第349話 第五章「複製禁止」前編
一文字巴は、説明すれば人は自由になる、と信じていた。
正確には、説明されなければ自由には選べない、と信じていた。
二つは似ている。
似ている言葉ほど、違いに気づくのが遅い。
八月十二日、午前九時。
蔵座記憶競売所の第二説明室には、四十一脚の椅子と、五十六人がいた。
椅子が足りないのではない。
座りたくない人が十五人いた。
出口に近いから立つ人。
他人の後ろに座りたくない人。
腰を曲げると昔の事故を思い出す人。
いつでも帰れる姿勢でいたい人。
巴は、立っている人へ椅子を勧めなかった。
勧めないことを覚えるまで、三年かかった。
正面の白壁には、競売規約が投影されている。
第十一条、落札者以外の複製禁止。
第十二条、原記憶保持者による再閲覧の制限。
第十三条、落札後の廃棄権。
第十四条、競売所の保全複製。
第十五条、所有者不明時の代理処分。
文字は小さくない。
読む時間が短い。
巴は左手で机を叩いた。
注意を引くためではなく、床へ振動を送るためだ。後方にいる二人の難聴者が、足裏で開始を知る。
右手の人差し指は、白い薄手の副木へ固定してある。南環市場の契約事件で負った腱の痛みは、治ったり戻ったりを繰り返す。今日は朝から戻っていた。
「説明を始めます」
巴は声を出さない。
手話。
字幕。
机上の平文紙。
質問箱。
四つを同時に使う。
通訳者が一人で全員へ届くと思うのは、王が一声で街を動かすと思うのと似ている。便利で、格好がよく、だいたい誰かを置いていく。
榊槙司が、壁際の細い台へ立っていた。
南環市場で契約を物理へ変えた男は、今も言葉を口にする前に、舌で上の前歯を一度触る。定義が歯の間から逃げないようにする癖だ。
巴が一枚目の札を上げる。
《所有》
榊が言う。
「保管場所を決める権利、他者への譲渡を決める権利、一定条件で廃棄を決める権利を束ねたもの、と規約は扱っています」
巴が二枚目。
《閲覧》
「内容を見る権利。所有と別にできます」
三枚目。
《複製》
「内容を別媒体へ移す権利。所有とも閲覧とも別です」
四枚目。
《廃棄》
榊は一拍置いた。
「媒体を読めない状態へする権利。人の頭から記憶を消す権利ではありません」
室内で、誰かが息を呑んだ。
巴はその音を聞けない。
だが、四人の肩が同時に上がったので分かった。
前列の男が手を上げる。
「待ってくれ。売れば、忘れられるんじゃないのか」
男は《赤錆炉の三分》の出品者だった。腕に古い熱傷がある。競売所へ記憶を渡した後、炉の事故を夢に見なくなると思っていた。
榊が答えようとした。
巴は左手で止めた。
本人へ平文紙を向ける。
《あなたは、何が起きると説明されましたか》
男は紙を睨んだ。
「抜き取る、と」
《どこから》
「頭から」
《誰が言いましたか》
「仲介人が」
《書面にありますか》
「《抽出》って」
巴は規約の該当箇所を拡大した。
《記憶像の抽出》
その下に小さな文字。
《生体記憶の消去を意味しない》
男は笑った。
「意味しないって、書いてあるじゃないか」
自分へ言っているのか、巴へ言っているのか分からない笑いだった。
「俺が読まなかった」
榊が首を振る。
「読めなかった文章を、読まなかった責任だけにしない方がいい」
「おまえは書いた側だろう」
「この規約は書いていません」
「同じようなのを書いたことは」
「あります」
「じゃあ同じだ」
「同じ部分があります。違う部分もあります」
「便利だな、違うって」
「便利に使ったことがあります」
榊は逃げなかった。
逃げないことが、免罪になるわけではない。
巴は次の紙を上げる。
《現在も夢に見ますか》
「毎晩だ」
《媒体が売れた後も》
「そうだよ」
《今、記憶媒体をどうしたいですか》
男の口が動いた。
答えは出なかった。
巴は待った。
三十秒。
一分。
後ろの誰かが舌打ちをした。
巴は見なかった。
「分からない」
男は言った。
巴はその言葉を、赤い枠の中へ書いた。
《分からない》
未記入ではない。
説明不足でもない。
今の回答だ。
蔵前価が説明室の後方から言った。
「分からないなら、契約は元のまま進みます」
巴は振り返る。
価の手には値札銃がある。
「なぜ」
榊が聞く。
「止める回答がないから」
「進める回答もない」
「既に署名がある」
「誤解を含む署名です」
「誤解が一つあれば全部無効?」
価は男を見た。
