第52話 第十二章「空席を残す」後編
「何の重さですか」
「褒め言葉一個」
「測ったことないでしょう」
「今決めた」
白戸は不満そうにしながら、左手の文を続けた。
小麦はその机へ、具のないスープを置いた。
塩は少なめ。
端パン一つ。
「頼んでいません」
「契約に入ってる」
「昨日分です」
「昨日、痛くて半分しか食べてない。残額」
「食事を残額で出すんですか」
「無料より安心でしょ」
白戸はスープを飲んだ。
最後の一口だけ、椀へ残す。
「残す理由」
小麦は一度だけ訊く。
「全部なくなると、選んだ時間まで終わる気がする」
「冷めるよ」
「分かっています」
「持ち帰り容器、二円」
「払います」
白戸は自分用の封筒を探し、見つからず、共同財布へ手を伸ばしかけた。
止める。
左のポケットから、小銭を三枚出した。
自分専用の金を持つと不安になる顔で、二円を払う。
小麦は一円を返した。
「三円出した」
「端パン、昨日の契約」
「では容器二円」
「一円」
「料金表は二円」
「紙容器じゃなく、洗って返す椀」
「返却保証は」
「あなたの名前」
「信用していないのに」
「返さなかったら請求できる」
白戸は一円を受け取った。
信用とは、逃げられない鎖ではない。
逃げた時に、次の言葉を送れる住所だった。
小麦はそれを口にしなかった。
名言にすると、料金が取れない気がした。
七月三十日 午後五時五十分
百人会議の閉会記録は、三日遅れで終わった。
採決そのものは二十七日に済んでいる。
だが、委任返却の確認、遠隔参加者の音声範囲、損傷費、少数意見、食事費、調理者の労働時間、侵入者の異議、白布認証の文面を一つずつ照合しなければ、結果だけが先に歩き出す。
体育館には、百人全員はいない。
公開確認へ来た者が二十七人。
音声参加が六人。
記録を見ずに結果だけ受け取ると選んだ者。
異議だけ残した者。
来ないと連絡した者。
連絡しなかった者。
それぞれの不在を、同じ棄権へまとめなかった。
中央を空けた白布が、床へ一枚広げられている。
中央の穴の周囲に、今回の復旧作業が書かれていた。
《目的 旧体育館の原状回復》
《期限 七月三十日十八時》
《構造責任 伏見轟》
《食事・労務記録 土門小麦》
《映像記録 火群七瀬》
《帰路確認 風祭澪》
《作業連絡 獅堂凱》
《実働補助 竜胆迅、環玉樹ほか》
《撤回窓口 本人申告。理由不要》
《未返却 なし》
「俺のところ、ほか、でいい」
迅が言った。
「実働補助として登録済みです」
真琴。
「番号札しか数えてない」
「扉の軸を入れました」
「三分」
「三分も労働です」
小麦が言う。
「工賃」
「いらない」
「また始まった」
「ボタン縫い代と相殺」
小麦は迅の学ランを見る。
一番下のボタンは、まだない。
「縫ってない」
「じゃあ借り」
「嫌いでしょ」
「嫌い」
「今夜、食堂。三円」
「高い」
「左肩へ合わせて裏布つける」
「右腕」
「服が片側へ落ちるから左も歪む」
迅は自分の上着を見た。
「二円」
「三」
「紅生姜つき」
「食事と取引しない」
「偉くなったね」
「おまえがうるさい」
「成立」
タマキが勝手に受領印を押す真似をした。
七瀬の固定カメラは今日は三脚の低い位置にある。
左肩を使わず、座ったままクランクを回せる高さ。
「画角、王席入ってる?」
タマキが訊く。
「右端に三分の一」
「全部じゃない」
「議事卓と九十七番席が中心です」
「王席、怒る?」
「椅子は復唱しません」
澪が言った。
右耳へ重要器具を寄せ、左手で閉会後の帰路図を持っている。
「閉会後、退出二路。西と南。北は修理済みだが照明確認前。残る者は十九時まで。復唱」
二十七人がばらばらに返す。
澪は一度で通さなかった。
「声が重なった。列ごと」
面倒だという顔もある。
それでも、全員が帰り方を知るまで繰り返す。
白戸は来ていない。
九人の委任者へ返答するため、共同宿舎に残ると連絡した。
