る。
中身は、所有者が破棄した部分を除き、他のロットへ移さない。原本一体という名前を終わらせ、破棄証明と、決められなかった前後の空白だけを封じる。
分類札には、《所有者による破棄》と書かれた。
十二のうち、一つ。
綺理は空いた棚へ、何も置かなかった。
記念札も置かない。
残ったのは、粉を吸い込まないために回り続ける換気扇の音と、七瀬が一度も再生しなかったカメラの黒いレンズだった。