「この人は前金を受け取った。治療費へ使った。仲介人も働いた。保存庫も電気を使った。誰かの誤解だけで、他の仕事は消える?」
巴は字幕板へ打ち込む。
《仕事は消えない。契約を続ける義務と、発生した費用を清算する義務は別》
価が読む。
「別にすると、払う人がいなくなる」
《だから名前を分ける》
「名前で金は出ない」
《名前がなければ、同じ人へ全部乗る》
「乗る人が決まるから、仕事は動く」
《潰れるまで》
価は返事をしなかった。
彼女の靴底の鉛が、床へ小さな跡をつけている。
第二説明室の外には、十二のロットが通る搬送軌道がある。天井の細い隙間から、群青色の容器が見えた。
八番。
海老名サチの夫の声。
競売所の表示板には、現在価格百四十七万環。
サチは売りたい。
息子は聞きたい。
二人とも、他人に所有されたくない。
価は値札銃を抜いた。
銃口を容器へ向ける。
「値札〈プライス・タグ〉」
乾いた音。
白い札が容器の枠へ貼りつく。
百四十七万という支払意思が、重量へ変わる。
吊り軌道が呻いた。
八番の容器が二センチ沈む。
会場の注目が集まるほど、さらに重くなる。
これは価の二度目の発動だった。
「見て」
価が言う。
「売りたい人、聞きたい人、買いたい人、止めたい人。全部がこの重さ」
巴は札を見る。
《聞かれたくない人》
「それも入ってる」
《値を付けられない拒否は》
「価格にならない」
《では重さへ入っていない》
「入れ方がない」
《ないなら作る》
「誰が払う?」
巴は答えられなかった。
答えられないことを、相手の勝利にしない。
それも三年かかった。
午後一時十五分。
説明会は三つの部屋へ分けられた。
第一室は、出品者本人。
第二室は、取材対象と家族。
第三室は、入札者と研究者。
同じ説明をしないためではない。
同じ言葉を聞いても、失うものが違うからだ。
巴は第一室で、抽出と消去の違いを説明した。
男が一人、椅子を蹴った。
「忘れられないなら、売った意味がない」
《前金は何へ使いましたか》
「娘の義足」
《返せますか》
「返せない」
《なら、返せないことも書きます》
「書いたらどうなる」
《返済計画が必要になる》
「売るしかないじゃないか」
《売る選択がなくなるとは言っていません》
「じゃあ何をしてる」
《選んだと言える条件を作っています》
「条件が整うまで、娘は歩くなって?」
巴の右人差し指が痛んだ。
痛みは、正しい答えをくれない。
「今、義足はあります」
榊が言った。
「支払った仕事もあります。これから決めるのは、その費用を誰が負うかと、媒体を誰が持つかです。娘さんが歩いた事実は取り消しません」
「おまえは簡単に分けるな」
「分けないと、娘さんの歩行が、あなたの記憶を売る理由として永久に使われます」
男は黙った。
巴は紙へ書く。
《媒体の処分:分からない》
《前金の返済:一括不能》
《義足の所有:娘》
三行を別にした。
第二室では、綺理が机の前に立っていた。
透明な雨衣。
色の違う小瓶。
右目を少し細め、字幕板の左側だけを見る。
「説明資料を渡します」
巴が言う。
綺理は受け取らなかった。
「内容見本が入っています」
「本人確認のためです」
「全員へ同じ見本を見せる?」
「全員が自分の記録か判断するために」
「自分の記録でない人も見る」
「では個室で」
「自分の記録だと分かれば、その人は過去へ戻る」
「分からなければ、誰が所有者か確定できない」
「確定しないまま拒めるようにする」
「何を拒むのか理解しないまま?」
「はい」
巴は唇を読むため、綺理の正面へ回った。
「理解しない同意は無効です」
「同意ではありません。拒否です」
「拒否も選択です」
「選択だから、説明が要る?」
「必要です」
「説明を聞かされることを拒否した人は」
巴は止まった。
綺理は続ける。
「内容を知れば、思い出す。思い出せば、眠れない。名前を呼ばれれば、家族に見つかる。映像を見れば、自分が被害者だったと確定される。そういう人に、《理解するまで拒否できません》と言う?」
「言いません」
「今、言った」
「私は――」
右人差し指がさらに痛んだ。
巴は白手袋の中で、指を曲げようとした。
曲がらない。
榊が二人の間へ入らなかった。
彼は壁へ三つの語を書いた。
《知らない》
《聞かない》
《決めない》
「この三つを、同じにしますか」
巴と綺理へ聞く。
巴は首を振った。
綺理も。
「では定義する」
榊が言う。