反対意見の追記だけが、左手の文字で届いている。
《活動認証が非認証者を排除する運用になった場合、即時停止を求める》
字は傾いている。
署名は本人のものだと、真琴と宿の会計が証している。
小麦はその紙を賛成意見より下へ置かなかった。
同じ高さの板へ貼った。
真琴は先に、空席手続きの確定部分を読んだ。
「本会議では、本人確認、委任範囲、期限、撤回方法が明示された委任拒否を、当日の在席状態として記録した。沈黙は拒否とみなさない。恒久的な本人確認方法と、声・文字・映像を用いない意思表示は未決。未決であることを理由に、九十七番本人の今回の意思を消さない」
完成した規則ではない。
完成していない場所まで、議事録へ残す。
続いて、真琴が活動認証の最終文を読む。
「空白の旗活動認証。発効、七月二十七日十九時四十六分。失効予定、八月二十六日十九時四十六分。領土なし。永久代表なし。強制徴収権なし。作業ごとの責任者、証者、期限、撤回窓口を必須とする。認証を用いない者への不利益取扱いを禁止――」
「禁止の罰則」
反対席にいた女が訊く。
「暫定では、認証停止と利用記録の公開。損害賠償は既存手続き」
「弱い」
「記録します」
「記録だけで終わるな」
「終わっていません。罰則未完成と明記します」
女は満足しなかった。
満足しないまま、確認欄へ署名した。
賛成者が作った文へ、反対者の不満が残る。
それで文は少し長くなる。
真琴は以前なら、長さを美しさだと思った。
今は、読めなくなる危険も黒板へ書く。
《要約:白い布を使っても、街の代表にはならない。仕事ごとに、誰が何をいつまで行い、どこで断れるかを書く》
轟が頷く。
「持つ」
「何キロまでですか」
真琴が訊く。
轟は少し考えた。
「三十日分」
「重量ではありません」
「期限」
「比喩としては認めます」
「珍しい」
「成長ではなく妥協です」
閉会前、七瀬が一つの音声を再生した。
九十七番の本人が許可した範囲は、百人会議内と異議審査だけ。
これが会議内での最後の再生になる。
映像はない。
病室の機械音。
看護師の紙をめくる音。
少し疲れた声。
『切る。私は委任しない。席は空ける。今日中。撤回は私の声か、看護師の本人確認付き書面。音声は会議内だけ』
再生が止まる。
七瀬はテープを外し、封印袋へ入れた。
「公開複製には入れません。議事録には本人が許可した要旨のみ。原音は異議期間終了後、本人の希望を再確認します」
凱は王席を見なかった。
高い椅子は体育館の中央にある。
《着席者なし》の札が、空調の風で少し揺れている。
凱は低い議事卓に立ち、音声機へ向けて言った。
「あなたは、誰にも任せないと決めた。俺たちは、その決定を聞いた」
命令の声ではない。
謝罪の声でもない。
「礼を言う。ありがとう」
返事はない。
回線はもう切れている。
礼を言えば許されるわけでも、関係が生まれるわけでもない。
それでも凱は、本人の代わりに返事を作らなかった。
真琴が閉会時刻を書く。
「七月三十日、十八時零分。百人会議、閉会」
澪が帰路を開始する。
轟は白布から工具を外す。
七瀬はカメラを止める前に、誰も座っていない九十七番席を十秒撮った。
タマキが番号札を座布団から外そうとして、手を止める。
「どこへ返す」
「本人が体育館へ戻せと言った」
七瀬。
「会議、終わった」
「保管先は本人へ確認が必要です」
「じゃあ今日は」
「そこへ」
タマキは番号札を置いたままにした。
小麦は鍋帳を閉じる。
最後の頁に、自分の今日の欄がある。
《作業開始 四時五分》
《休憩 八時十六分〜八時三十六分 二十分》
《休憩 十三時二分〜十三時三十二分 三十分》
《作業終了 十八時零分》
空いている椅子を見ると、人は何かを置きたくなる。
花。
旗。
名前。
次の命令。
小麦は九十七番の座布団にも、王席にも、余った椀を置かなかった。
代わりに、自分の休憩欄へ丸をつけた。
空席を残すには、誰かが先に手を止めなければならない。