「《知らない》は、内容または権利状態を把握していない。《聞かない》は、説明の受領を拒否する。《決めない》は、処分判断を今行わない」
「それで全部?」
綺理。
「全部ではない」
「なら、あなたの定義から漏れた人は」
「漏れた、と書く」
「言葉がない人は」
「言葉がないまま残す」
「あなたが決めない?」
「決めない」
榊は少し笑った。
「昔の俺なら、決めた」
「今も決めたそうです」
「とても」
巴は手袋を外した。
右人差し指の付け根が赤い。
綺理が小瓶を一つ差し出す。
「冷却剤」
「受け取ると、議論に負けた気がします」
「痛みを続けても勝ちになりません」
「あなたは、いつもそういう言い方を?」
「言い方を考えると遅いので」
巴は小瓶を受け取った。
冷たい。
正しいことと、冷たいことは別だった。
午後四時。
第三室で、研究者の一人が質問した。
「複製禁止がなくなれば、記憶は無限に拡散する。個人の拒否を尊重しすぎれば、医療研究が進まない」
イオが後方から答えた。
「進めたい研究のために、誰の生活を止める?」
「統計的に匿名化します」
「匿名化した人の顔を見せて」
「矛盾しています」
「匿名って言うと、顔が消えた気になるから聞いた」
「研究には母数が必要です」
「生活にも本人が必要」
「能力喪失者の治療ができれば、あなたにも利益がある」
イオは右腕の真鍮装具を見た。
「利益がある。だから、他人の拒否を売っていい?」
「売るとは言っていません」
「読むだけ?」
「研究利用です」
「便利だね。読むと研究、払うと購入、漏れると公益」
研究者は口を閉じた。
巴は議論を止めなかった。
入札者にも理由がある。
再発する反証を止めたい医師。
能力喪失者の就労補助を作りたい技師。
過去の英雄の恐怖を見たい観客。
死者の声を収集する趣味人。
自分と同じ症状を持つ人がいたと確かめたい患者。
全部を悪趣味にすると、拒否は簡単になる。
簡単な拒否は、簡単に裏返る。
イオは研究者へ、三枚の症例票を渡した。
氏名はない。
顔もない。
住所もない。
一枚目。
《十七歳。右上肢の強化消失。左腕に時刻装具。薬剤性不整脈》
二枚目。
《二十歳。群衆証者型。成人月に出力低下。左膝滑膜炎》
三枚目。
《年齢非公開。呼称のみ。投薬列に四十二包。不整脈治療中》
「匿名ですか」
イオが聞く。
研究者は一枚目を見て、イオの右腕へ目を移した。
「あなたですね」
「二枚目」
「獅堂凱」
「三枚目」
研究者は答えなかった。
答えないこと自体が、知っている可能性を増やす。
「氏名、顔、住所を消した」
イオ。
「症例が珍しすぎる」
「匿名化したと言った」
「不十分です」
「誰にとって」
「対象者にとって」
「今、やっと対象者って言った」
研究者は三枚を伏せた。
「では、症状を減らせば研究にならない」
「研究しない?」
「それでは治療が進まない」
「本人へ聞く」
「本人は、将来の患者全体を判断できない」
「研究者も、本人の夜を判断できない」
巴は三枚の間へ、細い札を置く。
《使用目的》
《使用者》
《閲覧期間》
《再識別の危険》
《本人が止める窓口》
「匿名かどうかを、一語で決めない」
研究者が言う。
「項目を増やせば、申請が遅くなる」
「遅れた理由を、研究計画へ書く」
「患者が待っている」
イオが自分の左前腕を示した。
「私も待った。だから、急いで他人を使う権利が増えたとは思わない」
「あなたは提供しない?」
「する部分はある」
「どこ」
「自分で決める」
「今」
「今は決めない」
研究者はため息をついた。
「あなた方の手順だと、データが集まらない」
「集まらないことも、結果」
「科学は結果だけでは進まない」
「生活も」
イオは三枚を回収した。
自分の症例票だけを残す。
「これは、私が後で考える。二枚目は凱へ。三枚目は本人の窓口へ。あなたには渡さない」
「同じ研究なのに」
「同じ研究だから、人も同じにはならない」
三枚の匿名票は、三つの経路へ戻った。
匿名という箱へまとめずに。
午後四時三十分。
巴は説明室の机から、規約をいったん全部下ろした。
代わりに置いたのは、五つの箱だった。
一つ目は鍵付き。
二つ目は透明。
三つ目は蓋だけ。
四つ目は底だけ。
五つ目は空。
「何の遊びだ」
赤錆炉の出品者が言う。
巴は札を置く。
《一 箱を置く場所を決める》
《二 中を見る》
《三 同じ中身を作る》
《四 中身を壊す》
《五 箱が空であると証明する》
榊が一つずつ指差した。
「一は保管。二は閲覧。三は複製。四は廃棄。五は破棄証明」
「所有は?」
「五つを全部持てる状態、と規約はしている」
「一箱なのに、五人で持つのか」
「持てます」
「喧嘩する」
「します」
「じゃあ一人でいい」
前列の女が言った。
巴は透明箱を渡す。
「中を見てください」
女が覗く。
小さな赤い紙片が一枚。
「次に、箱を壊してください」
「見ただけで?」
「所有者なら、廃棄も一緒です」
「嫌よ」
「では、見る権利と壊す権利を分けたい?」
「今のはただの紙でしょう」
「記憶なら壊せる?」
「もっと嫌」
「なぜ」
「見た人がいるから」
女は自分を指した。
「私の中に残る」
榊が紙へ書く。
《閲覧者の記憶は、媒体の廃棄で消えない》
別の男が鍵付き箱へ触れる。
「俺が箱を持って、別の人だけ中を見る?」
「できます」
「見た内容を俺へ教えたら」
「閲覧条件違反になる場合がある」
「口まで管理するのか」
「完全にはできません」
「じゃあ契約は意味がない」
「意味がない契約と、破られる契約は違う」
「破られたら同じだ」
「責任を追える」
「追っても、聞いたことは消えない」
「はい」
巴は簡単な答えを出さない。
簡単でないと認めることが、説明の一部になる。
後方にいた若い母親が、空箱を持った。
「これなら売れる」
「空です」
「私の記憶も、抽出したら空になると思った」
「頭は空になりません」
「知った」
「今、どうしたい」
「箱だけ返してほしい」
「中身は」
「見たくない。でも、他人に見られるのも嫌」
「破棄?」
「怖い」
「保留?」
「期限は」
「決められます」
「決めた日に、決められなかったら」
「次の期限を決めてもいい」
「ずっと?」
「費用は掛かります」
「ほら」
女は笑わない。
「決めないのにも金が掛かる。貧しい人は、早く決めるしかない」
価が後ろで腕を組んだ。
「その通り」
「競売人が認める?」
「保管棚、電気、監査、警備。無料じゃない」
「じゃあ、金がない人は忘れられないのに売る」
「今は」
「今は、ね」
巴は平文紙へ、新しい欄を作る。
《決めないための費用》
真琴なら、財源まで書けと言う。
ここにはいない。
だから巴は、自分で書く。
《出品手数料の一部を保留基金へ。競売不成立時も返さない》
価がすぐ反対した。
「入札者が減る」
《減る》
「売却額が下がる」
《下がる》
「出品者の取り分も」
《下がる》
「それでも?」
《保留できない市場は、売却を強制する》
「強制ではない」
《金がない人へ、今日決めるか保管費を払えと言う》
「保管費を誰かが払う必要はある」
《利益を得る全員で先に分ける》
「利益が出なかったら」
《競売所の固定費》
「潰れる」
《潰れない額を公開する》
「客が逃げる」
《逃げる客のために、本人を急がせない》
価は巴を見る。
「あなた、数字を嫌い?」
《好きです》
「そう見えない」
《数字が人の代わりになる時が嫌い》
「数字がないと、人の代わりに善意が働く」
《善意にも名前と費用を付ける》
「結局、値段」
《費用と値段を同じにしない》
価は答えず、箱を一つ取った。
底だけの箱。
「これ、何」
「廃棄権だけ」
「底しかないのに」
「壊す対象が来るまで待つ」
「嫌な箱」
「はい」
「でも要る」
「はい」
榊が、五つの箱の間へ六つ目の札を置いた。
《分からない》
「これは箱じゃない」
男が言う。
「箱に入れないための札です」
「いつまで」
「本人が変えるまで」
「死んだら」
「死後の扱いを決めていなければ、保留が続く」
「永久?」
「保管できなくなる時、もう一度問題になる」
「先送り」
「はい」
「悪いことじゃないのか」
巴は左手で答えを書く。
《先へ送る相手と費用を隠さないなら、保留は選択になり得る》
説明室の壁へ、五つの箱と一枚の札の影が並んだ。
所有を一つに戻せば、図は簡単になる。
簡単な図の外へ、何人が落ちるかを、巴はもう見ないふりをしなかった。
五つの箱を片づける前に、最後列の女性が立った。
年齢は分からない。
髪を白く染めているのか、白髪へ黒を残しているのかも分からない。
手には、説明会の平文紙が一枚もない。
「私は、説明を受けません」
巴は黒い札を一枚差し出す。
《説明を受けず拒否する》
女性は取らない。
「その札も要りません」
「拒否を記録するためです」
「拒否したことを、誰が読む」
「競売所、監査者、必要なら裁判」